千三十二 志七郎、侮る事無く思わぬ苦戦強いられる事
立ち姿の時点でただ単に身体の大きな木偶の坊では無いとは思っていたが、ソレが想定以上だったと気が付いたのはネギトロが繰り出した初撃を回避した時だった。
なんせ奴が放ったのは、体格差から考えれば超低空と言って間違い無い高さに有る俺の顔面へのドロップキックだったのだ。
しかも短い助走距離にも拘らず十分な勢いが乗っていたソレは、前世の世界の職業摔角で見られる物とは違い、完全に相手を『壊す』前提で繰り出された危険過ぎる一撃だった。
……向こうの世界で職業摔角と言うと『格闘技では無い』とか『八百長が基本』なんて事を言い出す輩が多かったし、事前に打ち合わせ済みの『見せ掛けの喧嘩』なんかを隠語として職業摔角と呼んだりする事も有った。
では職業摔角者の技と言うのは、大した事も無く然程危険でも無い物なのだろうか? 答えは否だ。
団体にも依るだろうが、多くの職業摔角者が、事前に試合内容に付いてある程度取り決めを交わす『ブック』と呼ばれる物に従って試合をするのは、八百長云々では無く単純に『そうしなければ危険だから』である。
職業摔角技と言うのは基本的に素人が見ても『危険そう』『痛そう』『此れを喰らったらヤバい』とハッキリ解る様で無ければ試合は盛り上がらない、そんな派手で危険な技を食らっても耐える頑健さを魅せ付けるのも職業摔角の華といえるだろう。
だがだからこそ実際にガチンコで食らえばヤバい技は腐る程有る、解りやすいのは今ネギトロの奴が放ったドロップキックだ。
此の技は端から見ていると単純に飛んで蹴って居るだけに見えるが、身体を進行方向に向かって右回りに撚る事で相手は前もって受け身の体勢を取る事が出来、ソレに依って怪我を防ぐ事が出来るのである。
更に言うならば蹴る際に膝を曲げる事で衝撃を緩和したり、逆に当ててから伸ばす事で衝撃よりも吹っ飛ばしに威力を回す……なんて工夫も有ったと前世に職業摔角愛好家だった暴力団員に聞いた事が有った。
対して今俺に向かって繰り出された物は、通常とは逆の左捻りで膝を曲げる様な事も無く、確実に全体重と速度を此方にぶつける事が出来る様にした物と思わしき一撃だ。
氣に依る意識と敏捷性の強化が有ったからこそ、ソレを無事に躱す事が出来たが、マトモに食らっていたならば頚椎を骨折し運が良くて半身不随、下手をすれば即死も十分有り得ただろう。
「手前ぇ……犯罪組織同士の抗争でも殺しは御法度じゃぁ無かったか? 今のは完全に殺す気だっただろ!? そっちがその気なら此方も気を使うの止めんぞゴルァ!」
ドロップキックを躱され俯せに落ちたネギトロの頭に向かって、俺は即座に蹴りを放ちながら怒声を上げるが、奴は両腕の腕力だけで身体を持ち上げそのまま飛び立ち上がると言う力技を見せ付ける。
「あの程度で死ぬ様なタマかよ! お前さん火竜列島のサムライって奴だろ? て事ぁ氣功使いなのは間違い無ぇ。そもそも幾ら雑魚ってもお前みたいな子供がウチの連中倒せてる時点で只者じゃねぇのは確定だ」
カイセン兄弟は皆が皆西方大陸基準でも巨漢と言って良い恵まれた体格の者達だ、生まれ持った体格と言う名の暴力だけでも犯罪組織の中では相応の地位が約束されていた事だろう。
にも拘らず、武と呼べる物を身に付けるだけの努力をして来た痕跡が見受けられるのは、恐らくは兄弟の間でも競争とでも言うべき争いが有り、ソレに勝利する為には他の者達に勝る為の努力が必要だったと言う事だと思われる。
故に奴は粗暴な犯罪者としての倫理観しか持たないながらも、武を嗜む者としての冷静な判断力を併せ持って居ると言う事だろう。
「サラウの奴にゃぁちっとばかり上を行かれちゃ居るが、俺だって一家の中で伸し上がる事を目指してるんでね。油断だけは絶対しねぇって決めてるんだわ。万が一にも殺っちまったなら、御勤めしてくりゃ良いだけの話だし……なぁ!」
