第7話
台風が過ぎ去った後の海は、穏やかそうに見えるけど、目を凝らしてみれば、波峰線が途切れた海面にざわつく水面が見て取れる。
沖合いから強い風が吹くと、波となった海水が海岸向かって打ち寄せる。
岸辺に打ち寄せられた波は、一箇所へ集まり、沖へ向かう逃げ場を作って流れ出す。
その流れは≪離岸流≫と言って、岸から沖へ強く流れる海流で、そこに嵌ってしまうと、競泳選手でも抜け出すのが困難だと言われている。
離岸流の発生している場所は、大きな波が立ちにくいせいもあり、サーフィンを漕ぎ出す場所として選ばれやすく、サーファーの間では離岸流の事を≪カレント≫なんて呼んでいる。
今日みたいな日に海へ入って行くのは、潮の流れを読めるサーファーか、危険を知らない無知な海水浴客だけ。
昨日の激しい台風で、波乗り仲間の経営する海の家が壊れたと連絡を受けたパパは、修理のお手伝いをする為、朝から海へ出掛けて行った。
僕と七海兄ちゃんは、そんなパパの奮闘振りを見学しようと、パパの後を追って砂浜を歩いていた。
10時前だというのに、海の家が立ち並ぶ砂浜にはすでに海水浴客の姿があり、流れの強い海の中へ向かっていく人の姿も見えた。
「こんな日に泳ぐなんて…」
呆れた顔で海を眺める七海兄ちゃんに習って、僕も海をぐるりと見渡した。
「あれ…?七海兄ちゃん、あそこ!」
うねる波間の先に、バシャバシャと水飛沫を上げる若者の姿が見えた。
「えッ?ああッ、まずい。溺れてる!」
彼が溺れているのは、海水浴場から少し離れた遊泳禁止区域。
間違ってここへ来てしまったのか、それとも流されたのか…運の悪いことに、この場所にはライフセーバーがいなかった。
「凪砂、早く誰か呼んで来い!」
「え、七海兄ちゃんは?」
七海兄ちゃんは、引き止める僕の腕を振り払うと、サンダルとシャツを脱ぎ捨て、海へ向かって走り出してしまった。
「七海兄ちゃんッ!」
「いいから早く行けッ!」
切羽詰った七海兄ちゃんの声を、打ち寄せる波が掻き消していった。
「すぐ戻るからね!」
僕は砂浜を走り出した。
砂に足を取られ、何度も転びそうになりながら、ライフセーバーのいる救護所に向かって必死で走り続けた。
「誰か!ひッ、人が、溺れ…て、な、七海に…」
救護所に着いた僕は、息を切らしながら必死で説明をしようとした。
「人が溺れてるんだね?場所は?」
ヒューヒューと気管が鳴り、上手く喋れない僕は、七海兄ちゃん達がいるはずの場所を指差した。
「エリア外のリップだ…」
ライフセーバーのお兄さんは、僕が指差す場所を双眼鏡で確認すると、救護道具を持って仲間と共に走り出した。
…どうか助けて下さい。
どんどん離れていくライフセーバー達の後を追いながら、僕は必死で祈り続けた。
救急隊員の手によって担架に乗せられた七海兄ちゃんの肌は、具合が悪い人みたいに青白くて、唇もなんだか白っぽかった。
「おまえは家に戻ってろ!」
騒ぎを聞きつけたパパがやって来ると、七海兄ちゃんと一緒に、救急車に乗って病院へ行ってしまった。
「凪砂、行くぞ」
呆然と立ち尽くしていると、誰かに抱き上げられ、知らない車に乗せられて、そのまま病院へ向かった。
救急治療室のベッドに寝かされている七海兄ちゃんの脇には、目元を真っ赤に腫らしたパパと、床に崩れ落ち、大声で泣き叫ぶママの姿があった。
「七海…兄ちゃん?」
さっきより顔色も良くなってるし…寝てるだけなんでしょ?
そっと近付いたら、パッと目を開けて、『遅かったな、凪砂!』なんて言いながら、僕をビックリさせるんでしょ?
なのに…なんでママはあんなに泣いてるの?
「ねえ…」
そっと伸ばした指先に触れた七海兄ちゃんの肌は、海水のように冷たかった…。
息が詰まるほど泣いて、泣き続けても、止まらない涙。
声が枯れるまで呼んでも、二度と返らない返事。
青と白の花に囲まれた七海兄ちゃんは、名前と同じ数字の月に、白い煙となって旅立って行った…。
四十九日法要が済み、僕達の住む町にも、秋の気配を感じ始めたある日の事。
七海兄ちゃんがいなくなってから、精神的に不安定になっていたママは、元の姓に名前を戻し、自分の生まれ育った家へと戻っていった。
去り際…ママが言った。
「凪砂、泣いてばかりいると幸せが逃げていくわ。だから、何があっても笑ってなさい…」
そう言うママが泣き出したから、ママの幸せが逃げてしまわない様に、僕は精一杯の笑顔を浮かべた。
…これで幸せになれるの?
