千四十七 志七郎、初心者の幸運を見て飲み放題を堪能する事
「はい、次の勝負に行く前に一端手を止めて大きく深呼吸」
皆がどんな塩梅かを見て回っていると、母上が御前崎殿にそんな言葉を投げ掛けているのに遭遇した。
どういう状況なのかは彼が座っているブラックジャックの卓に積み上がった大量の駒を見れば何となく想像が付く。
所謂初心者の幸運で勝ち続けて、大量の駒を手に入れてしまったのだろう。
俺も賭博に慣れていると言う程にやり込んで居る訳では無いが、ソレでも慣れていない者が初めての勝負でドカンと大勝ちしてしまい、ソレに味を絞めて博打にどっぷりハマってしまう、と言う心境は理解出来る。
「貴方が最初に用意した種銭分の駒は横に避けて起きなさいな。ソレが無く成る前に撤退したので有れば勝ちよ。戦場と一緒、勝ち逃げは立派な勝利、未だ行けると深追いして種銭を割り込んだ状況こそが負けなのよ」
そしてもう一つ……賭博の場では一度勝ってしまうと、その後に負け始めた時に『儲けが最大だった時より負けて居る』と言う心理が働いてしまう物なのだ。
正確には『最初に持ち込んだ種銭』を割り込んで居なければ『負けでは無い』のだが、なまじ一度『儲かった』と言う頭が有る物だから、其処から『減った』と感じてしまうと言う事らしい。
そうした心理に関して鉄火場の酸いも甘いも知り尽くした母上は、御前崎殿に対して『勝ち逃げも勝ちの内』と彼を諭す言葉を掛けて居た。
「あら? 志ちゃんは一端休憩? 此処は凄いわよねぇ。お酒も果汁の類も全部無料ですって。猪山藩下屋敷はソレも込みで利益を出して居る事を考えたら此処の経営者は余っ程のやり手よ?」
母上の言葉を聞き入れた御前崎殿が冷静さを取り戻した様子を見せたのを確認した後、母上は俺が見ている事に気が付いたらしく、小さく手を振りながらそんな言葉を口にしつつ此方へとやって来る。
その言葉の通り、手には真っ赤な葡萄酒と思われる飲み物が入った硝子盃を持ち、ちびりちびりと呑んで居た。
こうした海外式の賭場で酒が無料提供されているのは、酔わせる事で判断力を鈍らせ博打で打ち勝つ事で見世の利益を少しでも多くする為だ……と前世に聞いた覚えが有る。
猪山藩の開いている公認賭場でも酒類や肴は提供して居るが、其れ等は金銭の代わりに駒で支払う事は出来るにせよ基本的には有料だ。
俺の感覚的に言うのであればパチンコ屋でコーヒー買う際に玉で支払う事が出来る……と言う様な感じだろうか?
「この葡萄酒も無料で提供して居るとは思えない程に良い味をしてるわよ。普通に買ったなら一本で金貨一枚はするんじゃ無いかしら?」
外つ国で使われる金貨は一枚の価値としては火元国の一両小判よりも大分安いが、ソレでも流通する最大貨幣だと言う事は間違い無い。
とは言え酒は嗜好品で有り上を見上げれば青天井に値段が上がっていく物なのは、向こうの世界も此方の世界でも変わらず、葡萄酒も高い物に成ると金貨千枚を余裕で超える……なんて物も有ると聞いた覚えが有る。
ちなみに前世に俺が呑んだ事の有る一番お高いお酒は、とある希少焼酎で定価で買う事が出来れば四合瓶で二千五百七十円が、問屋から問屋、酒屋から酒屋へと転売を繰り返す事で値上がりし買った時には一万五千円と言う値段に成った物だった。
まぁソレを買ったのは俺自身では無く、猫喫茶を経営して居た友人の祖父で、ソレを呑んだのは買った当人が亡くなった後に『遺品整理』と言う名目で友人が呑んでいた時に御相伴に預かったと言うだけである。
とは言え四合瓶一本でそのお値段と言うのも酒好きと言う訳では無い俺からすれば割と狂った価格に思えるが、世の中には上には上と言う物が有る訳で、とある事件で踏み込んだ組事務所に所蔵されていた希少葡萄酒は競売の結果五百万円とか冗談みたいな値が付いた。
