八 志七郎、剣腕を振るう事
『さぁ第四曲線を曲がりまして先頭はサトミタダシサトミタダシ早い後続は二馬身差、おぉっと! ここで大外からシシノシチトク競りかけるシシノシチトク届くかサトミタダシ早いか! シシノシチトク、サトミタダシ、サトミタダシ先行、サトミタダシ先行で今決着! シシノシチトク僅かに届かず。里見藩士、岳雪之丞五度目の優駿制覇です!」
響き渡る怒号と歓声の中、二分半ほどの熱闘が決着した。
最後まで諦めること無く競りかけたが、ほんの鼻先の差で残念ながら兄上は二着に終わった。
その事で落胆しているかと母上を見上げたが、そこには落胆の色は一欠片も無く、むしろ嬉しそうな満面の笑みを浮かべトラックを見つめている。
「兄上負けましたね……、母上は兄上が負けたのに悔しくはないのですか?」
「あら、悔しがることなんか無いわ。仁一郎は優駿初挑戦ですもの負けて当然。二着に入っただけでも大したものじゃない」
「そういうものですか……」
正直俺は競馬はほとんど解らない。ノミ屋を取り締まる際のおとり捜査で怪しまれない程度に付け焼き刃な知識を仕入れた程度だ。
「ええ、岳様はお父上様の好敵手だった方、それにあっさり勝ってしまうのは仁一郎のためにならないわ。あの実直な子だから、心配無いとは思うけど、ここで勝てば天狗になってしまっても可笑しくないもの」
父上のライバルに勝つというのは、父親超えを成し遂げるのと同義だろう、兄上はまだ二十歳確かに父親超えはまだ早いだろう。
「それに、馬券は取ったからね! 仁ちゃんが頑張ったから馬単直撃よ!」
母親の顔から、馬券親父の顔へと戻りつつそう嬌声を上げる母に俺は呆れるしかなかった。
その後、最終一〇レースまで母上は馬券を楽しみ、俺は買い食いを楽しんだ。
入着馬の関係者は江戸城で行われる宴席に招かれるという事で父上も家臣達もほとんどが夕飯は家で取らないと言われ、むしろ買い食いで腹を満たしておけと言われたのだ。
ちなみに母上は全レース的中馬券を取り、結構な金額を稼ぎだしたようだ。
翌朝、いつも通りに起きいつも通り素振りをする為稽古場となっている庭の一つへと出た。
通常ならば、屋敷に居る大半の者が稽古をしており、活気にあふれているその場所だが、今日は殆ど人が居ない。
「義二郎兄上、ずいぶんと人が少ないですが、何か有ったのですか?」
「ああ、昨夜の宴席は大分盛り上がったらしくな、皆二日酔いで死んでおるわい。大上戸の兄上がくたばっておるのだ余程の大酒が振る舞われたのだろう。それがしは下戸故、酒なんぞ飲みたくも無いが」
大柄いや、それこそ2メートルを超えるか越えないかという、前世に於ても間違いなく大きい身長と、それに見合った鍛えぬかれた筋肉の義二郎兄上は、間違いなく大男と言えその見た目相応に、ガハハと豪快に笑いながら言う。
しかし、小柄な仁一郎兄様と大男の義二郎兄様、見た目からすれば前者が下戸で後者が上戸だろう。だがそれが逆だというのだから不思議なものだ。
「ところで志七郎。何時も素振りだけではつまらんだろう。見たところ剣筋も立っておるしそろそろ打ち込み位したいであろう。それがしが受けてやるから打ち込んで参れ」
だが、俺が手にしているのは竹刀では無く木刀だ、義二郎兄上がいかにも頑健そのものといった風貌でも打ち所を誤れば、怪我では済まない。
まぁこの幼い身体では身長差があり過ぎるから、面を打つことは出来ないのでそうそう命にかかわることは無いだろうが……。
俺がなぜ躊躇しているのに気がついたのだろう、義二郎兄上は大口で笑いながら、
「ああ、ああ、心配要らん。いくら前世の記憶があろうと、今のお前は年端も行かぬ童子だ。身体もできていない童子の一撃でどうこう出来るほどヤワな鍛え方はしておらんよ」
などと抜かしおった。
……確かに俺の身体は未だ5歳時。いや数え年で5歳なのだから、満年齢で考えれば冬生まれの俺はまだ3歳児だ。侮られるのは解る、だが俺の記憶には3歳から35歳までほぼほぼ欠かさず稽古をし続けた日々が未だ息づいている。
80を過ぎてなお20歳の最も力溢れる頃の俺を、力に頼ること無く技だけで打ち据える曾祖父さんの姿を覚えている。
剣は力が全てではない! 子供だからとあまりにも舐めた態度に少々カチンと来た。
俺を、いや剣を舐めたことを後悔させてやる!