無理して笑っても、辛いだけなのに…。
小さくなっていくママの背中を見送りながら、そんな疑問が頭を過ぎった。
あの朝、溺れている人に僕が気がつかなければ…。
海に向かう七海兄ちゃんを止めていれば…。
もっと早く走る事が出来ていたら…。
あの日から僕は、ずっと自分を責め続けていた。
僕のせいで七海兄ちゃんが…そしてパパとママまでもが不幸になった…。
みんなが不幸になるのは、僕が泣き虫だからだ。
…僕は泣かない。
どんなに辛い事があっても、どんな事が起きても、笑っていよう。
ママとお別れした日、そう決めたんだ…。
◇ ◆ ◇
気が弱くて、泣き虫で、寂しがりやの凪砂。
小さな身体で、俺と七海くんの後を、必死で追い掛けて来る姿がかわいかった。
『りくぅッ!』なんて、語尾を上げて名前を呼ばれるのが恥ずかしかったから、何度も『やめろッ』って言ったのに、何時まで経っても直らなくて、俺を随分困らせたよな。
虚弱体質で、学校を休みがちな凪砂だったから、いじめの対象になるんじゃないかと心配してたけど、以外にも女子の受けが良くて、何かと大事に扱われてた。
かわいらしい容姿と大人しい性格のお陰か、ペット感覚的な扱いではあったけど…。
その分、男子連中には嫌われてたなぁ…。
≪おとこおんな≫とか≪おかま≫なんて幼稚なからかい方されると、凪砂はすぐに泣いちまうから、からかうヤツらを益々面白がらせるんだ。
凪砂をからかったりイジメたヤツらは、裏で七海くんと俺が、端から全員シメてまわったけどな。
そんな事してるのが凪砂にバレると、『ケンカはダメーッ!』なんて怒るから、バレないようにこっそりやっても、いつもどこかでバレるんだ。
凪砂をいじめたヤツを懲らしめてやった俺達が、なぜか凪砂にお説教されるんだ…ホントおかしな話だよ。
昔はよく、『凪砂の≪な≫は、泣き虫の≪な≫』なんてからかわれてたのに…。
そういえば…凪砂の涙を最後に見たのは、何時だったっけ?
「俺が側にいるから」
そう言った俺の言葉に凪砂の瞳が潤んだ。
しかし、すぐにぐっと我慢するような顔をして、泣き顔を嘘っぽい笑顔に変えた。
「それってどういう意味?」
「それは…」
俺にとって凪砂は、家族同然、兄弟同然に育ってきた、かけがえの無い大事な存在なんだ。
七海くんの代わりにはなれないけど、七海くんが凪砂を大事にしてきた様に、俺も凪砂を大事にしてるつもりだ。
七海くんがしてあげたかった事、してあげられなかった事…俺が代わりにしてやりたい。
凪砂は何も求めないけど、何かあったら助けてやりたいし、守ってやりたい。
凪砂を苦しめているモノを取り去ってやりたいのに、俺に縋ろうとしてくれない。
そんな凪砂を見ていると、何も出来ない自分が、歯痒くて、もどかしくて…。
俺をこんな気持ちにさせるのは、凪砂しかいないんだ。
だって凪砂は、俺の大事な幼馴染だから…。
「あぶなっかしーおまえには、俺みたいにしっかりした人間が必要なんだよ。だ・か・ら、ずっと側にいて、面倒見てやるって言ってんの」
真面目に話せば、凪砂はきっと拒絶する。
だからこうして、茶化してみせるんだ
「うわ、それってポロポーズみたいだよ。告白だってされたことないのに、いきなりソレ?」
無理におどけてみせる凪砂の言葉が、俺の胸をちくりと刺した。
「おッ、誰にも告られたことないんだ?へえ~」
おどけた凪砂に合わせてやると、むうと頬を膨らませねがら、拗ねた顔してそっぽを向く。
「どうせ僕はモテませんからね。そう言う陸はどうなの?そういえば陸って、ずっと彼女いないよね。なんで?」
「知らねーのか?俺ってかなりモテるんだぞ。おまえが知らないだけで、実はかなり告られてんだから」
「えーッ、陸ばっかりずるい。僕だって告白されたーい」
「だったらサーフィン続けてみろ、そしたらモテるから」
そう言った途端、綻びかけていた凪砂の顔が再び曇っていった…。
海沿いの町には腐るほどサーファーがいるから、見慣れていてもいいはずなのに、高校生でサーフィンをやってるヤツは結構モテたりする。
そう言う俺も、いろんな人から声掛けられたり、告白されたりしてたんだ。
だけど俺は、波乗りしてるほうが楽しかったし、わざわざ彼女作る気も無かったし、俺の気を引くような女も現れなかった…。
昔七海くんに、『陸ってばうちのママに惚れてる…?』、なんて聞かれた事があった。
確かに璃子さんは美人だし、気立ても良くて、面白くて…俺がもっと大人だったら、叶わない恋心を抱いてしまったかもしれないし、多少なりの憧れを抱いていたのも事実。
だけど、俺の理想は昔から…凪砂なんだ。
凪砂を初めて見た時、女の子だと思って一目惚れした。
その後すぐに男だと知って、俺の淡い初恋は見事玉砕したんだけど、その時の印象が強かったせいで、その辺の女には目もくれなくなってしまった。
今の俺には、凪砂以上に心を揺り動かす相手がいないだけ。
だから彼女を作らない…それだけ…。
いつかおまえに好きな人が出来たら、こうして側に寄り添う事すら出来なくなるんだろうか?
湧き上がる不安を打ち消すように、正午を知らせるサイレンが鳴った。
「そろそろ行くか…」
制服に付いた砂を払って立ち上がると、凪砂を自転車の後ろに乗せて学校へ向かった…。