千十五 志七郎、許嫁の渾身と奇跡を見届ける事
掌と掌が打ち合わされ乾いた音が辺りに響き渡る。
彼女の小さな掌が立てた音としても異様に大きく聞こえたソレは、氣に依る強化の賜物なのだろう。
お連が蹲踞と呼ばれる膝を開いた状態で腰を落とししゃがみ込む姿勢で、腕を伸ばしたまま両の手を打ち合わせるソレを為すと、ほんの僅かでは有るが辺りに漂っていた腐臭がほんの僅かでは有るが薄れた様な気がする。
軽くそのまま掌を擦り合わせ手を開く、それから腕を左右に大きく広げ肩よりも上へと持ち上げてから手首を返して手の甲を上へと切り替える。
塵手水と呼ばれる一連の所作は、神社に参拝する前に手を洗う手水場が無い土俵の上で塵を水代わりに手を清めると言う意味合いを持つ。
それから彼女は腰に下げた荷入れから何やら白い粉状の物を一握り取り出しソレを撒く。
彼女が放った物の効果は劇的で消臭剤の類と言う訳では無い筈なのに腐臭が一気に薄く成る。
今撒いたのは恐らく『塩』だ、只の塩で何故こんなにも効果が有るのかと言えば、前世の世界でも塩は洋の東西を問わず『聖なる物』として扱われる物で、ソレは此方の世界でも共通する概念だからだろう。
塩が聖なる物とされているのは、有史以前の時代で最も解り易い『穢れ』の一つだった『腐敗』を抑える効果が有る事が、経験則として多くの者が知っていたからでは無かろうか。
神々が実在するこの世界でも肉や魚に野菜を少しでも長く保存する為に塩は欠かせない存在であり、恐らくは界渡りの際に通って来た三千世界と呼ばれる無数の並行世界でも、塩に纏わる様々な概念は共通している物だと思う。
そして塩を撒いたお連はもう一度塵手水を打ち、それから一度立ち上がり再び両手を広げて柏手を打つ。
改めて両手を広げると今度は左手を腰に添え、右腕は真横へと伸ばし掌を返し右足を大きく上げると膝に手を添えて四股を踏む。
「「「「よいっしょぉお!」」」
地に足が付くのに合わせて火元組の者達が合いの手を入れると、幼い少女がしたとは思えない程の重々しい地響きを立てて大地が揺れた。
当然コレも彼女の純粋な体重や筋力に依る物では無く、氣で『四股を踏む』と言う行為その物に込められた『醜を踏み潰す』と言う概念を強化した事に依る物だろう。
前世の世界でも『相撲は格闘技では無く神事である』と言われていたし、一部の神社や仏閣では『奉納相撲』とか『一人相撲の神事』なんて物も有った通り、相撲には『聖なる物』としての概念が有るのだと考えられる。
対して此方の世界でも世界樹の神々が観る娯楽としての側面も持つ『本物の相撲』が武神 誉田様の神域で執り行われる神事と成っており、相撲ソレ自体が聖歌程では無いにせよ『神聖な魔法儀式』的な物と言える訳だ。
無論、お連の様な稚い子供のやるソレが、本物の力士の行うソレと同等の力が有る訳では無いだろうが、柏手を打ち四股で地を揺らした時点で世界樹の神々の関心を買う事が出来た可能性は十分に有る。
続けてお連は腰を割り両腕を左右下方へと伸ばし、すり足で前へと躙り寄りながら徐々に立ち上がりつつ、完全に膝が伸びる頃には両腕を肩と水平に成る様に持ち上げると掌を上へと返す。
「よいっしょぉお! よいっしょぉお!」
再び見が足を上げ四股を踏み、続けて今度は左足を上げて四股を踏む。
その瞬間だ、空から一条の光が差し込み竜骨鬼の残骸を照らすと……音もなく塵へと変えて行く。
「……成る程な、彼女自身の力で浄化すると言う訳では無く、神々の関心を買いその御力を借りると言う事か。にしても、あの幼い少女が相撲の技に通じているとは、流石は相撲発祥の火元人と言う事か」
感心した様子で彼女の為した奇跡を読み解く南方大陸の騎士殿。
