百十一 志七郎と新春を寿ぐ神の宴
前話にて、睦に加護を与えている神に関する描写、台詞が抜けていましたので、その部分を追加しました。
当方の不手際によるものです、謹んで陳謝申し上げます。
「「「あそーれ、一気! 一気! 一気!」」」
皆が手拍子と共にそう囃し立てると、直径二尺程もある朱塗りの大杯が持ち上がっていく。
喉を鳴らしながらそこに注がれた御神酒を飲み干して居るのは、なんと下戸で有るはずの義二郎兄上で有る。
それと競う様に仁一郎兄上と、鈴木清吾そして天蓬様もまた大杯を煽っていた。
兄上の下戸だと言うのが実はポーズだった……という訳ではない、秘密は今飲んでいる『御神酒』の方に有る。
御神酒と言うと前世では神社や神棚等にお供えした後の、言わば神様のお下がりというだけで、酒その物は普通の日本酒だった。
だがこの世界では酒造りを司る神、酒神 松尾様とその配下によって作られた、文字通り神の酒なのだ。
これは酒を全く飲めない者でも美味しく飲むことが出来るだけで無く、滋養強壮、不老長寿、冷え性の解消や肉体疲労時の栄養補給と様々な恩恵を得る事が出来る、神秘の飲み物だと言う。
当然ながら通常人間が手に入れたり呑んだりする事など出来ない、超が付くほどのレアアイテムなのだが、今日はわざわざ神様達が振る舞ってくれて居るのだから飲まないと言う選択は無い。
ちなみに同様の物は外つ国でも『アムリタ』や『ソーマ』等と呼ばれる物が有るらしい、と言うのは後で屋敷で留守番しているお花さんに聞いた話である。
とはいえ、疑問に思う事もある。
「以前、大社様にお呼ばれした時には断ったのに、何故今日は歓待を断らなかったのですか?」
神々が御神酒を呷る義二郎兄上達に気を取られている隙に、俺は父上にこっそりそう問いかけた。
「そりゃワシ等は天蓬様の氏子で有って、大社様とは縁も縁も無いからのぅ」
そんな出だしから父上が説明してくれた事を纏めると、神様方は加護を与えた『加護の子』やその神様を氏神として祀る氏子達の功績やお賽銭を集め『功績点』して上司に奉納する義務があるのだそうだ。
その為、神様達は氏子や加護の子が多少無礼な振る舞いをした所で笑って許してくれるし、余程の事が無ければ罰を当てるなんてことも無い。
だが相手が縁も縁も無い神様で、尚且つ自身の氏神がその神様よりも格下だったりすれば、機嫌を損ねる事であっさりと命を奪われる事も有り得る話なのだ。
一万石少々の猪山藩の総人口は約八千その全てが天蓬様の氏子である、それに対して江戸の総人口は百万人、半分が国元に氏神が居る者達と考えても、氏子の人数その差は圧倒的で有る。
無論、ただ数が多ければ神としての格が上がるという物では無いらしいが、格を維持するには相応の『功績点』が必要なので、氏子の数≒神の格と考えて差し支え無いそうだ。
まぁその図式も土地を預かる土地神と呼ばれる神様方だけに通じる話で、今日この場に集まっている他の六柱の神様の様に『獣神』や『武神』と呼ばれる神様は又違った法則によって格付けされているらしいが、詳しいことは父上も知らないと言う話である。
「という訳で天蓬様や身内に加護を授けて下さっている神様からのお誘い、それも今回は我が藩の功績点が多かったが故と、歓待の理由も明らかなれば、それを断る謂れは無いのじゃ」
とそこまでを説明してくれた後、父上は手にした盃の中身を呑み干した。
「あら、猪河のご当主様、良い呑みっぷりです事、遠慮せず盃を重ねて下さいね」
と、そう言いながら父上に酌をしてくれたのは獣神 鹿角媛様だ。
幾重にも重ねられた純白の絹衣、それを持ち上げる豊満な胸元は母上や礼子姉上のそれよりも明らかに大きく、目の前で揺れるそれに父上の視線も釘付けである。
