千百十四『無題』
今日も一日の業務を定時で終えて執務室を出る。
立場の有る者が率先して定時上がりをしなければ、下の者達が必要以上に残業しなければ成らないと言う空気が醸成されてしまう物だ。
そもそも残業と言うのは突発的な事由で、どうしても定時で仕事を終える事が出来なかった場合に、仕方なく特例として許可を受けて行うべき物であり、其れが恒常化する様ならば其れは管理責任者の無能と怠慢が原因だと言わざるを得ない。
残業もそうだが有給消化率の方ももう少し何とかしなければ成らない問題だな。
よし、来週一杯は私がどうしても出なければ成らない会議は無いし、運営上の業務も補佐が居れば何とか成るだろうし、彼が駄目でも補佐代理や、更にその後を継ぐ予定の補佐代理心得もいるので、いっその事溜まってる有給を纏めて消化してしまおう。
昨年末には東方の神々に対して、年度末に消える有給は必ず消化して置く様に言って、実際に彼等は其れを使ったにも拘わらず、取り立てて大きな問題は報告されていないし、私が有給を取る事で下の者達も有給が取り易く成る筈だ。
前回取った長期休暇では国許で今だに昇神せずに居る母の所で数日ぐうたらさせて貰ったが、今回は一寸何時もと違う場所に遊びに行くのも良いだろう。
と、そんな事を考えながらユグドラシルサーバー内に有るバースペースの前を通りかかると、昨年末の月防衛戦の際に亡命して来た死神メアートの姿が見えた。
「失礼、お隣よろしいかしら?」
オフの時間に直属の上司よりも更に上が臨席するなんてのは、彼女に取ってストレスに成る事かもしれ無い。
けれども私にはどうしても知りたい事が有ったので、そんな言葉を口にして返事を待つ事も無く、彼女が座るカウンター席の隣のスツールに腰を下ろした。
「こ、これは委員長閣下! 私の様な民を裏切った者の隣でよろしければ、どうぞお寛ぎ下さい!」
……どうやら彼女は自分が守護するべき民を裏切ってこの世界に亡命した事を後ろめたく思っている様だ。
コレは少しカウンセリングしておかないと、再び裏切ってこの世界を害する存在に成るかもしれない。
「マスター、シルバーワインの新酒をくれるかしら?」
そんな事を僅かに感じつつ、私は取り敢えず自分が飲むお酒を注文しつつ幾つかの話題の中から、彼女に投げかけるべき物を取捨選択する。
バースペースを管理する酒の女神であるマツオは、私が来た時点で其れを注文する事を予想して居た様で、待つ事無く出てきた其れを一口舐める様に呑む。
「うん、昨年のコレも相当出来が良かった様ね。人類達も中々にやるじゃない、年々良く成っているわ」
私は割と呑める方では有るが二日酔いし易い体質なので、基本的にお酒を呑むのは休日の前だけだ。
「……死神メアートに聞きたい事が有ったの。貴方は何故、この世界を攻めて来た他の神々を裏切り、自分の民を見捨ててまで亡命なんて言う危険な賭けに出たのかしら?」
亡命後の扱いなんて物は、此方に来てから初めて知る事が出来る事で有り、向こう側に居る時点で全てを捨てて亡命に賭けるなんてのは、本当に大博打でしか無い。
戦いに携わる神々の中には『負けたからには勝者に全てを委ねるのが敗者の在り方』として亡命して来る者も居るが、彼女の様に直接交戦に携わる訳では無い、後方担当の神が亡命して来ると言うのは極めて稀なケースなのだ。
「……私は、私の民に対して余りにも甘すぎたのだと思います」
そんな言葉から始まった話を纏めると、彼女は元いた世界では死だけで無く誕生も司る地母神とでも言うべき神で有り、其れを崇める民は皆彼女の子供だと言う認識だったと言う。
其れ故に彼女は民の求めや願いに応じて様々な奇跡を起こし、民の生活を安定させ繁栄させて来たのだそうだ。
