九十八 志七郎、龍と大魔法を見る事。
火の手は夜半過ぎに江戸南西部で上がった。
南の海から吹き付ける強い風に煽られ、瞬く間にその勢いを増し、既にこの大江戸の四分の一が火の海に沈んだと言う。
定火消、町火消総出で消火に当っているものの、鎮火どころか延焼を食い止める事すらままならない状況だそうだ。
当然ながら各藩の大名に対しても緊急招集の奉書が順次出されているらしい。
「故に、赤の魔女殿のお力をお借りしたいのだ、面会願う」
定火消、香西家の家臣を名乗る男は口早にそう説明すると、改めてお花さんの呼び出しを口にした。
改めて広間を見渡すが、お花さんの姿もセバスさんの姿も見当たらない。
それどころか俺以外の者達は皆屋敷の各所を忙しく走り回っており、彼に応対する事が出来そうな者は俺以外には居なかった。
「彼女はこちらには来ていない様です。まだ部屋に居るかも知れませんので確認して参ります」
俺が頭を下げそう言うと、
「ええい!子供が相手では話に成らぬ! 誰か、誰か居らぬか!」
彼は苛立たしそうに馬を飛び降り叫びをあげた。
「そう叫ばずとも、聞こえていますよ。わたくしにご用事なのでしょう」
その言葉に応えたのは、誰でもないお花さん本人だった。
彼女は屋敷の離れを居室として与えられており、そこから直接庭へとやって来た様だ。
その直ぐ後ろにはセバスさんが静かに控えている。
「貴女が赤の魔女殿で? 貴女の力でこの大火消し止めて頂きたい、今すぐに! そうすれば多くの者の命が救われる!」
男はお花さんに掴みかからんばかりに勢いでそう口にした。
「それは幕府からの要請と言う事でしょうか?」
だが、それに対するお花さんの答えは即座に応じる様な物ではなかった。
「何を藪から棒に、人助けをして欲しいと言っているのだ。幕府がどうとか関係なかろう!」
切羽詰まった形相でそう言い募る彼に対して、お花さんは人形の様な感情の篭もらぬ面持ちで口を開く。
「関係無くは無いですね。わたくしはこの江戸に滞在する条件として、幕府の許可無く中級以上の魔法の使用を禁じる様に契約を結んでいます。わたくしに魔法を使わせたいのであれば先に幕府の許可を取り付けて下さいませ」
「な、何を悠長な事を言っているのだ! こうして言い争っている内にも火の勢いは増しているのだ! 救える命も失われてしまうではないか! 約束など後からどうとでもなるだろう! 早く、早く皆を助けてくれ!」
お花さんの口から放たれる冷酷な拒否の言葉、だが彼はそれでも諦める様子無く更に言い募る、だがそれまでとは違いその言葉の最後の方は最早懇願としか言えぬ有様だ。
「魔法使い、魔女にとって契約は絶対の物。それを違えるのは、命どころか魂すらも捨てるのと同等。幕府の許可が無ければこの火災を止めれる様な魔法は使えません、事後承諾等以ての外です」
しかしお花さんの返事は変わらない、彼女の言葉通り魔法使いにとって契約は絶対なのである、それについては俺も座学で散々言われている事だ。
人を助ける力が有るというのにそれを行使する事を禁じられている、その苦しさはきっと経験した事の有る者にしか解らないだろう。
前世の世界でも管轄や法律の壁に阻まれ、発生が予見出来たのに事前に対応できなかった犯罪というのに何度も直面してきた、俺がその時感じた苦しみは彼女に比べればずっと小さいかも知れない、だがきっとそれは同種の物だと思う。
「主君が、同僚が焔の中に取り残されているのだ! 頼む! 拙者に出来る事ならばなんでもする! 拙者の命ならばくれてやる! どうか、どうか皆を助けてくだされ!」
崩れ落ち、泣き叫びながらそう懇願する男を見下ろしながら、お花さんは小さく一つ溜息を付き、
