千百三十 志七郎、夜警に安堵し野生を考える事
四煌戌の腹を枕にしてお連と共に毛布に包まった俺達は、何事も無く翌朝を迎える事が出来た。
「幾ら霊獣様が共に居るとは言え、夜警も立てずに全員で寝入るとは……密林を舐めているのかと思えば、真逆一風吹かせるだけでジャガーが逃げて行くとは思わなかったぞ」
朝日が登る前に起き出した俺達の動きで目を覚ましたらしいアヴェナナ氏が、呆れと欠伸混じりにそんな言葉を口にする。
スー族の集落に到着するまでの旅路で、四煌戌の索敵能力を十分に知っていたテツ氏とワン大人は夜間の警戒なんて考える事無く素直に睡眠を取った様だが、アヴェナナ氏は割と遅い時間まで警戒を怠る事無く起きて居たらしい。
其の結果、夕方見かけたモノと同個体かどうかは不明だが、黒豹が此方の様子を伺う姿を見たのだそうだ。
だが其れが俺達に対して襲って来る様な事は無く、四煌戌の首の内の一つ――恐らくは風の属性を司る翡翠だろう――が目を覚まし、軽く一声鳴くと同時に風が吹き抜けると、黒豹は怯えた様子であっさりと姿を消したのだと言う。
前世の世界では猫科に比べると大型の猛獣が少ない犬科だが、四煌戌の体躯は既に大型の牛をも越える大きさに育って居り、その体重は恐らく二百七十貫目を超えて居るだろう。
野生動物の世界だけで無く武の世界に置いても、体重や体格と言うのは立派な武器だ。
デカいだけで鈍い様な独活の大木と呼ばれる様な者だって、その体重と体格を活かして浴びせ倒しなんて真似をされたら、武の心得が無い者ならば割と簡単に押し潰す事が出来るだろう。
……まぁ武術と言うモノは、そうした先天的に強い者が暴威を振るうのに、弱者が対抗するべき編み出されたモノと言うのが原型だ、と前世の曾祖父さんに習った覚えが有るので、武術なんてモノの存在しない獣の世界では体格の良さは最強の武器と言える筈だ。
実際、麒麟や象に河馬の様な大型草食獣ならば、百獣の王と呼ばれる獅子が相手でも一対一で負ける事は滅多に無い。
獅子が百獣の王足り得るのは個の……一頭だけでの強さでは無く、群れる事が出来るが故に自分達よりも大きな獣を狩る事が出来、其れこそが他の個で生きる猫科猛獣とは違う点なのだ。
逆に言えば犬科の肉食獣が大型化する事無く繁栄し続けたのは、獅子同様に群れでの狩りに特化した進化をしたからなのだろう。
話が逸れたが四煌戌は前世の世界には居ない様な大型の犬科猛獣だが、この世界には山犬と呼ばれる犬や狼が歳を経て化ける事を覚えた妖怪なんかも居て、其れ等を込みに考えれば同等か其れ以上の存在が居ない訳では無い。
其れ故かどうかは解らないが、四煌戌の体臭は他の獣に取っても危険を匂わせるには十分なモノであるらしく、彼等と行動を共にして居る間は野生動物の類が近くに姿を現す様な事は基本的に無かった。
「此奴等は知性を持つ獣である霊獣なので、契約者である俺に取っては全く危険は無いですが、敵対者に取っては見た通りの巨大な猛獣ですからねぇ……その臭いを嗅いでも近付いてくる様な命知らずの馬鹿は野生じゃぁ長く生きれないんじゃないか?」
必要以上に大きな身体は動きを鈍くする……と言う様な印象が有るが、四煌戌は無駄に太って居る訳では無く、その体格に見合った骨格と筋肉を持って居り、生半可な武芸者では対応出来る様なモノでは無い。
実際、俺と四煌戌が身体を張って遊ぶと成ると、氣を全力でブン回して意識加速と身体能力強化を使わ無いと不可能なのだ。
つか、氣を用いても彼等が本気で俺を殺す気に成ったならば、多分蹂躙されるのは俺の方である。
向こうの世界では人間と呼ばれる生き物は知恵を得て道具を使う事が出来るからこそ、地上の覇権を握り海の底から天の彼方宇宙にまで手を掛ける事が出来て居た。
しかし其れは逆を言えば素手では多くの野生動物に劣る、弱い生き物でも有ると言う事だ。
俺が前世で生きた日本と言う国は、国内に解り易い猛獣と言うモノは少なかったが、其れでも猪や熊に羆と言った危険な獣は居なくは無かった。
