千七十二 志七郎、油断大敵を痛感し狡と思う事
仮称:牛女が姿を表す也、勝手に突撃して来て勝手に落とし穴に落ち勝手に死んだのを見て、俺は戦闘と言う面ではこの階層は楽勝なんじゃ無いか……と、そう思った思って仕舞った。
後から考えればソレこそが此の塔を作った者の意図通りの反応だったのだろうと、理解出来たがその瞬間は本気で気を抜いて仕舞ったのだ。
故に俺達に気取られぬ様に音も無く天井を這って後ろから忍び寄るモノの存在に気が付く事が出来なかった。
硬く重い物を振り下ろす風切り音が耳に入り、咄嗟に落とし穴を飛び越える様に前転する形で回避出来たのは、普段から身に纏っている氣で聴覚や触覚と言った『気配察知』に必要な感覚を無意識に強化して居たからだろう。
天地がひっくり返った視界で捉えた攻撃者は、蜘蛛の頭部分から人間の物と思しき女性の上半身が生えた仮称:蜘蛛女とでも言うべき魔物だった。
蜘蛛女は六本の足で天井を掴み、人型の身体に生えた二本の腕で巨大な鉄槌で俺の後頭部を狙う事で、下の階へと叩き落とそうとしたのだ。
ストリケッティ嬢では無く此方が狙われたのは、背が高く狙いやすい彼女よりも位置的に狙い辛いだろう俺を不意打ちで先に始末しようと考えたからか、それとも単純に近い位置に居たからか……何方かは解らないが躱されるとは思って居なかった様である。
何故ソレが解ったかと言えば、手にした鉄槌を自在に振り回すには二本の腕だけでは筋力が足りない様で、振り抜いた勢いで上半身が完全に泳いで居たからだ。
巨大な蜘蛛の身体の方は天井に逆さまにぶら下がったままでも、小揺るぎ一つして居ない事から察するに下半身の蜘蛛は十分な力を持っているが、上半身の女性体は恐らく只人の女性程度の腕力でしか無いのだろう。
と言うかあんな物で後頭部を強打されていたら、幾ら兜を被って居るとは言え危なかったかも知れない。
前世の世界では殆どの格闘技に置いて、後頭部を攻撃する所謂『ラビットパンチ』は禁止されていた。
後頭部は神経組織が密集している場所で其処を不用意に攻撃すれば、脳に障害が残ったり下手をすると命を落とす事にも繋がり兼ねないからだ。
俺が学んだ千薔薇木県警の警察学校でも、畳の上と言う比較的柔らかな場所で行われる柔道の稽古中に、受け身を取り損ねて後頭部を強打する様な事が有れば、必ず病院で精密検査を受けさせる事に成っていた。
それに加えて逮捕術の授業の中でも、被疑者を確保する際には必要以上の被害を与えない様にしなければ成らないと言う事と共に、例え相手が抵抗して居る場合でも後頭部だけは絶対に殴らない様に指導を受けた覚えも有る。
……後頭部への被害と言う物は其れ程に危険な物なのだ。
此の玉猪竜の塔の中では死んだとしても、塔に入る前の状態で復活するとは聞いて居るが、万が一後に残る様な障害を受けた状態で突破してしまった場合に、自動的に回復するとは限らない。
一応、自動印籠の中には『即死じゃなけりゃ何とかなる霊薬』は一粒残っているが、此れは虎の子とも言える物で消費してしまうと次に補充出来るのは火元国に帰ってからに成る為、使わないに越した事は無いだろう。
兎角、下手をすればその一撃で命諸共に頭を汚い柘榴にされ掛けたが、運良く無事で済んだのだから今度は此方が反撃する番だ。
既にストリケッティ嬢は腰の鞘から抜いた短剣を素早く三本纏めて、巨大な蜘蛛の身体へと投げ付けていた。
しかし奴の外骨格はどうやら一階に居た首無し騎士の鎧並に硬い様で、彼女の投擲は全て乾いた音を立てて弾かれて仕舞う。
では俺が狙うべき所はと言えば、逆様に成っている事で一番近い位置に来ている人型部分と言う事に成る。
故に俺は空中へと飛び上がると、足の裏から氣を放つ事で空気を踏み締め、一気に間合いを詰め居合斬りの一閃でその柔らかそうな人型の腹を薙ぐ。
無論、氣の何割かは刃に流し込み斬鉄を為し得る鋭さを刀に与えて置く事も忘れない。
