第25話
夜明け前の住宅街を自転車で走り抜けると、夜気を含んだ風が、眠気の抜け切らない身体を徐々に目覚めさせてくれる。
「りくーッ、おはよう」
スロープ状になった歩道橋の下で僕を待つ陸の髪は、寝癖が着いたまま、あちこち好き勝手な方に向かって跳ねている。
「遅いぞ、凪砂。早くしないと陽が上っちまう」
「わ、大変。急がなきゃ」
「急がなきゃ…って、誰のせいだと思ってるんだよ…」
スロープ目掛け、慌てて自転車のペダルを漕ぎ出すと、呆れた様に陸が笑った。
歩道橋を渡り、防風林を抜けると、朝靄に包まれた大海原が目の前に広がる。
「さ、行くぞ」
「うん」
松林の端に止めた自転車からボードを降ろすと、裸足で駆け出す陸と手を繋ぎながら、静かな朝の海へ向かった。
「うわ、冷たッ」
勢い良く飛び込んだ朝の海水は、想像以上に冷たくて、驚いた心臓と身体がビクンと震えて縮こまった。
「冷たいのは一瞬、すぐ慣れる」
「絶対無理ッ、凍死しちゃう」
足を踏ん張り、必死の抵抗を見せれば、僕の手を握る力が一瞬緩められた。
「ったく、学習能力ゼロだな…」
にかり…大きな笑顔を見せたかと思うと、陸は僕の身体を肩に担ぎ上げてしまった。
「うわッ、下ろせ。バカ陸ッ」
「大人しくしてないと、苦しくなるぞ」
「大人しくしてても、苦しいってばッ」
…確か、前にもこんな事されたっけ。
担がれた肩がお腹に食い込む痛みに耐えながら、ビクともしない大きな背中をポカポカと殴っていると、こみ上げてくる懐かしさに目頭がジンと熱くなった。
「よし、この辺でいいか」
海面に浮かべたボードの上に担がれた身体を下ろされると、頭に登っていた血が一気に下がり、軽い眩暈を覚えた。
「しっかり掴まってろよ」
陸はふらつく僕の手を取ると、ボードの端をぎゅっと握らせた。
波が来るとボードに乗った僕の目線は陸よりも高く、波が去れば、陸よりも低くなった。
…陸って、こんな顔してたっけ?
高い位置から見下ろした陸の頭にはつむじが二つ見えたり、顔に掛かる波に閉じた目元を縁取る睫毛が思いの他長かったりして、僕をひどく驚かせた。
僕はいつも、背の高い陸の顔を下から見上げているばかりで、正面や頭の上から見下ろす角度の顔はあまり見た事が無かった。
だからそうした些細な事に気が付かなかったんだ。
ううん、そうじゃない。
気が付かなかったんじゃなくて、僕は陸をちゃんと見ていなかったんだ…。
揺れる視界の中で陸を追い続けていると、不意に涙がボロボロと溢れ出した。
「わ、どうした?苦しかったのか?」
突然泣き出した僕の顔を心配そうに覗き込んで来る陸の顔が、波に揺られて上下すると、益々涙が溢れてしまう。
「ちがう…」
「それじゃあ一体…」
「僕ってホントにダメだね。ずっと一緒に居たのに、陸の事全然分かってない…知らない事だらけだ…」
飾らない性格と、屈託の無い笑顔、さり気ない気遣いと、そっと差し伸べられる優しい手…それが僕の知っている陸だけど、きっと陸の中にはまだまだ僕の知らない部分が沢山あるはず。
あるはずなのに、それら全部を見逃していた自分が情けなくて、涙が止まらない。
「なんだ、そんな事気にして泣いてんのか?それならお互い様だろ?俺だって、凪砂の事全部知ってるワケじゃないし…」
「でも…」
「知らない部分があれば、それを見付けていく楽しみがあるだろ?それに、知ってるつもりの部分でも、見方を変えれば、新たな発見があるかもしれないし、足りない部分はお互い補っていける。これからは、そうやって上手くやって行こうぜ」
「でも…それじゃきっと、僕の方が補って貰うばっかりになっちゃうよ…」