無言で、木刀を正眼に構え間合いを測る。兄上も同様に正眼に構えたが
体格の違いは歴然面打ちは不可能、胴を撃ちぬくにも懐が深すぎる、突きは流石に危険過ぎる。となれば、狙うは小手打ちだ。
「小手ぇぇぇぇぇええ!」
素早くすり足で間合いを調整し、踏み込み腰の回転腕のふりそれらを余す所無く連動させ、気合一閃木刀を振り下ろす。
鈍く固い物がぶつかり合う音が響き渡り、何かをへし折る感触がした。
だが俺の一撃は兄上の手首ではなく木刀を打ち、そして叩き折っていた。
流石に危険な一撃であることを感じ取り、受け止めようとしたのだろう。
「いい一撃だ。今のを貰っていれば流石に骨を持っていかれたな。ここまでとは思わなんだ。正直見くびっていたようだ。すまんかった」
にやり、と獰猛な獣のような笑みを見せ、そう口にする兄上。その表情は謝罪するものというよりは、完全に獲物を見つけた肉食獣のソレである。
「五つでこれほどの剣撃を放つか……、小鬼位ならば打ち倒せるな」
構えを解きへし折れた木刀の破片を片付けながら、しばし思案するような顔を見せた兄上は改めて口を開いた。
「よし、お前は兄上の稼ぎを知る為に馬比べ場に行ったと聞く。ならば今度はそれがしの稼ぎ場所に同行させてやろう」
……たしかに、父上からは兄姉の稼ぎ方をその目で見て来いと言われている。ならばこの提案は渡りに船という奴だろう。
「一寸! 一寸待てぃ!」
早速、承諾の声を上げようとしたときだった、どうやら起きて来たらしい父上が唐突に叫び割って入った。
「義二郎! お主、こんな童子を丸腰で戦場へと連れ出すつもりか!」
「おお、父上! 志七郎は強き男子ぞ。子鬼くらいならば十分打ち倒せる、そう過保護にせんでも大丈夫でござる」
「武芸の腕を云々しとるんじゃない! この幼い身体にあう防具も武器も無い、幾ら剣腕が立とうと刀がなければどうにもならん! 素手で鬼を殴り殺せるのはお主くらいじゃ」
「ぬぅ、確かに丸腰で戦場へ連れて行くのはちと無茶がすぎたかの……。おおそうだ! それがしが銭も素材も出すので志七郎に具足と太刀を誂えてくれ」
「体術を活かせる出で立ちとなると、できるだけ軽いほうが良いが……、軽くて強いものは素材も加工賃も高価だぞ?」
素材? 刀は刃金じゃないのか? 防具もプラスチックやファイバーなんかの科学素材は無いだろうから、こちらも金属かもしくは竹や木でも使うのだろうか?
「防具は鉄大蛇の鱗が半端に残ってるのがあり申す。それがしの装備には全然足りぬが、志七郎ならば十分でしょう。太刀は以前使っていた狼牙刀が蔵の肥しになっておりますから、それを詰めれば良いでしょう」
大蛇の鱗って……、いわゆるなにか? 怪物の素材で装備を作るってことなのか? それを考えれば狼牙刀というのも、普通の刀じゃなさそうだ。
なにそれ、ファンタジー!
「んー、確かにそれだけあれば、小鬼の住処位ならばなんとかなるか……だが、それらを用意するにしても十日は掛かる。それが済むまでは志七郎を戦場に連れ出してはならんぞ」
「心得ておりますれば……」
「というわけじゃ志七郎。初陣にはちと早過ぎる気もするが、こと武芸に於いて義二郎以上に信用できるものはこの江戸屋敷にはおらんからな。まぁ、装備が揃うまでは他の兄姉の生業を知ることを優先せよ」
というわけもなにも、俺置いてきぼりで色々決められてるんだが……
「心得ておりますれば!」
まぁ、そう返すのがこの場合正解なのだろう。




