千百十二 志七郎、黒い労働を思い黒い上司を討ち取る事
ターさんとアヴェナナ氏が放った投げ槍は、狙いを誤る事無くアーマーンの両の目を貫いた。
其れ自体であの巨大な化け物を倒す事が出来る程の被害を与える事が出来た訳では無い。
二人が投げた槍は体格に比して考えるならば、人の身体に爪楊枝が刺さった程度でしか無いのだ。
「GyaooooooN!?(ぎゃぁぁぁぁああ!?)」
けれども当たった場所が目玉と成ると話は大きく変わってくる。
大概の生物がそうで有るように、眼球と言う物は車厘状の蛋白質の塊で、どんなに硬い外皮や鱗に覆われた魔物でも、此処だけは限りなく脆いのが普通なのだ。
しかも其れは外界を感知する為に必要と成る感覚器の中でも割と上位の重要性を誇る視覚に直結する大事な器官である。
人間でも爪楊枝を眼球に突き刺す様な真似をすれば、高い確率で失明する事に成るだろう。
今目の前で暴れているアーマーンが該当するかどうかは解らないが、強靭な生命力を持つ魔物の中には眼球を潰されたとしても、其の内再生する様な化け物も居るとは聞くが、少なくともこの戦闘中に回復すると言う事は無い筈だ。
とは言え犬や猫の様に視覚よりも嗅覚や聴覚の方が発達していて、視覚はその補助に過ぎないと言う様な生き物も居るのだから、目を潰したから此方の行動が全く向こうに解らなく成ると判断するのは早計だろう。
「ドグルゥゥウウアア! グルルグァァァ嗚呼!(たかが目をヤられた位で! 鎖を調整して奴等にぶつけろ!)」
そしてアーマーンは奴自身の行動を首に掛けられた何本もの鎖で制限されて居る事で、実質的に河馬鬼達の思う通りに動かす事が出来ている状態である。
故に両目を潰されても尚、アーマーンは俺達に向かってその顎を振り下ろす。
「女子供ばっかりに活躍されちゃぁドン一家の名が泣くってもんよぉ!」
其れを大剣で受け横へと流したのはテツ氏だ、彼は全うな冒険者で有り犯罪組織で有るドン一家の構成員と言う訳では無い筈だが、両親なり兄弟なりがドン一家の一員であるが故に彼自身もドン一家に帰属意識を持っているのだろう。
それはさておきテツ氏の腕前は間違いない物だった様で、巨大な鰐の顎は横っ面を殴られた事で盛大に地面に噛みつき大きな隙を晒した。
「お連! 鎖だ! 鎖を斬るんだ!」
俺はそう叫びながら四煌戌の背中を蹴って前へと飛び進むと、足の裏から氣を放ち、更に加速を付けてアーマーンを拘束する鎖の一本に斬鉄を込めた一太刀を叩き込む。
「はい! お前様!」
先程アーマーンの顎をかち上げたお連は、再び相撲の仕切りの要領で軽く腰を落とすと、一瞬で最高速度に達する瞬発力で、近くに有った鎖へと鉞を担いだままで突っ込み叩き斬る。
俺が斬り付けた鎖は鋼鉄よりも可也強度の有る品だった様で、結構な氣を込めた斬撃でもあっさりと斬る事は出来ず、激しい火花を放ち無理やり断ち切ったと言う感じだ。
対してお連の振り下ろした鉞は、硬い物同士を打ち付ける甲高い音こそ響かせた物の、此方程無理を押して斬ったと言う感じでは無い。
其の差は音もさる事ながら断ち切った鎖の断面を見れば一目瞭然だった……本当に一朗翁は何処まで強力な魔物の素材を使って彼女の鉞を誂えさせたのだろう?
