千百四十五 志七郎、獣の色街を知り生態を考える事
「この稜線を超えたら其処から先はもう翅妖精達の縄張りなのだ。何処に翅妖精が居るか解らないから足元や触れる物には注意して進むのだ」
スー族の集落を出てテノチティトラン王国方向へと進む事二日、其処から東へと折れて更に三日程進んだ所で、他の密林とも草原とも植生の違う地域へと足を踏み入れた。
下から見ると小高い丘の様に成って居る其の場所は、未開拓地域に降り注ぐ灼熱の陽光を受けて尚も艷やかな緑の光を照り返す下草に覆われており、更には季節感が狂う様な色とりどりの花々で彩られた楽園とでも形容すべき場所だった。
「此処はケツアルコアトル様の縄張りの中にある場所で、他の森林竜が餌場にする事も無い場所なのだ。そしてこの奥には大きな水場も有ってどの動物達に取っても良い餌場なのだけれども、翅妖精達が居るから平和で安全な場所に成ってるのだ」
これだけ見事に植物が生い茂って居り水場も有ると成れば、草食動物に取って良い餌場であり水場だと言う事は理解出来るし、集まった草食動物を狙う肉食獣に取っても良い狩り場で水場だと言う事も想像は付く。
けれども翅妖精と言う極々小さな生物が此の地を縄張りにして居るからと言って、何故此処が平和で安全な場所と言う事に成るのだろうか?
ソレは翅妖精と言う種族がありとあらゆる『雄』と呼べるモノならばどの様な相手とも繁殖しうる……と言う生態が関係してくる、言うならば此処は動物達に取っての『色街』の様なモノなのだ。
殆どの動物は発情期以外にそう言う欲求は無いと思われがちだが、実の所発情期と言うのは雌にしか無く、雄は発情した雌の放つ刺激物質に誘発されて性的興奮状態に成るのである。
つまり雄は何時ソレが来るか解らない状態なので、常に準備が出来ている状態である為、刺激さえされれば、何時でも臨戦態勢に入る事が出来ると言うなのだ。
比較的解り易い例が犬なんかの一部の動物が行う、上下関係をはっきりさせる為の行動と言われて居る『マウンティング』である。
雄犬が他の雄犬やぬいぐるみなんかに伸し掛かり、擬似的な交尾を行う行動を指す言葉だが、コレは犬同士の同性愛等と言う物では無く、自分は相手より上の存在であると行動で示す事で相手に屈辱と屈服を強いる行為なのだと聞いた覚えが有る。
俺は動物に付いて専門的に勉強した事は無いので正確な所は解らないが、犬の先祖である狼は基本的に群れで暮らし狩りをする動物で、アルファと呼ばれるボスだけが発情した雌に子を産ませる権利を持っていると言う様な話だった筈だ。
では他の雄に性的な欲求が無いかと言えば、恐らくは『有る』のだろう、そしてソレをボスに睨まれる事無く解消する手段が、自分より弱い雄を相手にするマウンティングなのではなかろうか?
