九 志七郎、長姉礼子について知る事
前話にて、長兄 仁一郎の年齢を 16歳→20歳と修正しました。
そのままの年齢で読み進めると混乱するような描写が有るかもしれません。
誠に申し訳有りませんでした。
「という訳で、今夜は御用商人を呼ぶので欲しい物、必要な物があれば一緒に注文するから纏めておいてくれ」
早朝稽古同様に起きて来る者の少ない朝食の席で父上はそう言った。
どうも、俺の装備を作るのに職人の所へ足を運ぶわけではなく、商人を呼びつけその商人を仲介に使うらしい。
「それがしは、それ迄に素材蔵を整理して必要な物を揃えておくでござる」
で、その商人に渡す素材を義二郎兄上が用意する、と……。
どうやら、御用商人を呼ぶ回数はさほど多いわけでは無いらしく、皆が食事の手を止めあれが欲しい、これが足りないと相談し始めた。
「お父様、わたくし新しい鍬がほしいのですけれども……」
とそう言い出したのは、長女礼子姉上だ。
「また礼子は農具ばかり欲しがって……貴女もそろそろ見合いの一つもして良い年頃なのですから、着物の一つでも仕立てたらどうです?」
「わたくしに結婚なんてまだ早いわ……お母様だってお嫁に来たのは二十歳過ぎだったらしいじゃないですか」
呆れたような溜息を吐く母上に、礼子姉上はそう切り返す。
御年16歳の姉上は確かに、江戸時代の基準で言えば適齢期だろう。それどころか二十歳を過ぎて結婚した母上は遅すぎるとすら言える。下手をすると行かず後家などと陰口を叩かれても可笑しくない年齢だ。
「あら、私は十の頃には婚約を済ませていましたよ。この人が優駿を制覇するまでは結婚できない、と我が儘を言ったから悪いんです」
「んなぁ! き、清! そ、それは子供に聞かせる話ではなかろう!」
「もう二十年も前の話なのですから、一々おたおたしないでくださいな。それよりも礼子の縁談のことですよ。男は多少遅くても問題有りませんけど、女の華は短いのですから」
「む、むぅ。礼子は一度大奥へお仕えするのを断っておるからなぁ……。幾ら器量良しでもなかなか難しいんじゃよ……」
「え? 大奥って江戸城の大奥ですか? それって将軍の妾になるって事ですか!?」
俺は思わず驚きの声をあげた。
確かに礼子姉上は美人である。大名の娘らしくない化粧っ気を感じさせないその顔立ちは、ともすれば幼く見えるかもしれない。だが、ほぼほぼ常に浮かべている柔らかな笑みが人を惹きつける。
加えて、普通の着物ならば締め付け抑えられるのでそうそう気づかれないが、彼女が好む野良着姿ではその大きく膨らんだ胸元がはっきりと解る。
前世の世界であるならば、街を歩けば確実にスカウトが飛んでくる。そしてまず間違いなく速攻グラビアデビューそんなレベルの容姿である。
大奥というのは江戸時代最高峰の美女の集まる場所である、無論この世界においてもそれは同様であり……。
つまり姉上はそんな場所に望まれるレベルの美貌の持ち主ということになる。
江戸時代と現代では美人の基準は違う等とよく言われるが、少なくとも姉上は俺の目にも美人だと思える。ということは、この世界と前世の世界ではさほど美的感覚に違いは無いということだろう。
「上様があと五十若ければ、そのお話受けることも吝かでは有りませんでしたけど……。流石にお父様より年上の方に嫁ぎたいとは思いませんわ。それに、大奥に入れば野良仕事なんかさせて貰えないでしょう。わたくし退屈で死んでしまいますわ」
ほぅ、と溜息を吐きながらそういう姉上は年齢以上に艶かしく見えた。
「上様もええ歳こいてあの好色ぶりがなければ、ほんに名君なんじゃがのぅ。まぁ、無理やり召し上げる様な真似をせんから良いのだが……」
「素直に助平爺と言っておやりなさい。全くあの方は若い頃から全然変わらぬのですから……」
そういう二人の表情は決して嫌いな人物を語るものではなく、むしろ親しみすら感じられる物だった。
「……話が明後日に飛び回っておりますが、わたくしそろそろ出かけてもよろしいですか? 下屋敷の畑に今日のうちに苗を植えてしまいたいんです」
「待て礼子、下屋敷に行くのは良いが誰が護衛するのだ? 今日は殆どの家臣がくたばっておる。お前に付けれる者がおらんぞ?」
……? あれ?