「良し! 四煌戌! お連を拾って鎖を斬る足に成ってくれ! 俺は此の儘あの腐ったデカブツを相手取る!」
俺の得物で鎖を斬りアーマーンを自由にするのは、一寸厳しそうなので其れはお連に託す事にして、此方は頭の悪い指揮官を釘付けにするのを優先する事にした。
「ばう!(了解!)」
「おん!(任せて!)」
「あふ……おん(面倒だけど仕様が無い)」
三つの首が其々性格の出た返事をしつつお連に向けて走り出したのを横目で確認してから、俺は一気に王河馬鬼へと向けて空を蹴る……翡翠は何時かしっかり説教しないと駄目かもしれないな。
「グルルッ!? ガァァアア! グォォオオ!(何だと!? 貴様等! 奴を通すな!)」
そんな俺の行動が予想外だったのか、明らかに狼狽えた様子を見せ、自分で迎え撃つのでは無く、部下に間へと入る様に指示を出す王河馬鬼。
組織を率いる者が率先して危険を引き受けず部下に危険を丸投げする様な者では、待っているのは組織の崩壊か下剋上だろう。
前世の世界でも下の者が上げた功績は奪い取り、失敗した時の責任は押し付けるなんて糞みたいな上役の話は、警察でも暴力団でも普通の企業でもよく聞く話だった。
俺が小学生位の頃に弾けた泡経済と呼ばれて居た頃には、死ぬ程忙しくても働いたら働いただけの莫大な残業代が普通に支払われた為に、猛烈社員等と呼ばれる仕事に生きる者達が社会に溢れていた。
けれどもその後の超長期化した不景気な社会では、禄に残業代も出さずに当時の様な仕事を部下に強要する黒い労働を強いる上司が阿呆程に湧いて出たのだ。
大体は泡経済時代に『自分が出来た』のだから若い連中も同じ様に出来ると言う様な感覚で……である。
俺自身は地方公務員と言う立場故に民間や中央省庁程酷い黒い労働を強いられる事は無かったが、其れに近しい物を見聞きする機会は決して少なく無かった。
そして暴力団の世界でもそうした時代の流れは余り変わらなかった様で、飴を与える事無く鞭だけを振るう兄貴分と言うのが年々割合を増やしていったとも聞いた事が有る。
……まぁ暴力団と言うのは大昔は兎も角、泡が弾けた後には下っ端連中がその看板や代紋を振り翳す事で暴力をチラつかせる事で、民間から金を毟り取り其れを上部組織に上納すると言うのが基本的な在り方だった。
暴対法の強化に依って看板や代紋を匂わせるだけで犯罪だとされた事で、下っ端は簡単な稼ぎを失ったのに、上納金の額は変わらなかったのだから先細りに成るのは当然の事だったのだろう。
眼の前で狼狽えて居るだけで禄に防御姿勢も取る事の出来て居ない、王河馬鬼はそうした時代に取り残された下っ端を使い潰す事しか出来ない能無しの暴力団幹部よりも貫目が低い様にしか思えない。
「ちぇぇええすとぉぉおお雄々!」
氣で作った足場を氣で強化した脚で蹴り、足の裏から氣を放つ事でドンドン加速する。
その勢いを殺す事無く、突っ込んで斬りかかる事が出来るのは、氣を脳味噌に叩き込む事で意識を加速して居るからだ。
喉が張り裂けんばかりに声を張り上げ、八相の構えからの袈裟懸けの一太刀を繰り出す。
王河馬鬼の巨体相手では俺の刀の刃渡りで両断する事は不可能だ……が、斬りつける瞬間に脚に回して居た氣を一気に切っ先から吹き出す事で一気に切り捨てる。
「グルゥ!? ゥァァアア!?(馬鹿なぁ!? 偉大なりしムーの民が何故此処で終わる!?)」
この砦の主は恐らく此の名前も知らない王河馬鬼だったのだろう、けれども其れは此奴自身の実力では無く、アーマーンと言う奴にも制御出来ない外付け暴力装置が有れば故の事だったのは先ず間違いない。
その証拠に肉体的には圧倒的に俺よりも強いであろう奴だったが、硬い表皮を切り裂いた下の手応えは強靭な筋肉では無くブヨブヨの醜い脂肪の塊でしか無かったのだ。
他の河馬鬼を斬って居ないので王河馬鬼が特別なのか、其れ共この分厚い脂肪が標準なのかは解らないが、何方にせよ俺の一太刀を躱す事も受ける事もしようとすらしなかった時点で、奴が戦いに秀でた戦士では無かったと言うだけの事である。
「Gyaaaooonnnnn!(喰わせろ我を束縛し良い様に使った不信心者を喰わせろぉ!)」
王河馬鬼が崩れ落ちるのと殆ど同時に、鎖の縛めから解き放たれたアーマーンは、臭いを頼りにか俺達では無く河馬鬼達をしっかりと狙って喰らい付くのだった。




