千六十八 志七郎、装備の手入れを考え次への扉を開く事
武士の矜持に警察官としての倫理、其れ等を溝に捨てた上で本懐を遂げる事が出来なかった事に対する自己嫌悪に塗れながら、ある程度乾いた着物を身に纏って行く。
鎧の方は俺の物もストリケッティ嬢の物も、油で煮染めた所謂『硬い革鎧』だった為、本体に水が染み込んで居る様な事も無く、固く絞った手拭いで表面を吹けば取り敢えず問題は無さそうだ。
とは言え帰ったら何処かこの手の物を整備する専門的な技術を持つ職人に見てもらう必要は有るだろう。
武具と言う物はあっという間に使い物に成らなく成る、其れは壊れる可能性と言う意味も有るが、同時に黴が生えたり妙な菌が繁殖して臭う様になったりすると言う事でも有る。
解り易いのは剣道で使われる小手だろう、有れは毎回の稽古の後にしっかりと手入れをしなければ、あっという間に酷い汚臭の住処に成るのだ。
幸いな事に前世に俺が師事して居た曾祖父さんは『道具に対しても感謝の念を忘れるな』と言う事を、弟子達に口を酸っぱくして言い聞かせ躾けて居た為に、家の道場では其れを嗅ぐ機会は無かった。
しかし学校で授業の一環として使われて居た『共用の防具』は其処までしっかりとした手入れは為されて居らず、瘴気にも似た禍々しい臭いが近づくだけで感じられ、其れを着けた手は石鹸を使ってしっかり洗っても数日は臭いが取れない酷い物だった。
一度だけ興味本位で其れを使って以来、剣道の授業の際には必ず私物の防具を持ち歩く様に成ったのはある意味で当然の事だったと言えるだろう。
そして臭う様に成るのは小手だけではない、いや小手が飛び切りエゲツない臭気を放つ様に成ると言うだけで、他の部位だってしっかりと手入れをしなければ汚臭塗れに成るのはある意味で当然と言える。
普段から剣道に接して慣れている者に取っては簡単で軽い運動程度の授業では有るが、素人からすれば全身汗塗れに成るには十分な運動量が有るのだ。
そんな汗に塗れた防具をきっちり後始末もせずに仕舞い込めば、そりゃ当然菌の温床に成るのは当たり前である。
剣道の経験が無い者でも、梅雨時期の週末に体育の授業で籠球でもやって存分に走り回り汗をかいた体操着を持ち帰り忘れ、月曜日に回収する羽目に成った……そんな汚物としか言い様の無い物を軽く上回ると言えば其のヤバさは伝わるだろう。
俺の鎧が臭う様に成った結果、四煌戌達の鼻が効かなくなったなんて状況は割と冗談では済まないので、しっかりと専門家に手を入れて貰う必要が有るのだ。
ちなみに刀の方はと言えば、妖怪の素材が練り込まれた刃金で作っている事も有って、前世の世界の日本刀の様に見る物の吐息に含まれている水分ですら錆びる……と言う程に脆い物では無く、海中で使っても後からしっかり洗えば割と問題なかったりする。
まぉそれでもちゃんと帰ったら一度分解して、細かな部分までしっかりと手入れをして置く必要は有るとは思うがね。
「さて……此方の準備は整いましたが、貴女の方ももう動けますか?」
流石に服を着る姿を互いに見せる様な関係でも無い俺達は、焚き火を挟んだ上で更にお互いに背を向けて着替えをして居た為に、振り返らなければ今の状態を目で確認する事は出来ない。
一度やらかしているのだから二度も三度も同じと考えるか、それとも先程の行為は血迷った末の過ちで未遂で済んだのだからニ度としては成らないと考えるか……其の葛藤の中で俺は後者を選んだ。
只でさえストリケッティ嬢の尊厳と自身の尊厳に泥を塗る様な真似をしたのだ、其の上で未遂に終わったからこそこうして軽い自己嫌悪程度で済んで居るが、もしも既遂だった時にはどんな精神状態に成っていたか解った物では無い。
あの時振り向く前に思った様に彼女の艶姿を脳内に刻み込み、幸福感で一杯な気持ち悪い男に成り果てて居た可能性も有るが、今以上の罪悪感で自分自身を最低最悪の外道に堕ちたと酷い自己嫌悪に陥っていた可能性も有る。
