百五 志七郎、彼を知り己を思う事。
彼が帰って来たのは鏡餅の準備も終えた師走の二十八日と、暮れも押し詰まった夜だった。
「鈴木清吾、武者修行を終え帰参致しました」
「随分と無理を重ねたのでは無いか? 短い期間でかなり腕を上げたようじゃの」
皆が夕食を取り終え思い思いに寛いでいる広間へと姿を表した彼は、以前俺の指導に着いていた頃の温和そうな面差しとは打って変わり、頬は痩け眼差し鋭く研ぎ澄まされ殆ど別人と言って良い有様だ。
「生きている事が、自身でも信じられぬ。そんな修羅場を幾つも超えて参りました。父上が拙者に課した修練がまだ生易しい物と思えるほどに……」
その口から紡がれたのは、一郎翁が経験したという『十の試練』とも勝るとも劣らない、そんな大冒険活劇だった。
どんな運命の悪戯か、神々の思召か、偶然が偶然を呼び試練が試練を呼ぶ、そんな半年間を過ごしたのだと言う。
こんな事で見栄を張ったり、嘘を言う質の男では無い事はこの屋敷に居る者ならば誰でも知っている事である、誇張無くそれだけ苦しい旅路だったのだろう。
それどころか、彼に言わせればこれほど長い期間江戸に帰らないと言う事自体が慮外の事だったらしい。
「まさか単騎で鬼の砦を攻める事に成るとは思いませんでした……」
深々と溜息を付きながらそう言う彼の姿は、旅立つ前の一郎翁について愚痴を言う姿を彷彿とさせ、彼の性根が変わった訳では無いと思わせるには十分だった。
「良くぞ無事に帰ってきた!」
「流石は一郎の子!」
「砦落としとか、どんな英雄様じゃ」
「流石は猪山の男!」
この場に居る皆もそうだったのだろう、外見の変化から苦労が偲ばれる事も有り、父上以外の誰もが押し黙っていたのが、自分達の知る彼の姿と変わらぬ部分が有ると解った途端に拍手喝采が湧き上がる。
「して、得心行くまで格を上げる事は出来たでござるか?」
その騒ぎが一旦収まるのを待って、義二郎兄上がそう問いかけた。
無言で差し出された鬼切り手形には『格:五十五』と表記されている。
旅立つ前の鈴木の格はたしか二十、この半年で三十五も上げて来たと言う事だ。
「ニャ!?」
「ヒッ……」
睦姉上や女中達がそんな声を上げた、無理も有るまい。
その時の義二郎兄上が見せた表情の変化は軽くホラーである、笑みと言うのはコレほどに獰猛さを感じさせる表情なのか、ソレを見て俺はそう思った。
『獰猛な肉食獣の笑み』なんて表現を前世に読んだ小説で眼にした事が有るがそれすらも生温い、むしろ獲物を前にした快楽殺人者の笑み、そんな風にすら見える。
まぁ兄上はどちらかと言えば戦闘狂なのだろうが、どちらにせよ女子供に見せて良い類の物では無いと思う。
「双方とも立ち会いに異存はなさそうじゃな……、なれば年明け早々に場を設ける。どちらも万全を期して挑める様身体を休めよ。明日から当日までワシの護衛は和馬に任せる」
「「「御意」」」
義二郎兄上、鈴木、そして護衛を命じられた芹澤和馬が揃って返事をした。
「さて清吾、お主にはもう一つ話がある。紹介せねば成らぬお方が今我が家には滞在しておるのじゃ」
「紹介でございますか?」
にやりと兄上とは違う人好きのする笑みを浮かべた父上と、訝しむ様な表情を見せる鈴木。
父上だけではない、鈴木以外のこの場に居る者達が皆、面白い物を見つけたと言わんばかりの悪戯っ子の笑みを浮かべていた、そしてきっと俺も例外では無い。
「此奴が鈴木清吾。一郎の息子じゃ」
「貴方が私の孫ね? はじめまして貴方のお祖母ちゃんですよ」
「はぁ?」
父上に紹介され、出会い頭に放たれた開口一番の言葉に、鈴木は何を言っているのか理解しかねるといった表情でそう口にした。