誰が買うんだそんな物と前世では思ったが、今生での経験から察するに多分仁一郎兄上の様に『良い酒を手に入れる為なら何でもする』と言う人間は世の中に一定数居るものなのだろう。
……なんせ兄上の収集品の中には上様ですらおいそれとは呑めない様な、希少な物が幾つも有りソレがとんでも無く美味かったと御祖父様が自慢していたのを聞いた事が有るのだ。
俺自身なにかの収集を趣味にした事は無いので、収集品を失うのがどれ程の痛手と苦痛を伴う物なのか今ひとつ理解出来ては居ないが、あの時の兄上の消沈した姿は一寸可哀想だと思ってしまった。
それでも確かアレは仁一郎兄上が油断したが故に、義二郎兄上が片腕を失った事に対する懲罰の一分で、そうした罰を与える事で仁一郎兄上が必要以上に気に病む事を避けると言った意味合いが有ったんだと思う。
「おう、志七郎。お前は呑まねぇのか? 子供の頃からベロンベロンに成るまで呑んで嵌まり込むのは不味いが、お前なら節度を守って呑めるだろ?」
クイッと小さな硝子盃で混合酒らしき物を呑みながら父上がそんな言葉を投げ掛けてくる。
「子供の内に酒を呑むのは余り身体に良く無いんですよね。酒は百薬の長であると同時に百毒の長でもありますから……ついでに言うと煙草も余り身体に良い物じゃぁ無いので、父上も長生きしたいなら控えた方が良いですよ」
前世の世界では未成年者の飲酒喫煙は、年齢の差は有れど何処の国でも概ね禁止と言うのが普通だった。
『法律で決まっているから禁止』なんて話では無く、未成年者の飲酒や喫煙は心身の成長を阻害する原因に成ると医学的な証明が果たされていた筈だ。
特に脳が発達していく時期の飲酒や喫煙に依って脳が萎縮する様な事も有ると言う。
更には二次性徴の遅れが発生し、下手をすると男性や女性としての機能に障碍を持つ事にも繋がる為、本気で酒や煙草に子供が手を出すのは害しか無い。
酒も煙草も上手に付き合えば心身の重圧を大幅に軽減する事が出来るのは事実なので、大人が正しく嗜好する分には良いと思うがね。
ただ……猪河家の場合、氣の深奥を極めた御祖父様が常人以上に長生きする事が決まっている様な物なので、父上が逆縁の不幸を犯さない為には少しでも健康に気を使って長生きする努力が必要だろう。
「確かに酒も煙草も博打も女も嗜む程度が一番。嵌り込んで阿呆程の銭を使い続ける事程馬鹿な事は無い。けれども此処の酒は無料酒だからの、適度に呑まねば損と言う物よ」
成る程、食べ放題や飲み放題に行くと『元を取らねば損』と考える者と同じ様な思考な訳か。
とは言え、基本的にあの手の商売はそう簡単に元を取られたら利益に成らない訳で、生半可な食事量では店が損しない様に成っている物だ。
ソレこそ大食い選手なんて言われる様な連中で無ければ元なんか取れる訳が無い。
ふと食べ飲み放題と言う言葉から江戸で会った管太郎と言う男がやっている見世が心配に成った……猪山藩の連中に食い潰されて無いと良いが。
常人の三倍食うのが当たり前の猪山藩の者達が、成吉思汗と麦酒の食べ飲み放題の見世に押し掛けたらあっという間に食い潰される可能性は十分に有る。
一応、熟成肉に関する技術の件で猪山藩との提携関係を結ぶ事が出来たから、そっちの利益で彼自身が食っていくのには問題無いとは思うが、彼処の肉は十分以上に美味かったので、ソレがいつでも食える見世が有ると言うのは俺にとっても大事な事だ。
「父上達は此れが終わったらお花さんの魔法で火元国に戻るのですよね? 若い連中が管太郎の見世を食い潰す様な真似をしない様に注意してくださいね? あの見世を見つけたのは俺なんですから」
そう言ってから俺は、酒場帳場へと向かうと生姜発泡飲料を注文するのだった。