先程までの下卑た笑いとは違う肉食獣が見せる獰猛な笑みを浮かべたネギトロは、首を軽く回しながらそう言うと、最後の一声を掛け声として此方の下半身を狙った超低空タックルを仕掛けて来た。
幾ら氣を使って身体能力の強化が出来るとは言え、体重や体格を増す事は出来ない為、掴まれるのが一番ヤバい。
手足の長さの差から関節技を決められる事は無いだろうが、首根っこを掴まれて浮かされたり投げられたりした場合の対処は難しい。
釣り上げられたなら無防備な部位に氣翔撃を打ち込んだり、高々と投げ上げられたならば瞬動や瞬歩等と呼ばれる足から氣を放つ高速移動術を空中で行う事で受け身を取る事は十分可能だが、叩きつける様な投げを喰らった場合が洒落に成らないのだ。
そして奴は恐らく氣功使いを相手にした経験が有る様に思える。
普通は幾ら火元国の武士が氣功使いだと知っていても、今の俺の歳相応の体格を見て侮るなと言う方が難しい。
文字通り大人と子供の喧嘩なのだから勝って当然と、氣功使いの恐ろしさを知らない者ならばそう思うのが普通なのだ。
にも拘らず侮る事無く確実に此方を潰す前提で攻撃を仕掛けて来ている以上、奴は氣と言う物が持つ優位性の大きさを実感として知っていると考えるべきだろう。
だから此方も相手を犯罪者風情と侮る事無く殺さない程度に全力で迎え撃つ!
そう判断し、腰に佩いた刀を鞘ごと抜くと意識加速の中でさえ速いと感じる勢いで迫りくる背中へと振り下ろす。
十分に氣を練り込んだ一撃で硬い肉を打つ感触が手に伝わり終わった……と一瞬思ったが、ソレが誤りだったと気が付くまでに掛かった時間は恐らく一秒の十分の一にも満たないソレこそ一度瞬きをするよりも短い程度だっただろう。
俺は奴の頑健さを見誤ったのだ、常人ならば先ず間違い無く打ち伏せて居ただろう一撃を、ネギトロは鍛え辛い筈の背中の筋肉でしっかりと受け止め、タックルを止める事無く組み付いたのだ。
そしてそのまま俺を押し倒すと、馬乗りの姿勢へと淀みない動きで一気に体勢を整える。
「悪いな、其の程度の攻撃は受け慣れてんだわ。どーせなら顔面に膝を入れてそのまま脳味噌に直接氣を叩き込むとかした方が良かったかもなー。まぁソレやられたら流石におっ死ぬだろうが」
勝ったという笑みでは無く此れから暴力を楽しむのだと言う様な獰猛な笑みを浮かべながらそう言ったネギトロは、俺の頭と然程変わらない様な大きさの拳を躊躇う事無く此方の顔面へと振り下ろす。
そのまま無防備に食らえば先ず間違い無く命を落とすだろう一撃を、俺は僅かに動かす事の出来る首を捻って額で受け、氣を其処に集める事で可能な限り被害を最小限に押し止める。
二度、三度と打撃は繰り返されるが四度目が来る事は無かった。
額と言うのは人体の中でも可也丈夫な部分の一つで有り、反対に拳と言うのは割と脆い部分の一つで、其れ等をぶつけ合わせれば壊れるのは拳の方が先なのだ。
総合格闘技なんかの試合では馬乗りの状態から顔面への連打と言う光景は割と良く見られる物だが、アレはグローブを付けているからこそ成り立つ物で、素手での喧嘩では殴った方が痛い目に合うと言う事も有り得る、故に俺はソレを意図してやったと言う訳である。
「お前が氣功使いならば今ので勝負が付いて居たんだろうが残念だったな」
痛そうに手を振りながらも、未だ油断する事無く此方を見下ろして居るネギトロに俺は敢えて挑発的な笑みを浮かべてそう言い放つ。
「Shit! 俺様とした事が勝負を急いじまった……此の体勢から確実に蹴りを付けるなら此方の方が良いよな」
するとネギトロは明らかに怒りの表情を浮かべて、俺を首を締める為に両手を伸ばして来る。
そう、狙い通りだ……俺は首を締める為に伸ばして来た奴の指を一本掴むと、躊躇する事無く圧し折るのだった。