無理も無いだろう、森人だと知らなければお花さんの容姿はどう見ても十代前半、その彼女に『お祖母ちゃん』 等と言われて誰が即座にそれを理解できようか。
「お主が旅立った後、志七郎に与えられた術の加護が精霊魔法じゃと判明してな。精霊魔法の大家である其方の祖母を招聘したのじゃ」
「貴方が生きている内に又この国に来れるとは思ってなかったから嬉しいわ。それに今回の滞在期間を考えれば、もしかしたら曾孫を抱けるかも知れないしね」
したり顔で補足する父上と少女の様にコロコロと笑うお花さん、それに対して鈴木は『わけがわからないよ』と言わんばかりの表情だ。
「「「ぶっ……あはははは」」」
修行により精悍さの増した面立ちの彼が見せたそんな表情に、誰ともなく吹き出し皆が腹を抱えて笑い出すまでには然程時間を必要とはしなかった。
「姉上は鈴木に嫁ぐ事に異論はないのですか?」
寝室のある奥向きへと続く渡り廊下を抜けた所で、俺は礼子姉上にそう問いかけた。
「んー、思う所が無い訳では無いけれど、異論と言う程では無いわねー。むしろ、行き遅れる前に貰ってくれるなら有難い話じゃないかしら?」
一瞬考える様に視線を彷徨わせ、姉上はそう答える。
その思う所と言うのが聞きたいのだが、俺が言い募る前に姉上が更に言葉を続ける。
「それに藩と藩の間を取り持つ、と言う様な理由で幕府から見合いを斡旋されるのに比べればかなり良い条件だわ。他藩に嫁ぐのと違って家同士の損得が対立する事が無いもの」
反目し合う二つの藩がそれこそ戦争にでも成り兼ねないそんな状況の時、幕府が間を取り持ち手打ちを行う手段の一つとして大名の跡取りと姫君の婚姻と言うのはよくある手段の一つだと言う。
だが対立の原因をどうにかせずに行われた政略結婚では、姑と上手く行かなかったり、家臣団や国元衆から奥方様と認められ無かったりと、そう言った話は決して少なく無いらしい。
逆ロミオとジュリエットとでも言えば良いだろうか? 二人が好き有って居るならば敵対する家族と言うのも乗り越えるべき障壁と成るだろうが、二人も家族も反目しあっているならば不幸に成る未来しか見えない。
「殿方は他所で色々好きな事をしても咎められないけれど、女は夫とする殿方を少しずつ好きに成って行くしか無いのよ」
幕府の面子を潰す事に成るので露骨な『嫁いびり』や一方的な離縁等はそうそう起こらないが、夫が妾や側室を持つ事が咎められ無いこの国では下手をすればもっと悲惨な状況と言えるのではないだろうか?
前世でも世間体や経済的理由から双方に愛人が居ると言うような状況は聞いた事が有る、だが男の立場が強いこの世界では妻が不義密通をしたりすれば、女敵討と言って間男と妻を斬る義務が生じるのである、不倫は文字通り命懸け洒落に成らないのだ。
残念ながら俺は通算約四十年色恋沙汰とは縁遠い人生を送ってきた為、気の利いた事は言えなかった。
まぁ今生は未だ幼いこの身であるそういう感情すらほとんどわかないが、前世でもそういう色っぽい話とは縁遠かったのだ。
学生時代にはそういう事に憧れたりもした事は有るが、警察学校を卒業し任官した後は痴情のもつれや、もっとド汚い犯罪なんかを見てしまった事も有ってか、リアルな恋愛をしたいとは思わなく成っていた。
援交とか托卵とか……流石そんな女性が全てだとは思わないけれど……。
「まぁ、私としては兄上を打ち倒せるなら、喜んで嫁いで行くわ。彼が相手なら畑仕事を辞めろとも言わないでしょうしね。だから、しーちゃんがそんなに思い詰めた顔しなくて良いのよ」
そう言って微笑むその微笑みに、心臓が強く脈動する様に感じたのは、たぶん俺の思考が彼女の思っている方向と全く別だったからだろう。




