千二十二 志七郎、美食の極みに舌鼓を打ち次の狩り考える事
本当に美味い物を口にした時、人はどんな感想を漏らす事も出来ず、只々溜め息を吐く事しか出来ない……
コレは此方の世界に生まれ変わってから何度か経験した事では有るが、本音を言うならばこうして息を吐く事すら惜しく成る程の口福を感じられるのだ。
使われいる調味料は塩と胡椒それから恐らくは何らかの酒と香味油と言った所だろうか?
絶妙な加減の其れ等と葱や生姜と言った薬味が、蛋白な鯛の身と渾然一体となったその味は、美味と絶妙以外の感想を抱く事は出来なかった。
対して眼の前で同じ料理を頬張っているお連はと言えば……うん、完全に魂が抜けている。
コレ程の料理を口に出来るのは猪山屋敷でも、礼子姉上が会心の出来と言い切る程の野菜と、新三郎兄上が会心の釣果と胸を張る魚を、睦姉上が渾身の力を込めて調理した時位な物で年に何度も有る事では無い。
当然お連が江戸に滞在していた短い期間にそうした会心の一品が食膳に上がる事は無く、彼女が此の格の品を口にするのは初めての事なのだろう。
うん、これ級の逸品を初めて食べたら、美味すぎて脳が一瞬機能不全を起こすんだよなー。
俺は上記した通り何度か食べてたのである程度、慣れて居るし食神様が自ら調理した極上の摘みで御神酒を頂いた事も有るから溜め息程度の反応で収まって居るが、初めてその辺の物を口にした時は思考停止した記憶が有る。
にしても……此の鯛、絶対普通の鯛じゃ無いぞ?
蛋白な白身魚の蒸し物に薬味を乗せてから熱々の油を掛けて仕上げた一品なのは見た目と食感で理解出来たが、鯛の旨味が香味油や薬味に全く負けて無い。
コレ恐らくなんだが……妖怪化した鯛とかそう言う奴なんじゃぁ無いだろうか?
もしそうならお値段が割と怖いが、此の味の為ならば百両出しても惜しくは無い、まぁ西方大陸は北方大陸と同じで金貨、銀貨、銅貨と言う別通貨だけどな。
と、そんな事を考えて居る間に折角の魚が冷めてしまっては勿体ない。
「お連、美味過ぎて驚くのは解るが冷めると勿体ないから、先ずは食べてしまおう」
魂が抜けた様な表情で固まっているお連に声を掛け、冷たい茉莉花茶で一旦口を初期化してから改めて鯛に箸を伸ばす。
「ゑ!? あ! は、はい!」
人が驚いた様を『魂消た』と言うが、今のお連は当にそんな感じだったと言って間違いないだろう。
「ヘイ、パイ。彼等の魚は我々の物とは違う特別な品なのかい? 確かに今日の魚料理も美味かったが、彼処まで仰天する程の品ではなかったと思うが?」
そんな俺達の反応を訝しんだのか、客の一人がパイ嬢にそんな疑問の言葉を投げかけた。
「魔鯛は大きければ大きい程に味が濃く成る魚の魔物ネ。当然アレだけ大きければその分味も良くなるけれど……御値段も相応に成るヨ。彼等は一人分に五人前の御足払てるからアレ出せたヨ」
後から呪文図書館の魔物図鑑で調べた事だが魔鯛と言う魔物は、ワイズマンシティの沿岸部に出現する魔物の中では割と数の多い存在では有るが、その中でも大型の個体が綺麗な状態で揚がるのは稀な事らしい。
ただ此方の人々は東方大陸や火元国の様に鯛を尊ぶ文化が無い為、基本的に白身魚は纏めて捌いて練り物にするか、フライにして売るのが一般的で、魚種毎に分けて処理する事は殆ど無いと言う。
其の為、魔物化した魚も普通の魚も市場では区別される事は無く、精々大きさの分だけ高く成る程度で取引されているのだそうだ。
勿論、魔物化して居る以上は漁の際に危険は有るし、その分値段に上乗せするべき……と言う意見も少なからず有るのだが、今以上の値段を付けた所で今度は買う者が居なく成ると言う問題が発生する為に今の所は据え置かれていると言うのが実情である。