其れだけを聞けば彼女が極めて『良い神様』をして居た様に思えるのだが、残念ながら彼女はやり過ぎたらしく、民達は努力と言う物をしなくなり、一部の者は神が与える様々な物を得られて当然と考える様に成っていったと言う。
そしてとうとう彼女の民は同じ世界を協力して治める他の神々の信徒に対して牙を剥いた……彼女が求めに応じて与えた神の金属を用いた武器を使って。
当然ながら其れは彼女の責任問題と成った、特に怒り心頭だったのはその武器を造った鍛冶の神がだったそうだ。
其れは世界樹を独占する者達を討つ為に造った物で、我が信徒の生命を無駄に散らせる為では無い……と。
我々世界樹を管理する者としては、そうした内乱でこの世界を攻める戦力が失われる事は、願ったり叶ったりな展開と言えるが、当の本神達に取っては笑う事も出来ない事態で有る事は想像に難く無い。
「あの世界で生と死を司るのは私だけでしたので、居なく成れば何時かは滅びる事に成るかとは思いますが……我が子の様に思っていた者達の思い上がりも、其れを諌める事の出来なかった自身の愚かさにも疲れてしまったのです」
成る程……うん、我が子を甘やかすと言うのは、残念ながら子供を産んだ事の無い此の身では全く理解出来ない感覚だし、私の母も実の子は勿論の事、孫や曾孫に玄孫……と数多居る子孫達に対しても厳しく躾ける方なので、恐らく血筋的にも理解は難しそうだ。
けれども恐らく南方大陸系に多い『身内に甘く他者には厳しい神々』と同様の気質だと考えれば、何となくその在り方に納得は出来なくも無い。
「成る程、大変だったわね。でも貴女は一度そうして大きな過ちを犯したけれど、其れを糧として次に繋げる事が出来る神だと私は思うわ。其れに此のユグドラシルには同じ職務を共有出来る多くの神々が居るわ、困ったなら独りで悩まず上長にでも相談しなさいな」
他の世界の神々がこのユグドラシルを狙うのは、世界の全てを手作業で運営しなければ成らない激務を緩和する……と言うのが目的だとは前任者からも聞いては居るが、私は此の世界しか知らないので、他の世界の運営がどれ程厳しい物なのか今一つ理解出来て居ない。
けれどもこうして異世界の神だった彼女の話を聞いて一つ理解出来たのは『妊娠と出産の守り神』である『妊神』と『死者を導く神』である『死神』の業務を、他の世界ではたった一柱で兼務しなければ成らなかったと言う事実だ。
ユグドラシルは何処の部署も猫の手も借りたい位の激務で、楽をして居る神など一柱も居ないと断言出来る極めて過酷な職場だ。
だが其れだってユグドラシルの機能を使う事で様々な事が電子化され、手作業に比べたら圧倒的に作業に掛かる手間は少なく、同じ仕事量を終わらせようと思えば十倍近い時間が必要に成ると思う。
手作業で世界を運営して居る他の世界から亡命して来た神が、此の世界の生粋の神では無い他種族から昇神した神に比べて優秀な者が多いのはある意味では当然の事なのかもしれない。
角言う私自身も産まれながらの神では無く、不法接続者だった両親の影響でユグドラシルを使って遊んでいた所を前任者に捕まり、嫌々ながら昇神しただけの木端の神だった筈なのに、今ではいつの間にやら偉く成ってしまった。
多分、素の能力だけで言うのであれば、彼女は私よりもずっと優れた存在なのだと思う。
彼女を元々信奉して居た民は彼女に見捨てられて可哀想だとは思うが、与えられる物を享受するだけで恩返しの様な事もしなかった様な傲慢で蒙昧な者達だった様だし、必要以上に同情する気は起きない。
彼女の様に極端な例じゃ無くて良いので、戦い系統以外の裏方の神々が亡命して来れる機会を何とか増やす方法を考える必要が有るかもしれない。
何なら滅びた世界の神や滅びる寸前の世界の神なんかも取り込む事が出来れば、神の手不足を解消する一助に成るだろう。
そんな事を考えながら死神メアートの愚痴を引き出しつつ盃を重ね、翌朝二日酔いの頭痛でのたうち回る事に成るのだった。




