百七『除夜の鐘』
澄み渡る寒空に鐘の音が厳かに響き渡る。
この鐘が百八回打ち鳴らされた時、街に出払った者達の今日の仕事が終わる。
どういう由来が有る物かあずかり知らぬ所だが、家安公が幕府を開いた時から始められた、伝統と呼ぶには少々新しい習慣だ。
そんな鐘の音を聞きながら独り手酌で酒を呑む。
肴は歳暮に貰った当たりめに鮭冬葉、干貝柱と乾物が並んでいる。
鯣の下足を一本噛み杯を呷る、一息で飲み干せる温めの燗酒が喉を滑り落ち臓腑の奥から暖まる様に感じた。
「今年も万事恙無く……とは言い難いがなんとかかんとか無事歳が越せそうじゃな」
誰ともなくそう呟くと、それに応えるかの様に又一つ鐘の音が鳴り響く。
今年は色々な事が有った、仁一郎の優駿初挑戦、志七郎の初陣に信三郎の初陣、自身で眼にしたのは最後のソレだけだが、よくもまぁ無事に終わったものだ。
礼子の見合い話を義二郎が尽く叩き潰した事も頭が痛い話だったが、清吾が正式に礼子と縁付く事になれば、遠縁とはいえ猪河家と剛田家も親戚と言う事に成る、それは決して悪い話では無い。
礼子の縁談が片付けば、智香子と睦のそれはまだ暫く先で良い。
仁一郎は許嫁と上手くやっている様だし、義二郎はまぁ有れだけ好きに生きとるんじゃ、自分でなんとかするだろう。
信三郎も初陣が済んだ事だし、元服前に一度婿入り先に顔を見せに行くのも悪く無いかも知れぬな。
子供達の心配をすればその種は尽きる事が無いが、まぁその将来は皆明るい物と予測しても間違いは無さそうだ。
問題は……
「志七郎じゃな、やはりと言うか想像通りと言うか、成すべき使命を持って生まれた子じゃったのぅ」
その内容を詳細に聞いた訳ではないが、あの天狗仙人が思い悩む程に重い使命なのだろう、艱難辛苦に耐えうる男に育てろと彼の仙人は言った。
だからと言って別段志七郎を特別扱いして育てる心積もり等毛頭無いが、猪山の子らしく育てれば不足の有る男には成るまい。
「お清と爺に任せておけば、ワシが国元へ帰っても気を揉む必要も無いじゃろ」
仁一郎は口下手ながら良い武士に育っている、義二郎も少々好戦的過ぎる感は有るが性根は真っ直ぐだ、信三郎も文武共に形になって来た、少なくとも二人が施した息子達の養育に間違いが有ったとは思い辛い。
そこまで考えて安堵故か思わず溜息が漏れた。
そして何時の間にやら噛んでいたゲソを飲み込んで居たのに気が付き、今度は大振りの干貝柱に手を伸ばした。
「随分と豪勢な肴で呑って居るな、俺にも御相伴にあずからせてもらおうか?」
そんな声と共に月明かりの中大きな人影が庭に降り立つ。
「おお良くぞ戻った。勿論其方を待って居ったのだ、遠慮せず呑み食らうが良い」
そう言葉を返すと、その人影――鈴木一朗は人好きのする笑みを浮かべ縁側へと腰を下ろした。
「まぁ、まずは一献」
一朗は座するや否やそう言って手にしていた徳利を差し出した。
盃に残た酒を飲み干し、空になったそれを差し出すと徳利からは白く濁った酒らしき物が注ぎ込まれた。
ワシはそれを無言で見つめ、ゆっくりと口を付け……そして吹き出した。
「ゲホッ! な、なんじゃコレは馬の小便か何かか? 酷く不味いぞ」
ちょっと酸い目の匂いがするとは思ったがまさかここ迄酷い味だとは思わなかった。
口にした際に感じたエグみや苦味、その他雑味と言われる物全てが自己主張をし、旨味や甘みと言った酒の美味しさに繋がる物が何一つ感じられなかったのだ。
「コレが今年作られた富田の酒だ、酷いものだろう?」
信じられなかった、これが『何処よりもよく富んだ田園広がる富田の銘酒』と謳われた富米処、酒処の酒とは。
「筋右衛門無き富田はここまで酷い事に成っておるのか?」
「ああ、俺がこの目で確かめて来たんだ、間違いねぇ」
そう言って彼の口から富田藩骨川家の現状が語られ始めた。