「父上、昨日私と母上も護衛無しで出かけましたけど……?」
「そりゃ江戸市中それも奉行所の真ん前にある馬比べ場と、郊外それも殆ど市外と言っても良い下屋敷では対応が違うわい。それなりに着飾り明らかに武家の娘と解る格好ならまだしも、礼子の格好ではその辺の農民の娘と勘違いされかねん」
ああ、武家の娘だとそれだけで抑止力になるのか。確かに礼子姉上の器量で農民の娘だと『良いではないか、良いではないか』という展開になりかねないかもしれない。
「いつもならばここで、それがしが付いて行くと言う所だが今日はやらねばならぬ事があるからなぁ……。おお! 礼子、志七郎を連れて行けば良い。護衛というにはちと幼いが剣腕はそこらのゴロツキなんぞ目ではないし、裃姿ならば武家の子ともひと目で分かる」
そう解決策を提示したのは義二郎兄上だ。皆が概ね食事を終えた中、一人5杯目の丼飯をかきこみながらそう言った。
「うむ、そうじゃな。礼子がどのように稼いでいるかを知る事もできるし一石二鳥の良案じゃ」
ポンと膝を打ち父上がそういった時点で俺の今日の予定は決定したようだ。
昨日同様外出の支度をし玄関を出た、だが昨日は俺は完全に手ぶらであったのに対し、今日は腰に木刀差している。使うことは無いとは思うが、仮にも護衛の任を受けたからには丸腰という訳にはいくまい。
前世では素手での逮捕術にもそれなりに自信があったが、銃刀法に守られた現代日本と違いこの世界のゴロツキは当たり前に刀を持っていることだろう。流石に真剣相手に素手でと言うのは分が悪すぎる。
「あら、しーちゃん。もう準備できたのかしら?」
先に前庭に出ていた姉上がそう声をかけてきたのでそちらを見ると、姉上は足元に積み上げた木箱を覗き込み中を確認しているようだった。
「あ、姉上それ、なんですか?」
「これ? 今日植える苗よ。玉菜に大根、枝豆、ほうれん草、陸蓮根、赤茄子ね」
玉菜はキャベツ、陸蓮根はオクラ、赤茄子はトマト、のそれぞれの別称だったはずだが、それが本当に俺が知る物を差しているかは微妙に自信がない。
「ず、ずいぶんと沢山ですね……」
「これでも、大分厳選したのよ? 本当なら玉蜀黍に水菜、青梗菜なんかも育ててみたかったんだけどねぇ」
ほぅ、と溜息を吐きながらそういう姉上は年齢以上に艶かしく見えた。
しかし、これだけの美人なのに本当になぜ浮いた話が無いのだ?
母上のあの口ぶりでは、本当にそういう話の一つもないのだろう。
親ばか気味に父上が堰き止めているという訳でもなさそうだ。
仮に大奥入りの話が本当だとしても、断っているならそれを理由に相手がないというのも少々引っかかる。
服飾、宝飾にこだわる質でも無いようだし、なにせ自力で金を稼ぐ事を知っている女性だ。然う然う浪費もしないだろう。
考えれば考える程に、よくわからない。
「さぁ、しーちゃん。あまり遅くなると帰りが夜道になってしまうわ」
少々考えこんでいるうちに、姉上は木箱を3つ程纏めて肩に担ぎ上げていた。
「あ、姉上、私も持ちます!」
幼いとはいえ男が荷物の一つも持たないのは格好がつかない。そう思い木箱に手を掛けるが……。
お、重い……、なんとか一つをほんの少しだけ持ち上げるが、すぐに限界を感じ慌てておろした。
たぶん、一つでも30kgぐらいは有るんじゃないか?
「しーちゃんにはまだ無理よ。お姉様が持って行くから、ね」
だが、そレだけの重量がある木箱を姉上はヒョイッと音がするほど簡単にさらに3つ纏めて担ぎ上げた。
6個全部が同じくらいの重さだとすると総重量180Kg……。
姉上に縁談が来ないのってこの怪力のせいじゃないか?