千七十三 志七郎、役得の褒美を貰い鮮血流す事
巨大な水饅頭でも落としたかの様な少々特徴的な水音を響かせて、天井から落ちて来たのは、艷やかな翠に輝く悪食粘液……所謂『スライム』だった。
「うわぁ! くっ! 此処でスライムだって!?」
前世に読んだネット小説なんかでは、その世界観次第で最弱の雑魚として扱われる事も多かったスライムだが、ソレは電子遊戯の中でそう扱われたのが一般化した物だと聞いた覚えが有る。
中にはこの世界のスライム同様に物理に対して極めて強い耐性を持つと設定されて居る作品も有ったが、そう言う場合でも粘液状の身体の中に有る核を潰す事で物理一辺倒でも対処出来る場合が多かった様に記憶して居た。
しかしこの世界のスライムはそうした核に成る部分は無く、物理攻撃は粗々無効で、では魔法の類はと言えば弱点である特定の属性以外にはやはり強い耐性を持っていると言う極めて厄介な魔物である。
不幸中の幸いと言えるのはスライム系統の魔物は基本的に屍肉喰らいで有り、自分達から積極的に生物を襲う様な事は無く、万が一ストリケッティ嬢の様に襲われたとしても喰われるのは身に付けた生き物の死骸だけ……と言う事だろう。
だからと言って何ら危険が無いと言う訳では無い、この世界の武具は一般的に市販されている数打ちの安物を除いて、多かれ少なかれ魔物の素材を元に作られて居る。
革の鎧は当然『生き物の死骸から剥ぎ取られた皮』が原料だし、金属製の防具だって『魔物の死骸から取った素材を練り込んだ物』だ、スライムは金属その物を喰う事は無いがその中に練り込まれた生物の死骸由来の物は食い尽くして仕舞うのだ。
其の為、此の世界に置いてスライムは洋の東西を問わず『装備殺し』として忌み嫌われている魔物の代表格である。
とは言え奴等は基本的に地下迷宮の類にしか出現しないと言う法則が有る上に、魔物は勿論の事人に類する種族が相手でも積極的に襲い掛かって来る様な事は余り無いので、注意しなければ成らないのは食肉に成る魔物を大量に狩った後位の筈なのだ。
しかし此処は古代精霊文明の遺跡で有り、世界樹歴が始まる以前に建てられたと思しき物なので、そうした世界樹歴以降の常識が通用しないと言う可能性は十分に有る。
まぁそうした思案は後にして、兎にも角にも先ずはストリケッティ嬢を救出しなければ成らない、そう判断した俺は鎧を手早く脱ぐ為の仕掛けを作動させ褌一丁の姿に成った。
此れは自分の好みに合致する女性に対して裸を見せつけたいと言う変態性欲に任せた行為では無い。
俺の身に纏う物は二丁の拳銃を除いて全てがスライムに捕食されうる物だからで、そんな物を身に付けたままではどう足掻いても二次遭難を起こすからである。
スライムには打撃も刺突も斬撃も一切効果が無いが、その体色と同じ属性の魔法撃ち込めば割と簡単に倒す事が出来る、けれども今回の勝負の取り決めでは、互いに持ち込んだ道具類以外の魔法の使用を禁じると言う物で有る以上は魔法を使う訳にも行かない。
ではどうすれば良いのかと言えば、此処でも役に立つのは万能の異能である氣だ。
俺は通常の肺呼吸だけで無く肌からも氣の素を取り入れる事を意識し、ソレを心臓の奥深くに有る魂から溢れ出す氣を反発させる事で『爆氣功』を産み出し、更に錬水業で得た無駄な氣の発散を抑える技術で身体の周りに濃密な氣を圧縮して纏う。
そして産まれた氣を掌へと集中させ、其処で『乱氣流の玉』とでも形容するべき物を作り出す、それは裸身氣昂法無手体術が奥義のニ……裸身丸だ。
此の技は本来、硬い甲殻に覆われて居る様な魔物を削り殺す為に使われる物だが、今の様な状況に合わせた応用法が存在していた。
氣は器用さや知能と言った身体の何処をどの様に強化すれば良いのかも解らない様な運用ですら効果を発揮する万能の異能である、ならば氣その物で攻撃するような技ならばその性質を使い手の意図した様に変化させる事は簡単では無いが難しいと言う程でも無い。
