第5話
海から戻ったら、庭先のシャワーでボードとウェットを洗って干す。
腰にタオルを巻いただけの姿で家に上がり、そのままダイニングテーブルで朝飯を食っていると、『パンツぐらい穿きなさい!』って母さんに文句を言われる。
朝飯を食い終える頃になると凪砂が迎えに来るから、そのまま部屋に戻って制服に着替える…というのがいつものパターン。
それが毎日のように繰り返されていたのに、今朝は様子が違った…。
海から戻って来ると、家の前に小さな制服姿が見えた。
「おはよう…」
「どうしたー?やけに早いな」
もともと色白の肌が、今朝はやけに青白く見え、目の下にはうっすらと隈まで出来ている。
「うん、なんかね…早く目が覚めちゃったから…」
伏目がちに話す声には元気がなく、無理矢理浮かべた笑顔が痛々しい。
…何かあったんだな。
凪砂が無理して笑ってる時に、『どうしたんだ?』、なんて聞いたところで、こいつは絶対答えない。
そんな事聞いたら、『なんにもないよ』なんて言いながら、余計無理して笑うんだ。
何があっても吐き出さない、全部自分の中に抱え込んじまう…そういうヤツなんだ、凪砂って。
「筋肉痛で目が覚めちまったとか?」
「うん、まあ…そんなところ」
「凪砂は運動不足だからな。つーか、運動しないから、いつまで経ってもチビなんだよ」
わざとからかうように話し掛けると、凪砂の顔に浮かんでいた嘘の笑いが少しだけ崩れた。
無理してる凪砂の顔を見ていたら、帰り道に聞いた波留さんの言葉が気になった。
『適当な時間に起きて、その辺にあるもん食ってんだろ…』
それって、そんな親って…あんまりだよ、波留さん。
俺の家では、出来る限り一緒に飯を食うようにしている。
同じ食卓を囲み、他愛の無い話をする…そんな時間が互いの理解を深め、家族の輪を作り上げていくものだと思ってる。
家族一緒に飯を食う事が当たり前となっている俺にとって、波留さんの発した言葉は、容易に受け入れ難く、かなりの衝撃を与えた。
両親健在で、何の苦労も無く幸せに暮らしている俺が、愛息子を亡くし、奥さんと別れた波留さんの気持ちを推し量る事なんて出来ない。
だけど、もう一人の息子である凪砂の扱い方が、あまりにもぞんざいで…気に食わないんだ。
…なんでこんなそんな態度とるんだ?
あんなに可愛がっていたじゃん…凪砂のこと。
いつの頃からか、凪砂は無理に笑うようになっていた。
いつも一緒にいたはずなのに、どうして俺は気付かなかったんだろう?
どうすれば、昔の笑顔を取り戻せるんだ?
小さな身体に、沢山の悩みを抱え込んだ凪砂を見ていたら、胸の奥がキリリと音を立てて痛み出した。
「ちゃんと朝飯食って来たか?」
「え?…ちゃんと食べてきたよ」
「そうか。でもまあ、朝飯2回食ったって、バチあたらねーから気にするな。あ…朝飯2回食ったら、もっと背が伸びるかもな!」
青白い顔しながら、『食べてきた』なんて言ってるヤツの言葉を、俺が信用すると思ってるのか?
