千六十四 志七郎、水場へと行き当たり虎の子を出す事
それから更に幾つかの扉を開けて進んだ先で、俺達は行き止まりにぶち当たった。
いや正確に言えば完全な行き止まりと言う訳では無い、
「此処は水場でしょうか? でも此の塔に出る魔物は皆、塵から産み出されたであろう幻影とでも言うべき物で、生活の為に水を必要とする様な事は無いと思うのですが……」
そんなストリケッティ氏の言葉通り入って来た扉だけしか出入り口の無いこの部屋の奥には、一片が凡そ五尺程の正方形の穴が空いて居り、其処には底を見通す事が出来る程に綺麗な水で満たされていたのだ。
しかもご丁寧な事に水中へと下りる前提と思わしき階段が底まで続いて居る。
「いえ、コレは恐らく二階の入れなかった半分の空間へと下りる道でしょう。でなけりゃこんなご丁寧に階段なんか付ける必要は無い」
こんな砂漠のど真ん中に立つ塔に満々と水を湛えた場所が有ると言うのも、不思議な気もするが此処は古代精霊文明期に建てられた塔なのだから、精霊魔法で水を周囲から集めるなんて事は造作もないだろう。
と言うか、此の塔の様に精霊魔法で水を集めている施設が他にも幾つも有るから、ニューマカロニア公国周辺の土地が砂漠化して居ると言う可能性も無きにしも非ずと言う気がしないでも無い。
まぁ此の先に何が有るのかは解らないが引掛けの類で無ければ、四階以降へ進む為の道かソレに繋がる何らかの仕掛けが有る可能性は高いと思われる。
「取り敢えず此の水が安全かどうかを調べましょうか? それとも斥候の技術でそうした事も解りますか?」
この部屋に来るまでに見かけた幾つか有った罠の存在を考えると、この意味あり気な水路自体が罠と言う可能性も捨てきれない。
そう考え俺はストリケッティ氏に問いかけつつ、鎧の上にぶら下げた振り分け荷物の中から、錬玉術用の小手鍋と試薬を取り出す。
「多少ならば毒や薬の知識は有るが、ソレは飽く迄も暗殺を防止する為に覚えた物でしか無い。それに普通の水場ならばその環境を見て飲水に出来るかどうかの判断は冒険者としての基本知識程度には知ってるが、こう言う遺跡の水は飲まないのが常識だからな」
そもそも人は水の中で生きる生物では無い以上、どうしても必要で無ければ水の中に入る事自体が自殺行為と言える。
なんせ水場には水場に適応した魔物が居ると言うのが相場だからだ。
故に普通の冒険者は遺跡でも地下迷宮でも水場にはどうしても必要な場合以外は近づかないのが鉄則だと言う。
そんなストリケッティ氏の話を聴きつつ、俺は手鍋に水を掬うと其処に試薬を放り込む。
「コレは錬玉術で作られた試薬で、人に害の有る成分が一定以上含まれている場合に変色する霊薬です。此奴が有ればその水が飲めるかどうかが一発で解る優れものだ」
正式名称を『清水の試薬』と言う、この霊薬は火元国から持って来た物では無く、此方の大陸で冒険者組合の仕事をしつつ集めた素材で俺自身が調合した物である。
その調合法自体は勿論火元国に居た頃に智香子姉上から習った物で効果の程も確認済みだ。
「うん、成分に問題無し。飲めるし泳いでも大丈夫だな」
この試薬で確認出来るのは飲み水として安全かどうかなので、ソレだけで味まで確認出来る訳では無い、と言う訳で一度手鍋の中身を捨てて手持ちの水袋の水で濯いでから、改めて水を汲んで口を付けてみる。
変な臭みも無ければ妙な舌触りも無い……江戸の街に有る井戸の水は基本的に地下を走る上水道の水なのだが、ソレは木製の樋を通して各地に流されている為、どうしても木の風味が水に移って仕舞うが流石に慣れてしまえば気にならない。
それと比べて今回の水は前世の世界で便利屋なんかで流通して居た天然水に近い味わいな気がする。
ワイズマンシティで使われている精霊魔法で集めた水は、コレよりももっと味気無い感じがする物なのだが……コレはもしかして本当に塔の地下から組み上げているんだろうか?