其れ等の生き物と素手で相対して勝てる者が居るかと言えば、達人と呼ばれる様な武術家でも猪や月の輪熊を撃退は出来てる可能性は零では無いが殺し切る事は不可能だろう。
更に言うならば羆を相手にした場合、俺は刀を持っていたとしても相手するのは御免である。
身長六尺体重八十貫目程の猛獣は、人間が相手ならば掠るだけでも十分死に至るだろう銃弾を受けても、急所を外した場合には止まる事すら無く猟師に牙を剥く。
氣と言う超常の異能が使える今生の身体ならば、羆よりも大きな鬼熊を相手にしても何とか成るが、只人が刀を手に羆へと挑むのは率直に言って只の自殺行為である。
つまり羆を上回る体格を誇る四煌戌を相手に喧嘩を売るのは、人間だろうと野生動物だろうと鬼や妖怪に魔物だろうと、基本的に自殺行為で有り其れを判断出来ない馬鹿は早死にすると言う事だ。
無論、四煌戌が地上最強の存在で其れを使役して居る俺こそがこの世界最強の者だ! 等と驕って居る訳では無い。
前述した山犬は火元国に普通に生息する妖怪だが、奴等の大半は四煌戌よりも大型の犬や狼の姿を有して居り其れが群れで出現する上に、妖怪化した事で霊獣とはまた別の『知恵ある獣』となった奴等は統率された軍としての強さも持っている。
恐らく江戸州に出現しうる魔物の中で敢えて最強を決めるのであれば、山犬こそが其れに当たると思われる。
不幸中の幸いと言えるのは、今現在の山犬の女王である『白尾君』が人間に対して決して友好的な存在では無く縄張りへと踏み込んだ者を容赦無く食い殺すものの、其処から出て来て積極的に人間を害する様な事は無いと言う事だろう。
なんせ一度見た白尾君は今の四煌戌よりも更に大きく、その巨体を重力なんて物に縛られて居ない彼の様な素早さで動き回る事が出来るのだ。
ちなみにそんな危険な魔物が幕府のお膝元である江戸州内に居るにも拘わらず、其れを討伐云々という話が出ないのは、彼女達が縄張りに出現する鬼や妖怪を食い殺すと言う事と、彼等と取引する事で手に入る素材なんかの利益も有るからである。
「確かに……此れ程の獣を打ち倒す事が出来るモノがこの密林に居るとすれば森林竜位のモノだろうなぁ」
どうやらこの未開拓地域には山犬に当たる魔物は居ないのか、其れ共出現しても森林竜に打倒される対象と成ると言う事なのか、四煌戌に勝てそうなのは密林最強の竜種位なモノらしい。
「ほへぇ……ニャ―を散々追いかけ回してくれた、あの黒豹よりもこんな間抜け面の方が動物としての格は上なのかにゃ。まぁニャ―の様な理知的な動物は野生なんてもう欠片も残って無いし解らなくてもしゃーないのにゃ」
と、俺とアヴェナナの話し声を聞いて起きて来たらしいネフェルミウが、妙な感想を漏らす。
此奴も昨日、黒豹に散々追いかけ回されたらしいのに、夜には何の警戒もする様子も無く俺達の側でヘソ天に成って爆睡してたんだよなぁ……。
猫って本来は割と警戒心の強い生き物な筈なんだが、奴の言う通り知性を身に着けて色々と考える事が出来る様に成ると、逆に野生を失って行くと言う事なんだろうか?
いやでも……知恵ある獣である霊獣の四煌戌は、普通に野生的な感覚を持ったままなんだよなぁ。
まぁ敢えて言うなら、仕留めた獲物をいきなり生の肉を其の儘で食う程の野生は無い……か?
俺が居ない時でもきっちり皮を剥いで肉と骨を解体して、その他の食材と組合せて彼等の好みに調整しないと食い付きが悪いんだよなぁ。
旅の道中なんかでは干し肉で我慢して貰う様な事も有るが、基本的には江戸に送還して屋敷で食餌を取って貰って居る。
……此奴等の食い扶持を丸っと狩りで手に入れるとなると、本気で一日仕事だからなぁ。
「さて……四煌戌達は一旦送還して向こうで飯を食って来てくれ。食餌が終わった位にまた呼ぶから今日も一日頼む」
なんせ一日の食餌は大体五十四貫目程の肉や野菜が必要に成るんだ。
とは言え大型の食用魔物を狩る事が出来れば、一匹で賄う事も出来るんだけれどもな。
「「「おん!」」」
三つ首が綺麗に声を揃えて返事をしたのを確認し、俺は送還の為の呪を編み始めるのだった。