「そのうち伸びるの。今は…まだだけど…」
「そーか、そーか。そのうちな」
俺の言葉にちょっとむくれた凪砂がかわいくて、砂交じりの手で凪砂の髪の毛をくしゃくしゃと掻き回した。
「うわ、陸の手、砂ついてるじゃん。サイアクー!髪に砂入ったー!」
ぶつぶつ文句を言いながら、髪の毛に入った砂を落としている凪砂の顔色は、さっきよりだいぶマシになってきた。
「悪い、悪い、とりあえず中入ろうぜ」
自転車をガレージに入れ、ボードを降ろすと、凪砂の腕を掴んで玄関へ向かった。
「ただいまー!母さん、凪砂に朝飯食わせてやって」
ウェット姿の俺は、家には上がらず、玄関先から母さんに声を掛けた。
「え、凪砂くんもいるの?早く上がってらっしゃい」
嬉しそうな声を上げながら、パタパタと廊下を走って来る母さんの足音が聞こえた。
「おはよう、凪砂くん。今日は早かったのね?遠慮しないで食べていきなさい」
「え…でも…」
躊躇している背中を押すと、凪砂の腕を母さんが掴んだ。
「じゃ、後よろしくー!」
そう言い残すと、俺はボードとウェットを洗うため、再び表へ出た。
海沿いに暮らす人の庭先には、蛇口とシャワーを併設している家が多い。
俺がサーフィンを始めてから、家の庭先にも父さんがいいカンジのシャワーを設置してくれた。
ただし水道水だから、夏場以外は心臓が止まりそうなほど冷たいけど、一年中海に入る様になってからは、その冷たさもあんまり気にならなくなった。
それでも、最初のひと浴びは、やっぱり気合と根性が必要だ…。
「うッ…」
冷たい水でボードを洗い、着ていたウェットを脱いで水を浴びると、思わず呻き声が漏れてしまう。
「つめてーッ」
素っ裸で震えながらウェットを洗っていると、『庭先で裸になるな!』って怒る母さんの声が聞こえてきた。
…この開放感、女には分かんねーだろうな。
ちょっとした優越感に浸りながら、ボードとウェットを干すと、凪砂の待つ家の中へ入っていった。
腰にタオルを巻いた姿でダイニングに入っていくと、母さんと話をしてる凪砂の小さな背中が目に入った。
「ちゃんと食ってるか?」
「うん」
…俺がしてやれる事って何だろう?
明るく振舞おうとする凪砂の姿に、俺の胸は益々痛くなっていった…。
◇ ◆ ◇
青々とした芝生が眩しい位に輝いている日曜日の昼下がり、僕達一家は陸の家の庭先で丸いテーブルを囲みながら、のんびりランチを楽しんでいた。
今日のメインは魚料理。
波乗り帰りの陸に、知り合いの漁師さんがくれた魚を、陸のママが上手に捌いて、料理してくれたん。
町のスーパーで見かける事の無い、名前も知らない魚が並んでいてビックリしたけど、食べてみたたら美味しくて、ますますビックリしちゃった。
陸の家は昔から海沿いのこの町に住んでいて、馴染みの漁師さんや魚屋さんも多いから、新鮮でおいしいお魚を頂くことが多いんだって。
僕のママは都会生まれの都会育ちで、この町に来るまで、魚といえば切り身しか見た事がなかったらしい。
ここへ引っ越してきたばかりの頃、近所の方に頂いたお頭付きの魚を前に、ママはキャーキャー騒ぐばかりで触ることも出来ず、結局陸のママに捌いてもらった事もあったっけ…。
「璃子さんて、スッゲー美人なのに、なんで波留さんなんかと結婚したのさぁ?」
穏やかな陽射しの中、美味しい料理をお腹に詰め込んで、ちょっぴり眠くなりだした頃、突然陸がそんな質問をした。
「なんで波留と結婚しかたって?ふふ…そうねえ…」
陸の質問に、ママは遠い目をして、何やら考え込んでしまった。
「おい、璃子。なんでそこで悩むんだよ!俺って人間に惚れてくれたんじゃなかったのか?まさか…財産目当てか!?」
「あら、目当てに出来るほどの財産なんてあったかしら…?」
考え込んだままでいるママに、すかさずパパが突っ込みを入れると、今度はママが突っ込み返す。
「陸~、なんでそんなこと聞くのさ?あっ…もしかして、陸ってばうちのママに惚れてる…とか?」
七海兄ちゃんがからかう様に言うと、陸の顔が真っ赤になった。
「ちがう…」
照れるように俯いてしまった陸が、ボソッと小さな声で呟いた。
「え?なに?」
七海兄ちゃんは、陸の反応が面白いらしく、すっと側に寄って、さらに陸を追求し始めた。
「白状しちまったほうが楽になんぞ、ほらほら!」
わざとらしく陸の肩を抱くと、ニヤニヤ笑いを浮かべた七海兄ちゃんの顔が陸の顔に寄せられる。