「この水美味いぞ……うん、革の匂いが染み付いた水袋の水より此方の方が良いな」
水袋の水を一旦全部捨て、水路の水を入れ直す。
「……この奥が水中を進むべき迷路だというなら、中には水生生物系の魔物が居るんですよね? そんな奴等が居るだろう場所の水を良く飲めますねぇ」
水を飲み水袋の水を入れ替える俺に対して、一寸引いた様子でそんな感想を口にするストリケッティ氏。
「まぁ魚やらなんやらが生きてる川の水でも、さっきの試薬で飲める判定なら先ず中たる事は無いですし、気にしてたら旅なんか出来ませんよ?」
川なんかから汲んだ生水を飲むのは基本的に危険な行為なのは、この世界でも前世の世界でも変わらない、特に北海道ではエキノコックスと言う寄生虫が野生動物の腸内に居る事が多い為、どんなに綺麗に見える水でも絶対飲んでは行けないと習った覚えが有る。
その辺の事を丸っと解決してくれる便利な霊薬が清水の試薬なのだが、この薬の本来の用途は飲料水の確保では無く、その水が錬玉術の素材として『綺麗な水』に分類される物なのかを確認する為の物だったりするのだ。
この試薬で飲用不可と成った場合でも『塩水』や、『水油』と呼ばれる見た目も匂いも水と変わらないが可燃性の物だったりと、錬玉術の素材として使い道の有る物だったりする場合も多い。
そうした綺麗な水以外の用途で使えるとされて居る物の場合は、それぞれ対応する色に変色する為、錬玉術を学ぶ上で最初期に習う霊薬の一つだったりする。
「となると後はどれだけ水中を進まねば成らないかと言う事か……私も金鎚と言う訳では無いが、先の解らない水中を長々と探索出来る程に長く潜り続ける事が出来る訳でも無いからな」
水中を探索しなければ成らない時に一番問題に成るのは、当然の事ながら水中では呼吸が出来ないと言う事だ。
一寸潜って直ぐに空気が有る場所が有れば問題無いが、ソレ無しで水中を移動し更に水場に生息する魔物と戦えと言うのは、無理無茶無謀の三拍子が揃っていると言う物である。
但しソレも俺個人の事だけならば氣を使ってゴリ押す事で何とか成らない事も無かったりする、器用さや賢さなんて概念的な能力すら強化出来るこの能力で肺活量を強化出来ない訳が無いのだ。
とは言え、ソレをした所で時間制限付きなのは変わらないし、何よりも肺活量強化に氣を回す以上、他の能力を強化したり氣を消費する斬鉄の様な運用は難しく成る。
つまりは年相応より多少優れている程度の身体能力で、水中に適応した魔物を相手にしなけりゃ成らないと言う訳だ。
「そりゃその辺は此方も同じですよ。でもまぁ呼吸だけなら……この霊薬で何とか成りますよ」
状況に適した道具を用意出来た時に、こんな事もあろうかと……と言いたく成る気持ちが理解出来たが、多分言ってもネタ的に通用しないと思うので自重しつつ、普通の印籠から『空気の飴玉』と呼ばれる丸薬を取り出した。
コレは北方大陸由来の錬玉術の調合法で作られる『水中呼吸の霊水』を火元国の薬師達が持っていた技術で更に発展させた霊薬で、元の霊薬が飲んでから三分程度水中でも活動出来る様にする物なのに対して、此方は噛み砕かなければ一時間は持つ優れ物だ。
ちなみに此方の方は俺が此方に来てから作った物では無く火元国を出立する際に智香子姉上から貰った物だが、飴玉は丸薬よりも更に状態が安定化して居るらしく長期保存も効くと言う点でも優れた逸品と言えるだろう。
なおこの技術を北方大陸へと持ち帰った姉上の師匠に当たる虎殿は、錬玉術師製造所で又一つ賞を受賞したんだとか……。
「水中で呼吸出来る様に成る霊薬か……ソレは私にも分けて貰えると言う事で良いのだろうか? 無論無料で寄越せ等と傲慢な事を言う積りは無いが、余り大きな額面だと私では払いきれないぞ?」
少し悩んだ様な素振りをみせたストリケッティ氏は、何かを覚悟した様な顔でそんな事を言いだしたのだった。