その手応えは、丸で硬い鎧に身を包んだ者を斬るかの様な感じで、どうやら人型部分も蜘蛛部分と同様に外骨格で覆われているらしいが、十分に氣の乗った刃を受け止める事が出来る程では無かった。
人型の部分が本体なのか、それとも単純に許容出来る被害を超えたのか、その一撃で蜘蛛女の命脈は絶たれた様で他の魔物同様に身体が塵へと返って行く。
「……危なかった、私が狙われて居たならば君の様に鮮やかに回避する事は出来ず、下の階に叩き落されていただろうね。ソレに君の反応を見る感じ人部分も同じ様に硬いならば、アレを倒す手段を私は持ち合わせて居なかった」
落とし穴を注意深く避けながら、弾かれた短剣を拾い集めつつストリケッティ嬢がそんな言葉を漏らす。
「人型の部分もどうやら外骨格に覆われていた様で、一階に居た首無し騎士の鎧と同等の手応えを感じましたよ」
隠す様な事でも無いので素直にそう返事をすると、
「うん……此の塔を舐めて居た訳でも、自身の力を過信していた積りも無いと思っていたが、どうやら今の段階で私一人で此の塔を制覇するのは難しそうだ。対して君は時間は掛かるだろうがなんとかしてしまうんだろうね」
少しだけ陰のある表情を見せ、肩を落とした様子でそんな言葉を口にする。
一階で戦った首無し騎士の事だけを考えるならば、奴は彼処で絶対に打った斬らなければ成らない相手では無かったので未だ良かったのだろうが、この階で出会った蜘蛛女は只の雑魚敵な筈で、ソレを相手に勝ち目無しと言うのは踏破を諦めるには十分と言えるだろう。
対して俺が彼女の助け無しで此処まで来る事が出来たかと言えば、答えは是と言う事に成る。
此れは俺個人が優れていると言うよりは、火元国の武士ならば誰でも使えて当たり前に成っている『万能の異能』とも言われる氣の力が何よりも大きい。
普通ならば出来ない筈の事が氣を用いる事で、簡単に……とまでは言わないが其れでも専門家に近い程には出来る様に成って仕舞うのだ。
この階に無数に仕掛けられている落とし穴とて、ストリケッティ嬢ならば踏み込んで仕舞えば下の階に落ちるしか無いだろうが、俺の場合には意識加速と空気を蹴る歩法を組み合わせれば、引っ掛かっても落ちずにこの階に留まる事が可能だろう。
更に言うならば有ると思って氣を瞳に込めてこの階の床を見れば、落とし穴が何処に有るのか……薄っすらとでは有るが割れて開く部分の継ぎ目が見えるので、何処に有るのかを見抜く事すら可能である。
忌憚無く言って良いのであれば、氣功使いと言う存在その物が只人から見れば『狡い』と言われても仕方ない程に利便性が高すぎるのだ。
しかも俺は錬風業と錬水業を修めた事で、火元国の一般的な武士よりも高い水準で氣を扱う事が出来る訳で……うん、氣の深奥を極めたと言われる御祖父様が世界的に見ても上から数えた方が早い強者とお花さんに評されるのも当然と言えるな。
「俺達の勝負と言う点では確かに此方が優位と言えるかも知れませんが、其れでも此処の探索その物を投げ出す積りは無いのでしょう?」
とは言え折角此処まで協力してやって来たのだ、此処で彼女を見捨てると言うのは何か違う気がするのでそんな言葉を投げ掛けて見る。
「ああ、其れは勿論だとも。私とて一廉の斥候として遺跡荒らしの経験は少しでも多く詰んで置きたいからね。失敗しても命を落とさない事が保障されて居る此処での失敗は他の場所では得難い経験だよ」
俺の言葉で僅かでは有るがストリケッティ嬢の表情から陰が薄れ、本来の気性なのだろう好奇心旺盛な面が僅かに顔を覗かせた。
「よし、じゃぁこの階の探索を再開しますか。牛女は上手く落とし穴を使えば戦わなくて済みそうですし、気を付けるべきは蜘蛛女の様に壁や天井を伝って来る奴ですね」
そんな言葉を掛けてから、その場を動き出した俺達だったが……然程も移動しない内にその言葉が丸で旗を立てた彼の様に、天井から振って来たモノに今度はストリケッティ嬢が襲われたのだった。