「さっさと吐いちまいな!り・く!」
握った拳を陸のこめかみに当てると、自白を促すように、グリグリと捻じ込んでいく。
「痛いよッ、七海くん!」
高校生の七海兄ちゃんと、中学に上がったばかりの陸は、かなりの身長と体格の差がある。
そんな二人がじゃれ合っていると、大きい犬が小さい犬の相手をして遊んであげている様に見えて、なんだか微笑ましい。
「ったく、急に色気付いてきたなー、なあ陸」
七海兄ちゃんの攻撃が激しくなるにつれ、陸は益々顔を真っ赤にして、貝のように押し黙ってしまった。
「ダメだよ!七海兄ちゃんいじわるだ。陸が困ってる!」
いつもなら口と力で反撃する陸が、今日に限って七海兄ちゃんの好きにさせてる…。
なんだか変だなと思ったけど、とりあえず僕は、陸と七海兄ちゃんの間に割って入った。
「おっ、凪も来たか。お前はどうなんだ?学校で好きな子出来たか?兄ちゃんにだけ教えてみろ。誰にも言わないから、な」
陸を片手で抱え込みながら、もう片方の手で僕の頭をヨシヨシと撫でる七海兄ちゃん。
そうやって優しく撫でられるのも好きだけど、本当は僕だって陸みたいに構って欲しい。
だけど、いつだって僕は子供扱いなんだ。
…陸と扱いが違う。
僕はムッとしながら、七海兄ちゃんの大きな手を払い除けた。
「そんなのいないもん。それより七海兄ちゃんはどうなの?教えて」
「俺か? 」
そうやってぶつけた僕の質問に、七海兄ちゃんが待ってましたとばかりの表情を浮かべた。
「ふふ…なんと、彼女が出来ました!超カワイイんだ。今度連れて来るから、よろしくな」
サラリと言ってのけた七海兄ちゃんに、今度は大人達が驚いていた。
「おい、七海。いつの間に彼女なんか作ってんだ!?海水に脳みそまでどっぷり浸かってるクセに、やる事はしっかりやってんだなぁ」
「ちょっとパパ、下品すぎ!」
七海兄ちゃんの衝撃告白に大人達が妙な盛り上がりを見せ、話題に着いて行けない僕と陸は、その光景をぽかんとしながら眺めていた。
「ねえ、陸…」
「なんだよ?」
「ママの事、好きになっちゃダメ」
真面目な顔してそんな事言ったら、ビックリ顔の陸が僕の顔を覗き込んで来た。
「なんで?」
「だってママは、パパの奥さんなんだよ。それで…僕と七海兄ちゃんのママなんだよ!」
「だから?」
「陸がママを好きになっても、ママは陸のことなんか好きにならないもん。だってママは、パパが好きなの!ママは陸の彼女になんかならないんだから」
陸とママの事を考え、真剣に訴えてるのに、陸はそんな僕を見て大笑いし始めてしまった。
「もう、何で笑うの。本当の事だよ!それに、結婚してる人は、そんな事しちゃいけないんだよ。そういうのなんて言うか知ってる?」
「お、二人でなに盛り上がってんだ?」
大笑いしてる陸に気付いた大人達が、僕達のやり取りに興味を示してきた。
「何の話してるの、凪砂?」
陸のパパまで話に入ってきちゃったから、僕は陸とのやり取りを説明してあげた。
「で、なんて言うの?」
「うん、あのね…ほかに好きな人が出来たら≪うわき≫って言うんだって。でね、結婚してる人のこと好きになったら≪ふりん≫なんだって。≪ふりん≫も≪うわき≫も悪い人がすることなの。だから、陸はママを好きになっちゃダメ!陸とママが悪い人になっちゃう!」
大真面目に解説する僕の話が終わるのと同時に、その場にいた全員が大爆笑し始めた。
「おーい、誰だ。純粋培養中の愛息子に、変な事教えた奴は?」
「波留さ~ん。胸に手を当てて、よく考えてみなよー」
「パパが教えたんじゃないのー?」
「一番怪しいもんねー」
話題の矛先が僕からパパへ移るのと同時に、今度はみんながパパの事をからかいだした。
「ちがう、ちがうの。あのね…ママと一緒に見てたテレビで言ってたの!だから、パパが言ったんじゃないの」
パパを助けようと発した言葉に、みんなの視線がママに移った。
「璃子ーッ!」
「璃子さーんッ!」
「おまえ…凪砂にどんなドラマ見せてんだよ…」
僕の言葉に、パパが呆れ顔を浮かべた。
「不倫物のドラマ…」
なんて言いながら僕を抱き寄せると、綺麗な顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そんなもの子供に見せるな!凪砂が穢れる!!」
パパの怒り声が響くと、陸の庭先にみんなの笑い声がこだました。
それは楽しかった夏、みんなで過ごした最後の夏の日の思い出だった…。