「スライムを引っ剥がしますのでそのまま動かないでください!」
俺は慌ててスライムを身体から引き剥がそうと暴れているストリケッティ嬢に、そう一声掛けてから掌に産まれた『相手を吹っ飛ばす』意思を込めた裸身丸をスライムだけに注意深く当てた。
掌に返って来る感触は想像して居たよりもずっと堅い感じで、もっと液体に近い物だと思っていたのだが、何方かと言えば蒟蒻の様な比較的固めの凝膠体の物を引き千切って居る様な手応えだ。
とは言え俺の試みはある程度上手く行った様で、ストリケッティ嬢に纏わり付いて居た翠の粘液は、纏めて彼女の反対側へと吹っ飛んで行った……既に喰われていた彼女の衣類と一緒に。
「嫌ぁぁぁああ!」
慌てて下の方を片手で隠しながら悲鳴と共に繰り出される掌を一撃を、俺は敢えて避ける事無く綺麗に貰う。
下の階で己の警察官としての矜持と武士としての矜持、そして男としての矜持までも捨てて尚、見る事が出来なかった前世と今生を通して最も俺の好みに合致した女性が、粘液塗れで藻掻く姿を目にし更に一糸纏わぬに近い姿を目にしたのだ。
此れ位の代償がなければ罰が当たると言う物だろう。
全身染み一つ無い血管が透けて見える程に白い肌と、桜色と表現するのが相応しい淡い桃色が愛らしい慎ましやかな母性の象徴、下の方は残念ながら隠されて仕舞った為にはっきりとは見えなかったが恐らくは髪の毛と同じく金色に輝く陰りが有るのだと思われた。
状況が状況でなければ両手を合わせて『有難や有難や』と拝みたい所だが、そんな事をすれば俺だけで無く火元国の男達全員が誤解され兼ねないので自重しつつ、鼻の奥から流れてくる熱い物を抑える為に手拭いを拾う。
そのついでに自分の着物も拾って彼女の綺麗な裸体を、惜しいと思いつつも見ない様にしながらその肩へと掛けて上げる。
俺の着物の丈では彼女が着ると前世に仮装なんかで見る事の有った『ミニ浴衣』の様に成ってしまうが全裸よりは遥かにマシだろう。
そんな事をしながらも鼻の下を手拭いで抑えつつ、吹っ飛ばしたスライムの方に視線をやる。
翠色の不定形粘液だったソレは一塊に成ると、徐々に身体の輪郭がはっきりとして行き、此の塔に入ってからの『お約束』と言っても過言では無い恐らくは人間の女性を模したと思われる姿を取っていた。
違いが有るとすればその身体を通して向こう側が見える半透明の身体なのと、母性の象徴の先端や下の方に隠すべき物が一切ついて居ないつるんとした形状だと言う事だろう。
他に特筆すべき事が有るとすれば、半透明な身体の中にはストリケッティ嬢の身に付けていた鎧と衣服が現在進行系で消化されつつあり、仮称:スライム女を倒したとしても、取り戻すのは不可能だと言う事位だろうか。
なおストリケッティ嬢の足元には留め具も溶け落ち、鞘が辛うじて残っている短剣四本が落ちている為、彼女が完全に戦力外に成る事だけは避けられたと言える。
兎にも角にもあのスライム女をなんとかしなけりゃ状況を立て直すのも難しい。
そう判断した俺は氣を鼻に回し強引に止血すると、流水爆氣功と名付けた状態を維持しながら、今度は吹き飛ばすのでは無く本来の削り殺す為の裸身丸を掌に形成し、周囲の空気を巻き取って風を孕む様にした物を奴に叩きつけた。
スライムはその身体の色で弱点となる属性が判別出来るのだが、翠のスライムは風の属性を不得手とする体色である。
此れが火属性が弱点の赤いスライムならば近場の壁から松明を取って叩きつければ良いが、土属性が弱点の黄色や水属性が弱点の青、そして複合属性系の上位種が相手だった場合には逃げるしか選択肢は無かった、奴が翠スライムだったのは不幸中の幸いと言えるだろう。
掌大の台風に拭き散らかされたスライム女が塵へと返るのを確認し、俺はやっと安堵の溜め息を漏らすのだった。