聞けば世界樹の神域で行われる本物の相撲は、南方大陸でも相応に実力を持つ者ならば自身の信奉する神に奉納点を捧げる事で観戦する事が出来るのだそうで、上流階級の者達の中では割と人気の有る娯楽の一つなのだそうだ。
特に現在の南方大陸皇帝は相撲観戦が趣味の一つだそうで、彼女に目通り出来る家格の貴族達も年六回有る本場所の席を求めて奉納点を貯める為の魔物討伐に余念が無いらしい。
にしても南方大陸帝国と言えば、向こうの世界でも悪名高い人種隔離政策よりも過剰な『亜人差別政策』を取って居た筈だが……どうやらその差別意識は飽く迄も他種族に対しての物だけで火元人に対して隔意は無いのだろう。
「いやいや……火元人でも彼処まで綺麗な所作で土俵入りなんて真似が出来る者は本の一握りで御座る。単純に相撲を取るだけならば誰でも出来る事では有るが、其処に纏わる儀礼を云々は本気で相撲道に邁進せねば身に付かぬ物で御座るよ」
なんというか……『日本人なら誰でも空手が出来る』的な外国人の勘違いが発生し掛けた状況に対して、中林殿がそう否定の言葉を口にする。
うん……お連がこの奇跡を引き起こす事が出来たのは、本職の相撲部屋の娘だったと言うお豊さんに師事して相撲をきっちり学んでいたからだろう。
ちなみに向こうの世界では土俵は神聖な場所で女人禁制とされていたが、ソレは飽く迄も第二次世界大戦から暫くした後に発展した大相撲での話で有り、戦前や江戸の頃には『女相撲』と言う興行は普通に行われて居たと言う。
この世界でも氣を纏い圧倒的な肉体をぶつけ合う本物の相撲にも、決して数は多く無い物の女性力士が参戦した事は有るそうで、昔の話では有るが番付最上位である大関に至った女性力士もたった一人だけでは有るが居たらしい。
その女大関も家安公の側室だったと言うのだから、本当に彼の女性に対する守備範囲の広さには、関心を通り越して尊敬の念すら覚える。
なお、お豊さんはその女大関の子孫と言う事に成るらしいので、遠縁では有るが武光とも親戚と言って決して間違いでは無いらしい。
まぁ火元国の武士は大概、何処かで禿河の血が入って居るので武士は皆遠縁の親戚と言えるし、町人階級の氣功使いも多くの場合禿河の御落胤だと言われていたりするので、彼の遠縁の親戚は一体どれ位居るのか想像も付かないが……。
「ふぅ……どうやら上手く行った見たいですね。お前様、お連は頑張りました!」
立ち上がり一度光が指した方向の空を見上げて一礼してから、俺に向かって振り向き駆け寄って来る。
「うん、よくやったぞお連、流石はお豊さんの弟子だな」
褒めて褒めてと尻尾を振る子犬の様な耳と尻尾が見えた気がしたので、俺は彼女の頭を髪型が崩れない様に気を付けながらワシャワシャと撫でてあげた。
「お? 風が変わった? 皆、恐らく風の中位精霊来るぞ!」
気持ちよさそうに目を細める彼女が満足するまで撫でて居ると……お連の土俵入りの間、周辺を警戒していたらしいブライアン氏がそんな声を上げた。
その言葉の通り小さな竜巻が今までより増え、纏まってはばらけ、ばらけてては纏まり、数えるのも面倒に成る程に成り、其れ等の一部が纏まると大きな竜巻へと成長していく。
そして土を巻き上げ茶色い風の塊が翠玉の様な輝きを放ち始める。
翠の光が段々と強くなり目を開けて居るのも厳しく成って来たその直後だった。
「良くぞあの汚らわしきモノを始末してくれた人の子よ……お陰でこの場は又我等の手に取り戻す事が出来た。さて……今年も新たな契約者を連れて来たのであろう。本来ならば魂の一部を対価を頂く所だが此度は我等の地を取り返してくれた事で対価としよう」
下半身が風に溶けた翠色の肌を持つ森人の様な女性らしきモノが、そんな言葉を放ちながら姿を現したのだった。