あの屍繰りとの戦いの夜、藩主と家臣団の多くを失った彼の藩は、筋右衛門の弟、骨川|強右衛門を藩主として再出発を幕府に申請した。
新たに藩主となった強右衛門は今まで部屋住みの身で有り、今まで指したる問題も起こしていなかったので、幕府も面倒事を嫌ってかそれを承認したのだが、それが大間違いだったのだという。
兄という重しが無くなった強右衛門は藩の財政などお構い無しに、酒色を買い漁る様な放蕩の限りを尽くし始めたのだ。
それで財貨が目減りし始めると、今度は『九公一民』等という愚昧としか言いようの無い政策を打ち出し酒米諸共税として徴収しておきながら、酒蔵には今まで通りの……いや、それ以上の酒を作り売った金を上納せよと命じたのだと言う。
そんな馬鹿な政策を取れば当然領民達は食べる米も無く酒造り等できよう筈も無い。
酒造りに適した米と食べて美味い米は全く別の種類である、それを関係無く一纏めにして更には糠も削る事無く全てぶち込んで、止めにその政策に反対した蔵人や杜氏達も見せしめに皆殺し……等という、愚政に次ぐ愚政を繰り返して居ると言うのだから呆れて物も言えない話である。
「お主がそれだけ情報を得ているのだ、上様の手の者も当然それらを承知してるのであろう? 何故手を拱いているのだ……」
「強右衛門が底抜けに愚かなのは言うに及ばぬが、今のこの状況が何者かが絵図面を引いた物では無いか、と考えておるようじゃ」
強右衛門が藩主となったのは筋右衛門が何者かによって殺害されたからだが、現状がその何者かの意図通りなのか、強右衛門が何者かの想定以上に愚かだったのか、判断が付かず動けていないのだそうだ。
もしも意図通りで有った場合強右衛門を廃する事までが黒幕の意図通りと言う事に成る、何処の誰の絵図面かは解らぬがその通りになれば幕府に取って決して良い結果には成らない、と言うのが現場の判断なのだそうだ。
「うむむ~……富田の民を思えばなんとか介入したいが、幕府が静観を決め込んでいる以上、俺等が勝手する訳にも行かぬか……」
前藩主である筋右衛門の友として、彼が死ぬまで大事にしていたであろう彼の地とそこに生きる民に、なんとかして救いの手を差し伸べたいがそれをする訳には行かないのがもどかしい。
そしてはたと気がついた。
「子は! 筋右衛門の子はどうした、どうなった!?」
確か国元には彼の側室とソレが産んだ子が居た筈だ。
「全く胸糞悪い話だ」
ワシの問いかけに一朗は吐き捨てる様にそう言った。
そんな前置きで語られたのは、強右衛門と言う男が見下げ果てた奴で有るという話だった。
新藩主となった強右衛門はまだ若い側室を手籠めにした挙句、生まれて間もない娘も長じたならば自分の妻にし、本来の藩主で有る兄の血を継いだ子を次期藩主にすると言ってのけたのだと言う。
叔父と姪の婚姻は古くは認められた時代も有るというが、少なくとも家安公が幕府を開いて以来は禁じられている。
別の母親に生ませた子とであれば従姉弟同士の婚姻と言う事で全く問題には成らないだろうが、いくらなんでも常軌を逸した発想である。
当然ながらそんな畜生にも劣る所業を黙ってみている一郎では有るまい。
「して、何か手を打ったのであろう?」
そう水を向けると、
「押入った物取りの手によって母子共に無残に斬り殺された、と表向きはそう言う事になった様だ。だが実際にゃ透破共と共同で掻っ攫ったのよ。側室もその娘も然るべき所に預け養育させておる、心配は要らん」
ニヤリっと笑みを浮かべながらそう笑う一朗の面構えは、清吾が帰参した際に見せた義二郎の笑みとよく似ており、ワシよりも親子らしい様にすら見えた。
「お主がそう言うならば、ワシがこれ以上気を揉む必要は無いと言う事じゃな。さて、そんな糞不味い酒モドキは捨て置いてお主も此方を飲め、剛田から貰った歳暮の新酒じゃ」
そう言って徳利を差し出すと、一朗は先程とは打って変わって爽やかな笑みを零しながら盃を手にするのだった。