何方にせよ言えるのは俺は自身が思っていた様な『自制心の塊』と言える様な人物では無く、世間一般の男性大半がそうである様に『助平な事が絡むと馬鹿で阿呆に成る』と言う事だろう。
男と言う生き物は前世の世界でも『下半身で思考して居る』とか『頭は信用出来ても下半身は信用出来ない』なんて評される事が有ったが、其れは陰嚢に物理的に溜まる物を吐き出したいと言う一種の排泄欲求故の事だと思っていたがソレだけでは無いらしい。
つか思い返して見れば二次性徴を迎えて性欲がお猿さん化する前の子供の頃でも、異性に対する興味と言う物は相応に有った気がするし、肉体が成熟して居なくともそうした欲と言う物は本能に根ざす物として持っているのだろう。
「此方も……はい大丈夫です、では先ずはあの扉から調べましょうか。まぁこの塔の中ではどれ程時間を使っても、外では一晩の間の出来事でしか無いと言う話なので、二人で行動して居る以上は急ぐ必要も無いんですけどね」
この塔へと来る前、競技の取り決め説明を受けていた中でも聞いた事では有るが、この玉猪竜の塔と言う建物は、古代に使われた時属性の精霊魔法に依って保護されており、満月の晩にしか姿を現す事が無いと言う。
その中で行われた全ての行動は塔が再び姿を消す前に行われた事に成り、次の満月を待って再度塔に入るとその中に有る物は全てが元の状態に戻る、所謂『リセット』されるのだそうだ。
故にこの塔で手に入るお宝は全て満月を繰り返す度に復活する為、踏破出来る実力の有る遺跡荒らしに取っては良い狩り場に成るらしい。
とは言えこの塔で手に入るお宝は市場的に見れば然程価値が高いとは言えない物ばかりな上に、短期間に何度も繰り返し宝物を持ち出しても以前の物が捌けて無ければ値崩れするだけな為、ニューマカロニア公国の冒険者でも此処を狩り場にする者は余り居ないと言う。
「と言うかソレだけ何度も攻略されて居る遺跡なら、虎之巻の一つも有りそうな物ですが……ストリケッティ殿はその手の物には手を出して居なかったのですか?」
江戸周辺に有る地下迷宮では何処でも地図や出現する魔物を纏めた虎之巻が売っていたし、京の都でも近隣に有る戦場を解説した書物なんかは普通に有った、なので此方でも同様の物が売って居ても不思議は無い。
「いやぁ……ソレが、此処は単独での攻略が推奨されて居る稼働中遺跡で、私が使う騎士魔法とは相性が悪かったから、来る予定は全く無かったんですよねぇ」
騎士魔法は部下を率いてこそ生きる魔法で有り、指揮官が兵士を強化する事こそが本分である、けれども冒険者としてソレが全く役に立たないかと言えばそんな事は無い。
部下では無く徒党に強化を掛ける魔法として使用する事で、初陣直後の戦士でも小鬼や犬鬼では無く豚鬼級の相手と一対一で倒せる程の力を与える事が出来るのだ。
火元国でも良く食卓に上がる豚鬼だが、氣を纏わぬ只人に取っては此奴を一対一で倒せる様に成れば一人前の鬼切り者として一目置かれる様に成る、それだけ危険なその戦闘力を持つ相手で有る。
その辺の線引は西方大陸でも同じだそうで、近接戦闘系統の職業の者が何の支援も無く一対一で余裕を持って倒せる様に成れば、冒険者として一人前と見做されるのは変わらない。
つまりど素人に近い程度の経験しか詰んで居ない様な者に、いきなり一人前の仕事をさせる事が出来る様に成るのが騎士魔法と言う物な訳だ。
ストリケッティ嬢はソレに加えて斥候としての能力も十分な水準に有る為、単独行動では無く他所の徒党に雇われて一時的に探索や討伐に参加すると言う様な形式で今まで冒険者としての仕事をして来たと言う。
「よし、罠は無い鍵も掛かって無いな……開けるよ、中に魔物が居たら先頭をお願いしますね」
話をしながらもしっかりと扉を調べて居たストリケッティ嬢が一つ頷いてから、そう言って扉を開く……その向こうには上へと続く階段が有ったのだった。