兎にも角にも動物の世界だって雄は何時でも解消する事の出来ない欲が常に有ると言う事だ。
そして此処に来れば可愛らしい妖精さん達がソレを気持ち良く解消してくれると言う訳である。
理性の無い野生十割の動物達が、そうした事を頭で理解して居るのかどうかははっきりしないが、少なくとも此処で無体を働いた雄は群れに帰る事は出来なくなるし、群れで行動しない動物でも他の肉食獣に率先して狙われる様に成るのだと言う。
「人に取っても此処は良い狩り場に成り得る場所だけれども、翅妖精達を敵に回すのは密林中の動物を敵に回すのと同義なのだ。私が産まれるよりも可也昔に此処で狩りをした者が居た部族の血縁は今ではもう此の地に残って居ないと言えば其の怖さが解かるかな?」
此処が全ての生き物に取って中立地帯だと言うのには人間も含まれているそうで、此処で狩りをした者が部族の集落へと戻った時には、無数の肉食獣に本来ならば温厚な草食獣まで含めて暴れ回り集落に居た者は誰一人生きて居なかったのだそうだ。
「翅妖精ってそんなに怖い生き物なのですね……黒江ちゃんが畑を手伝っている姿しか見た事がないので知らなかったです」
くノ一の術とやらの教本を読んだ事で、幼いながらに性に付いてある程度知識が付いてしまったらしいお連だから、翅妖精の生態に付いてもなんと無く程度には理解して居るのだろう。
武光の契約している闇翅妖精の黒江は今の所、そうした繁殖活動の様な事をしておらず、礼子姉上の畑で花の蜜を飲みつつ手伝いをして居る姿しか見たことが無い為、ターさんの話で翅妖精の印象が少し変わってしまったらしい。
「まぁ此処は翅妖精の女王が支配して居る土地だからね、他所の翅妖精は多分此処まで統制は取れて無いんじゃぁ無いかな? 北の方で聞いた話だと、翅妖精は悪戯好きで子供を拐かす魔物だ……なんて話も聞いた事あるのだ」
ターさんが言う女王と言うのは、やはり知恵ある獣とされて居る霊獣なのだろう、もしかしたら黒江も此処から逸れた個体が攫われ火元国へと連れて来られた可能性も有りそうだな。
「ふむ……東方大陸の翅妖精は、此処の様に群生して居ると言う訳では無いな。何方かと言えば後から言っていた悪戯好きでは有るが悪意の無い隣人と言う感じだろうか? 仁王と成った织女様は極めて賢い個体だったらしいがね」
仁王は町や村と言った小さな単位の中で代表を選出し、その代表同士が討論をした後自分達の代表を選ぶ投票を行い、その代表者が更に広い範囲で集まって同じ様に討論をして代表を選ぶ、と言うのを繰り返し最終的に一人を選ぶと言う方法で選出される。
前世の世界の民主主義国家で行われていた一般的な選挙とは掛かる時間も手間も違い過ぎるが、此れは此れで民主主義的な方法と言えなくも無い……のか?
『多数決だけが民主主義では無い』と言う言葉も向こうの世界では何度も耳にした事が有るし、多分此れもまた一つの選挙の方法なのだろう。
それにしても……女性の選挙権と言うのは、向こうの世界だと近世以降に成ってやっと認められた割と先進的な権利だったと思うのだが、どうやら鳳凰武侠連合王国と言う国は武侠と呼ばれる者達が建国したにしては蛮勇の国と言う訳では無いらしい。
「と言うか翅妖精と一口に言っても東方大陸と此方の大陸では本当に同種の存在かどうかは解らないんじゃねぇの? 俺は北方大陸に一度行った事が有るが同じ名前の魔物でも習性に差とか有るのは普通だったしなぁ」
冒険者としては未だ若手に区分される筈のテツ氏では有るが、西方大陸の東部を経由して北方大陸まで行くと言う大冒険を経験した事が有るらしい。
その経験に依ると西方大陸の小鬼と北方大陸の小鬼では、群れの作り方や行動方針なんかに違いが有るのだと言う。
「小鬼の場合は此の世界へと来る前の世界が別って可能性も有るんじゃぁ無いか? 小鬼なんて其れこそ阿呆ほど湧いて出る魔物だし、複数の世界から来ていても不思議は無いだろさ」
此方の大陸に来てからも小鬼とは何度か戦ったが、火元国で戦った其れと見た目は然程差は無かったし、強さも変わりは無い感じでは有ったが、残念ながらその行動に差が有るかどうかまで気にしては居なかった。
とは言え動物だって人間だって環境の差で学習する内容に差が出るのは普通の事だし、然程不思議と言う程では無いと思う。
「他所の世界から来る魔物ならそうかも知れないが、翅妖精は此の世界で産まれた此の世界の生き物だよ? 同じ世界の生き物なのに其処までの差が出ると言うのは不思議な物なのだ」
しかし西方大陸南部の極々限られた地域しか知らないターさんに取っては、そうした差異は奇妙な物に感じられるらしい。
結局の所、人は自分で経験した事以外の事を理解するには、それ相応の努力や経験の積み重ねが必要だと言う事なのだろう。
そんな話をしながらも俺達は足元に注意しつつ稜線を超え、翅妖精達の住処へと足を踏み入れるのだった。




