百十二 志七郎、酔夢から目覚める事
「あら、しーちゃんやっと起きたのね。中々目を覚まさないから心配したのよ」
目を開けると丁度俺の顔を覗き込んでいた母上と目があった。
俺が目を覚ましたのは、あれからまるまる一日以上が経った五日の朝だった。
俺がこれほど長い時間眠ったのは御神酒に酔ったから、と言うよりは御神酒の力を以てしても即座に治癒出来ないほど身体に疲労が蓄積していたからだと、神様達が言っていたそうだ。
特に目の疲れは深刻で、ほおって於けば遠くない時期に視力を失っていたかも知れない程だったらしい。
氣は決して万能の力という訳では無い、氣を用いる事で通常の何倍もの腕力や脚力を発揮する事も出来るし、目に氣を集めることで動体視力を極端に高めたり眩しい光に耐えたりする事はできるが、それらによってダメージは確実に蓄積するのだ。
氣を体得して以来、必要有る無しに関わらず氣を纏う様にしてきたし、本を読んでいる時でも多少暗くなってきた位ならば、氣を使って視力を高め読み続けたりもしていた。
言われてみれば目を覚ましてから、妙に目の周りがすっきりとして居る様に思える。
「しーちゃんは大人になった過去世の記憶が有るから、その頃を基準に考えて色々としちゃうんだろうけれども、今はまだ六つに成ったばかりの子供なのだから、あまり無理をしちゃ駄目よ」
柳眉を逆立てる、そんな形容がよく似合う表情で母上がそう言い聞かせる様に言った。
「ご心配をお掛けして申し訳有りませんでした」
そう素直に謝罪の言葉を口にすると、母上は一寸寂しそうな悲しそうな、なんとも言えない顔で小さく一つ溜息を付いた。
「まぁ、そう言うなら良いわ。貴方は言って聞く質ですものね……、本当に猪山の子は皆揃いも揃って勤勉過ぎるのが問題ね」
「俺以外にも眠って居た者が居るのですか?」
さも頭が痛いと言わんばかりにこめかみ辺りを揉みながらの言葉にそう疑問を返す。
「貴方だけではないわ……うちの子は義二郎以外全員。家臣でも清吾に笹葉……それ以外の者も多かれ少なかれ……御神酒を頂かなければ今年一年本当にどうなったものか」
母上の話では、猪山藩の面々は前世で言う所の仕事中毒的な者が多いらしく、三六五日休みなく激務に向かうのが常なのだそうだ。
父上に随伴せず国元に残っている者達は流石に多少は休めているだろうが、江戸に居る者達は気を抜く暇も無いのが実状らしい。
若い内はそれでもまだなんとか成るが、父上よりも更に年配で文武両面で江戸猪山屋敷を支えている家老の笹葉は、その肩書通り過労状態にあったと言うのだから駄洒落にしても笑えない。
鈴木清吾の方も義二郎兄上を本気で打ち倒す為にかなり無理をして格上げに勤しんだ様で、御神酒無しに兄上と立ち会えば全力を出すことも出来ず命果てただろう、と武神 誉田様の見立だと言うのだから本末転倒な話である。
「まったく私が嫁に来てからもう随分と経つけれど、昔っからちっとも変わらないわ。千代殿にもよく言っておかないと……」
千代殿と言うのは確か仁一郎兄上の許嫁だったはずだ、兄上も御神酒の力で回復しきれない程にダメージを貯めていたと言うのだから、その妻に成る女性に注意を促しておくのは必要な事だろう。
「しかし、仁一郎兄上はそれほど忙しくしている印象は無いですが……」
本人に言うと流石に気を悪くするかも知れないが、そんな疑問がつい口をついた。
「あの子はお酒の呑み過ぎで臓腑が傷んで居たそうよ……」
深い深い溜息と共に母上はそう言い捨てる、それに対して俺は何の言葉も返す事が出来なかった。
「あん! あんあん!」
「うぁおーん!」
「きゅ~ん」
「うわっと! うっぷ……こら、やめ……やめなさい」