しかしこの神様主催の宴席にお呼ばれしているのは初詣に来ていた全員だ、つまりは母上もこの場にいる訳で……。
「お前様……、見目麗しき姫神様に眼を奪われるのは仕方の無い事かも知れませんが、もう少し取り繕って下さいませ、良い歳してみっともない……」
そう溜息混じりに言う母上は怒っている様子は無く、その言葉はさも呆れたと言う風だ。
「ばっ! おま、わ、ワシは別!」
と父上の顔は真っ赤にして言い返そうとするが、意味のある言葉になっていなかった。
主君の普段見せることのない狼狽した姿に一瞬皆が沈黙するが、その内容のあまりの下らなさに、何処からとも無く笑い声が上がった。
誰も、それこそ父上や母上すらもそれを咎め立てする事は無く、皆でこうして笑い合えるのが猪山藩猪河家の家風であり、俺はそれを誇らしく思いながら手にした盃に口を付けた。
ほんのりと感じる程度の甘い香りが鼻に抜け、一拍遅れてから舌の上をサラリと越え、喉の奥へと流れ落ちていく。
前世に呑んだ日本酒のそれとも違うジュースの類とも違う、味わった事の無いだが決して不愉快では無い甘みが余韻を残し……やがて消える。
「……ふぅ」
思わず溜息が漏れるが自分が吐き出したそれからも、微かに甘い香りがしたような気がした。
「ふぇっふぇっふぇっ、志七郎殿も中々に良い呑みっぷりじゃ。御神酒は子供が呑めば健やかに育つ事請け合いじゃての、たぁーんとお上がりなせぇ。こんな婆の酌では癪かもしれんがな」
そんな言葉と共に俺の空いた盃に再び御神酒を注いでくれたのは、礼子姉上に加護を与えた女神豊稲媛様だった。
「あ、有難うございます」
神様に酌をしてもらうと言うのは、恐らくは名誉ある事なのだと思う、それ故に俺は頭を下げながらそうお礼を述べる。
「なぁに子供が遠慮するもんじゃねぇ。人の酒と違ってどんだけ呑んでもええもんじゃてな。ほれ肴も食いなせぇ、得瓶さんが拵えた雲丹の塩辛うめぇぞぉ」
雲丹の塩辛だけじゃない、生鮑とわさびの肝和え、まる鍋――すっぽん鍋――に、鯛の昆布締めと、高級料理が並んでいる。
前世の感覚でも高価な素材だが、これらは此方の世界でもかなりの高級品だ。
そんな高価な素材を料理したのが料理の神である食神 得瓶様だというのだから、今を逃せばこの人生でもう二度と味わう事は無いだろう。
これらの料理を拵えた得瓶様は厨房で今なお料理を続けて居り、家の猫又女中達はかの神様の手伝いに走り回っている。
文字通り神の料理を味わい神の酒を呑む、これが猪山藩の昨年の功績に対する褒美だというのだから、豊稲姫様の言うとおり遠慮する必要は無いだろう。
ガツンっと鼻に抜けるわさびの味わいを御神酒で流せば心地良い……。
「いや、これは……酔ってるのかな? 気持よく……なって来ました」
御神酒はアルコールが合わない体質でも、子供でも問題なく呑む事が出来る魔法の酒ではあるが、どうやら『酒』だけあって酔いは回る様だ。
見回して見れば俺だけではなく、信三郎兄上や睦姉上の様な子供達は、皆一様に気持ちよく酔っているらしく、赤ら顔で締りなく笑っている。
「安心して酔いなせぇ。御神酒で酔うて目覚めたなら、身体の悪い所や弱ってる所、そんなんはぜーんぶ良くなってるからなぁ」
徐々に目の焦点が合わなくなって来た所にそんな声が降って来る、年老いた男性の声……きっと八心様だろう。
「左様、お前の身体はこの一年の無茶無謀で色んな所に無理がかかっておる。多少ならば兎も角幾ら何でもやり過ぎだ」
誉田様の厳格な声色、それでもその言葉に心配が篭っているのは理解できる。
「ゆっくり眠ると良い、猪山の子等……其方達は皆生真面目が過ぎる……、昨年中は色々と問題も多く起き、休まる時間も少なかったのであろうが……」
落ち着いた、須賀原様の声に導かれる様にして俺の意識はゆっくりと夢の中へと落ちていった。