「幕府の許可が無ければ、わたくしに出来る事は有りません。お気の毒だとは「余の許可が有れば、この災禍を止められるのであれば幾らでも許可しよう、赤の魔女よ」
再度同じ言葉を繰り返し拒否の意を示す、だがその言葉は半ばで遮られた。
自ら馬を駆り、軍配を手にした上様がそこに居た。
大名を招集し消火に当たらせる為に通常は奉書と言う書状で命じるのだが、今回の件はそんな時間も惜しいと言う事で、上様だけでなく家老達もが各大名に命じて回っているのだと言った。
「赤の魔女よ、改めて余から貴女に要請する。貴女の持てる力全てを使い、この災禍から江戸を救ってくれ」
上様の要請は即ち幕府の要請と同義である、この言葉が出た以上お花さんが魔法を使う事を躊躇う理由は無いはずだ。
「魔女に助力を願う際には対価を差し出すのが慣わし、報酬は頂きますよ?」
「無論、余の出せる範疇の物ならば、なんでも持ってゆけ」
「報酬は私事での大魔法の行使を一回認めて頂く事。無論誰かを傷付けたり不幸にする様な事には使いません」
「許可しよう」
「確かに承りました。この地を覆う炎の災いを消し止めましょう」
先程までの冷たい人形の様な表情では無く、血の通った人間の表情を見せ強く頷いたお花さんは、唐突に俺に対して向き直った。
「さぁ、志七郎君。実演出来ないと思っていた大魔法です。特等席で見せて上げるからしっかりとその眼に焼き付けるのですよ」
「古の盟約に基づきて、我、フルール・シーバスが命ずる。我が朋友『嶄龍帝 焔烙』よ我が言葉に導かれ、現れ出よ!」
街を焼く炎に照らされ赤く染まった空が、彼女の言葉と共により深い紅へと染まる、そしてその色を押しのけるかの様に、空に蒼い炎が走る。
そして空が割れた。
江戸の空を南北に両断する巨大な影が空の向こうから現れたのだ。
余りにも巨大なその姿は見上げているだけでは全貌を知ることが出来なかった、だがそれがお花さんの契約した霊獣だというのであれば恐れる理由は無い。
「大魔法を使うのには範囲をはっきりと確認しなればなりません。見える場所に移動しますよ。契約に基づきて……」
お花さんは俺の返事を待つ事無く呪文の詠唱を続ける、そしてそれが完成した瞬間、目の前の風景が塗り替わった、急に空が近くなったのだ。
慌てて周りを見回すと、そこはどうやら城の天守らしい、そしてそこに『転移』してきたのは俺とお花さんだけでは無く、四煌戌と上様も一緒である。
「わたくしに出来るのは、炎を消し止めるだけです。既に失われた命や傷付いた者を救う程の力は有りません、その事は申し上げておきます」
「構わぬ、其方は神では無い。いや、神々とて万能では無いのだ、出来ぬ事は出来ぬそれは仕様が無い事だ」
俺が今まで会った時の好々爺とした姿とは違い、為政者の目で燃える街を見下ろしながら、苦虫を噛み潰した様な表情でそう言い切った。
「では始めます……」
瞳を閉じ、集中した様子で長く複雑な呪文を唱える、高位の魔法ではその言葉だけでは無く、その身振り手振りもが魔法の効果に影響を与える。
今唱えているのは、火と水の複合『雲』属性の魔法だ。
小声で早口に紡がれる呪文ははっきりと聞き取る事は出来なかったが、恐らくは雨雲を呼ぶ魔法だろう。
「……『黒雲』」
まもなく一つ目の呪文が完成した、だがその発動ワードは俺の想定した物ではなく、写本を進めている呪文書でも未だ見たことのない魔法だ。
その言葉の通り、空に立ち上る煙を飲み込んだかのような……いやそんな物では無い、炎に、霊獣の纏う光に照らされていた空を闇色の雲が覆い隠していく。
その深く暗い闇色は、それらの光を飲み込んでなお、まるで空に墨を塗りたくった様に黒一色に染め上げる、そして……
「……『豪雨』」
空の様子に気を取られている内に、二つ目の詠唱は終わっていたらしく、聞き取れたのはその発動ワードだけだった。