着替えて稽古場へと足を向けると、尻尾をちぎれんばかりに振りながら、猛烈な勢いで四煌戌が俺を押し倒し、3つの顔が代わる代わる顔を舐める。
「おお、やはり主が良いか。せっかく散歩に連れて行ってやったというのに、それがしにはちっとも懐く様子も無かったでござる」
突如ペロリスト達に襲撃された俺を見下ろしながら、そう笑っているのは御神酒で寝込まなかった兄弟唯一の人物、義二郎兄上だ。
三賀日が終わり昨日、四日には仕事始めで我が猪山藩も既に日常へと戻っていたそうだ。
俺が起きたのは一日遅れて五日の朝食前、朝稽古が終わった頃だったらしい。
「待て! お前達、待て! おすわり!」
なんとか四煌達のペロペロ攻撃から脱出した俺がそう言うと、尻尾は止まること無く振られて居るものの、命令通りビシっとお座りの姿勢で硬直した。
「流石は主従だのぅ。それがしが何を命じてもちっとも言う事を聞かぬのに、志七郎が命じれば一発でござるか」
そんな四煌戌の態度に兄上は感心した様に腕を組み頷いている。
兄上の言うとおり四煌戌は基本的に俺以外の命令を聞くことは無い、犬と言うか動物全般の扱いに長ける仁一郎兄上にも俺を通してでなければ従わないのだ、義二郎兄上が一日二日散歩に連れて行った所で従う様に成るはずもない。
「と言うか、よくこの子達を散歩に連れ出せましたね?」
「ん? そこはこう……生き物としての格の違いを解らせてだな……」
ああ、そういう事か……、流石は武勇優れし猪山の顔とも言える義二郎兄上、四煌達を力尽くで散歩に連れて行ったのか。
二日顔を見せなかっただけにしては、随分と大喜びするから何かと思えば、兄上の恐怖と言うか圧政と言うかから開放される喜びと言うのも多分に含まれていたらしい。
「兄上は御神酒で寝込まなかったそうですが、立会の準備は万全のようですね」
四煌達の頭を撫でてやりながらそう問いかけると、兄上は妙にアメリカンな感じに肩を竦めて首を降る。
「それがしは元々寝込むほど疲れて居らんかっただけ、むしろ清吾の奴が万全な状況で戦える様に成った事の方が重要でござる」
そして見せたのは例の如く獰猛な獣の笑み、流石に俺が動じる事は無いが兄上が放つ圧倒的なプレッシャーを感じ取ったのだろう、御鏡と翡翠は耳を伏せ、紅牙は唯一動じてない様な素振りだが三匹の意思は同じなのだろう、尻尾が股の間に丸まっている。
「兄上……氣が漏れております。この子たちには少々刺激が強すぎますよ」
そう声を掛けると、途端に肉食獣の笑みからいつもの人の良さそうな笑顔に変わる。
「ぬ? おお、いかんいかん……つい、な」
そんな笑顔のまま語り始めたその話に拠れば、兄上に取ってより強い相手との凌ぎ合いこそが最大の生きがい、そして何時の日か武神 誉田様を討ち果たす事が出来る様に少しでも強く成るその為に戦いに戦いを重ねる、それが兄上の生きる道だと語った。
「神の加護と言うのは、人生を決める程に重い物なのですか?」
兄上の一種狂信的にも見える語り口にそう問いかける、俺自身『死神さん』の加護を受けた故に浅間様から使命を与えられたが、他の兄弟にもそんな神から与えられた使命が有るのだろうか?
「んー、それは人それぞれでござろう。それがし以外にも誉田様の加護を受けた者は何人か見知っておるが、それがしほどに闘いに飢える者は居らんからの」
どうやら神の加護と言うのは必ずしもレアな物では無く、特に武神の加護というのはある程度武芸に身を入れている者ならば、後天的に授かる事もままある話なのだそうだ。
「恐らくはそれがしを打ち倒す事が出来たならば、清吾も加護を授かる事になるだろうの。まぁ、師匠は神の加護すら蹴っ飛ばしたと言う話だから、あのお方は本に化物でござる」
……流石は『一郎ならばしょうが無い』だな。




