千百一 志七郎、熱帯夜を過ごし守り神を知る事
テノチティトラン王国の夜は暑い。
何せ西方大陸へとやって来て以来、同じ寝台で眠る事を好むお連が、別の寝台を所望する位には夜中に成っても蒸し暑いのだ。
正直な所、此の環境下でも彼女が同衾を望む様ならば、少々強引な手を使ってでも別々に寝る様に仕向ける積りだったが、流石の彼女も只でさえ寝苦しい此の土地で余計な熱さを抱え込む事を選ぶ事は無かった。
……まぁ前世に此処よりも余程寝苦しいヒートアイランド現象の影響下に有った関東の梅雨から夏を経験して居た俺には、未だマシな環境だと言えるんだけれどもな!
向こうの世界で暮らして居た実家は、此方の感覚で言えばそこそこの家格を持つ役持ち幕臣の屋敷位の規模の武家屋敷を元にしたであろう木造瓦葺きの家で、俺が子供の頃には未だ冷房なんか無くても暑いは暑いが暮らせない程では無かった。
高校を卒業した後は都内の馬鹿大へと通う為に、大学近くのボロアパートで一人暮らしをした事も有るが、あの頃が人生で二番目にキツイ夏だったかも知れない。
最悪だったのは県警の警察学校に入ってからの共同生活時代だ!
只でさえ男子寮なんていう野郎世帯でむさ苦しい事此の上無い生活環境で、大学時代に暮らして居たボロアパートよりも更に築年数が古い鉄筋の建物に冷暖房もマトモに付いて居ない場所で生活しなければ成らなかったのである。
コレばかりは運とか時期とか巡り合わせとかそうした物が有るので文句を言う筋合いは無いのだが、俺達の代が任官し現場に配属された二年後に警察学校も寮も老朽化を理由に新しく建て直されたと聞いた時には膝から崩れ落ちた物だ。
俺達の頃は一つの部屋に二段ベッドが二つ配置された四人部屋での共同生活だったのが、全員個室で冷暖房完備な上に携帯電話やパソコンと言った電子機器も、余暇時間ならば使用自由に成ったと言うだから後輩に辛く当たる案件が増えたのも無理無いだろう。
警察と言う組織は柔道や剣道に逮捕術と言った武道が必須である事からも解る通り、体育会系の気質が染み付いた組織であるが故に、余程の事が無ければ多少のパワハラは罷り通って仕舞う負の面が有る組織だった。
実際、犯罪者とやり合う以上、そうした理不尽に立ち向かう力と精神力が必須と言える仕事なので、先輩達からの『かわいがり』にいちいちストレスを溜めて行く様な気質の者では、長く務まらない仕事である事も間違いない。
特に俺が居た捜査四課は、世間一般の犯罪者よりも『頭の良い馬鹿』を相手にする案件が非常に多く、ストレスと言う点では一寸飛び抜けて居たのでは無いかと思っている。
殺人や強盗と言った凶悪犯を相手にする捜査一課に行った同期に言わせれば、凄惨な殺人現場や悲惨な被害者の遺体なんかを見続ける事に成る一課もストレス耐性が無ければ生き抜く事の出来ない職場だそうだが……警察と言う組織自体が『そう』なのだろう。
……と、話が逸れた、兎角俺自身は此の位の蒸し暑さは慣れて居るので、お連と同衾さえしなければ普通に眠る事が出来ると言う事だ。
隣の寝台で少しだけ寝苦しそうな声と共に、寝返りを打つお連の額に浮かんだ汗を手拭いで拭いてから、俺は改めて自分の寝台で眠りに付いたのだった。
明けて翌朝は綺麗な快晴で、時折吹く風は軽く湿気を孕んでは居る物の蒸し暑いと言う感じでは無い。
「お、今日は良い感じに過ごし易い日に成りそうだな。にしても晴れた日よりも雨の日の方が暑いってのは不思議な物だよなぁ」
テノチティトラン王国の首都は巨大な湖の真ん中に突き出た半島に有る街では有るが、湿気が酷いのはその立地故と言う訳では無く、何方かと言えば半島の外に広がる密林を育む熱帯雨林気候故なのだろう。
テツ氏言に拠れば、この辺りでは湿気が空へと抜ける晴れの日の方が涼しく、蒸し暑さが強く成る雨の日の方が不快指数は高く成る傾向に有るらしい。