「ほう、魔鯛はそう言う性質の有る魔物魚なのか。いや私は釣りが趣味でね、ただ基本的にはキャッチ&リリースで遊んで来たが、此の見世で魚料理を食べる様になってから、釣った魚の味が気に成る様になってきてね。うん、今度釣れた時には食べて見るとしよう」
流石は高級料理店だけ有って客の方も『自分以外が得をする事に耐えられない』と言う性質の者では無かった様で、本当に只の質疑応答で終わった様だ。
「魔鯛は毒は無いけれど調理次第では折角の素材が台無しに成る事も有る魚ネ。上手く釣れた時にはウチの見世に持て来れば爸々が美味しく調理してくれるし、材料代分お安く出来るから遠慮せず持て来るよろし」
……成る程、食材の持ち込みなんてのも有るのか。
「特に野菜系の魔物は大歓迎ネ! 薬味に使てる物も基本的にはウチの道場で植木鉢使て自家栽培してるけど、全然足りないヨ!」
此の街で野菜類が基本取れないのは土壌に含まれる塩分が多すぎる事が主な原因である、ならば地面から切り離された植木鉢で他所から持ってきた土を使って栽培する分には完全に不可能と言う訳では無いらしい。
とは言えそうした植木鉢栽培も大規模にやろうと思えば思う程に、海風に晒される事に成り結局は家庭菜園程度の規模でしか上手く野菜類を育てる事は出来て居ないと言う。
そうした環境の中である程度大規模な牧草地を露地栽培で作り上げたマクフライ牧場と言うのは、本当に此の街では稀有な存在だと言う事がよく解る。
「野菜と言えば、そろそろ空飛ぶ玉菜の群れが東から来ても可怪しくない時期だな。アレは新鮮な内にサラダにして食べると本当に美味い。まぁ値は張るが他所から輸入する乾いた葉物を水で戻した物とは比べ物に成らんからな」
と、パイ嬢の口にした言葉から、どうやら俺達に向けられていた話題の目を逸れて別の話題へと話は移って行った様だ。
にしても……空飛ぶ玉菜か、基本的に野菜類が栽培出来無ず、保存用の乾燥野菜なんかを輸入せざるを得ない此の街で、新鮮なソレも生で食べれる清浄な野菜が手に入る機会が有るならば、その価値は確かに高いだろう。
ソレを口にしたお客さんの言葉から察するに、恐らく空飛ぶ玉菜は定期的に群れで出現する魔物だと言う事は想像に難く無い。
どの程度の強さなのかは解らないが、金に成ると言うのであれば冒険者組合で討伐若しくは捕獲の依頼を受けて見ても良いかもしれないな。
そんな事を考えながらも俺達の箸は止まる事無く、無事に大きな真鯛を丸ごと骨だけを残して食い尽していた。
「本当にアレだけの量を御子様だけで食べちゃうなんて驚きネ……次は肉料理だけれども無問題?」
事前にそれぞれ五人前食うと言う話で予約はしていたが、実際に来店したのが俺とお連の様な子供だった事で、本当に食べ切れるのかパイ嬢は少々疑問視していたらしい。
「ええ、未だ腹半分にも達して居ませんよ」
「はい、美味しい物を頂いて、余計にお腹が空いてきた位です」
けれども俺は勿論の事、お連までもがそんな答えを返した事で、彼女も納得したのか次の皿を取りに厨房へと足を向ける。
「今日の肉料理は豚鬼将軍の東坡肉ネ。豚鬼肉の奴は割と良く作るけど、将軍の肉は中々手に入らないから今日のお客さんは本当に運が良いヨ」
食用に成る魔物は基本的に同種の中でも強いモノ程美味いと言う法則が有る、豚鬼将軍は豚鬼系統の魔物の中では上から数えた方が早い存在だし、当然相応に美味いと言う事に成る訳だ。
ソレを想像するだけで口の中に溢れ出す唾液を喉を鳴らして飲み下し、その名の通り堤防の様な分厚い肉に箸を付ける。
柔らかい、箸で簡単に切れる程に……その上で肉の色味を見る限り、深い所まで完全に味が染み込んで居るのが容易に想像が付く。
コレは絶対美味い奴だ……そんな事を確信しながら俺は、溢れ出す涎を垂らさない様に注意しながら口を開くのだった。