「で、テツ殿。今日の所は休養日とすると言う話であったが、今日の内にしておいた方が良い準備の様な物は何か無いのかな? 『明日やろうは馬鹿野郎』と言う言葉が我が祖国には伝わっているのでね、出来る事が有るならば先にやって置きたいのだよ」
照り付ける太陽を片手で遮りながらワン大人がテツ氏にそう問いかける。
今回の面子で唯一未開拓地域に踏み込んだ事の有るテツ氏は、ワイズマンシティの若手冒険者の中では頭一つ抜けた存在だと言う話で、道中でもそんな彼の発言を老境に有るワン大人も無碍にする事は無かった。
それぞれの支持母体が敵対して居る犯罪組織に区分されて居るドン一家とミェン一家で有るにも関らず、お互いの意志を尊重し合った対応が取れるのは、何方もその実力は認め合って居るからだろう。
「んー、コレばっかりは運の問題に成っちまうが……冒険者組合で案内人を雇う事が出来れば大分楽に成るな。ただ案内人として信用出来る奴はそう多く無いから組合を通しても必ず雇えるとは限らねぇんだわ」
曰く、未開拓地域に暮らす精霊信仰の者達も、完全に自分たちの集落だけで完結した生活をして居る訳では無く、時には金銭を得る為に冒険者として活動したり、自分達の縄張りを案内する仕事をしたりして居るのだそうだ。
「俺が前に未開拓地域に入った時の案内人は大当たりの部類でな、彼奴のお陰で森林竜を見る事すら出来たんだ」
森林竜と言うのは未開拓地域の主と称しても間違いない、西方大陸最強の魔物の一角だと言う。
とは言えソレは温厚な草食の竜で、精霊信仰の民にとっては守り神にも等しい扱いを受けて居る存在らしい。
「森林竜を害する様な真似をすりゃ地元の集落を敵に回す事に成るが、彼奴の寝床を漁って抜け落ちた鱗なんかを手に入れる事が出来りゃ労せず一攫千金を狙えるんだよ。連中はソレを換金したりせず自分達の防具や装飾品を作るのに使うんだけどな」
精霊信仰の民の戦士は森林竜が生活する上で自然に抜け落ちた鱗を集め、ソレを繋いだ鱗鎧を纏う者が多く、また族長の妻等の立場を持つ女性は防具には使えない様な欠けた鱗なんかを使って装身具を作り身につけるのだと言う。
当然、他所者がソレを手に入れる機会は決して多く無く、案内人も自分達の信仰の対象で有り生活に必要な大事な資源である森林竜の寝床に案内する様な事は殆ど無い。
にも関らず森林竜の生活圏へとテツ氏やその仲間達を案内してくれたと言うのだから、その時の案内人を当たりと賞するのは当然と言えるだろう。
「……魔物は基本的に強い奴程美味しいと言いますが、森林竜はどれ位の強さでどんな味なんでしょうね?」
口の端から涎を垂らす様な表情でそんな事を抜かしたのは、俺の許嫁であるお連である。
気の所為かこの娘西方大陸に来てから、食欲が増大して居る様に思えるのだが大丈夫だろうか?
……力士が相撲体と呼ばれる身体を作る為に行う、朝晩二食のドカ食いと食べて直ぐに寝ると言う生活様式は取って居ないし、食った分だけきっちり動いて居る様には思えるし、無駄に肥満体化する予兆はまだないが、一寸気に掛けて置かないと不味い可能性は有る。
光源氏計画を本気で推進する積りは無いが、婚約者であり保護者と言う立場である以上は、彼女が健康に悪い程の痩身や逆に肥満体に成長させるのを避ける様に気を付けるのは当然の義務だろう。
「地元の連中も寿命が尽きてくたばった森林竜は食うらしいし、巡り合わせが良ければ食う機会も有るかもしれねぇな。んでも彼奴等にとっちゃ神様と同じ様な信仰の対象だ、間違っても向こうの連中の前でソレを口にするんじゃねぇぞ」
俺が何かを口にするよりも早く、お連の言葉に軽く呆れた様な表情を浮かべて、テツ氏がそう釘を挿したのだった。