僕はずっと、陸に憧れてた。
陸みたいに笑える人になりたかった。
明るくて、楽しくて、おおらかで、どんな事に対しても物怖じしない、そんな人になりたかったけど、結局僕には…無理だった。
「まーったく、意地っ張りが直ったと思ったら、今度はすっかり泣き虫になっちまったな」
ボロボロと涙を零す僕を見て、陸が苦笑する。
「でもまあ、何でもかんでも自分一人で解決しようとして、内に抱え込まれるよりマシか」
僕の髪をくしゃりと撫でると、陸はバランスを取りながらボードの後ろに乗り込んできた。
「よし、そろそろ日の出だ」
朝一番の海は風が無く、乗りやすい波が立つ。
陸は沖から来る波を数本遣り過ごすと、僕をボードに乗せたままパドリングを始めた。
「タンデムなんて滅多にやらないから、コケるかもなッ」
わははと大きく笑う陸の声が急に遠退いたと思った途端、僕達を乗せたボードのテールがふわりと持ち上がった。
「よし、もう1回ッ」
何度挑戦しても、テイクオフした直後の安定しないボードの上で、慌てた僕がバランスを崩すから、直ぐに二人とも海に投げ出されてしまう。
その度塩辛い海水をたらふく飲んで咽返り、潮の染みた目から涙を零し藻掻いていると、すかさず陸が僕を助け起こしてくれる。
「これで最後になりそうだな」
「え…?」
陸の言葉に驚き、顔を拭って辺りを見渡せば、朝焼けに染まっていた空に太陽が昇り始めていた。
「よーしッ。最後の1回、キメるぞ」
「うん」
浜から吹き付けてくる風が強くなり、崩れ易くなった波の中から、キレの良い波を見つけた陸の動きに合わせ、僕は必死でバランスを取り続けた…。
◇ ◆ ◇
「惜しかったなあ」
「もうちょっと頑張ればよかった」
気合を入れて乗り出した波は、思いの他早く崩れてしまい、最後の1本としてキメる事は出来なかった。
「テイクオフのタイミングが悪いのかなあ…」
「違うよ、僕が慌てて、バランス崩したのがいけないんだ」
反省点を口にしあう僕達の意識は、失敗した悔しさよりも、そこから学び取った事を次にどうやって活かすか、という事に向けられていた。
波に揉まれ、揉みくちゃにされたはずなのに、僕達の気持ちはへこむどころか、むしろいつもより高揚していた。
「なんかさ、前向きじゃね?俺達って…」
「ふふ…そうだね。っていうか、かなり浮かれてる?」
僕達はずっと一緒に居たけれど、一つの事を一緒に成し遂げたり、敢えてやってみようとした事もなかった。
そんな僕達が挑んだのは、一つの板を二人で乗りこなす≪タンデムサーフィン≫。
昔、パパの操るボードの前に座らせて貰った事もあったけど、それは僕の身体がもっと小さくて軽かった頃の話。
タンデムで乗るなら、子供やサーフィン経験者を同伴させた方が上手くいくらしいけど、生憎僕は子供でもないし、サーフィンは未経験に近いレベル。
そんな僕を乗せた陸は、板を操るのに苦労し、僕は僕で、陸に迷惑を掛けまいと無駄に動き、余計に陸の邪魔をしてしまった。
「浮かれちまうほど楽しかったって事だろ?つーか、たまには頭ん中からっぽにして、真剣に遊ぶ事も必要だぞ」
「そうなの?」
子供の頃の僕は病弱だった為、学校は休みがち、体育の授業はいつも見学、休み時間は教室で大人しく読書という、とてもつまらなく、寂しい生活を送っていた。
激しい運動をした後には、必ず喘息の発作を起こしてしまう為、子供らしく表を走り回ったり、友達とふざけたり、大きな声を出して騒いだりした記憶も無い。
そんな僕にとって、『真剣に遊ぶ』とか、『頭をからっぽにする』ほど夢中になれる事なんて無かったから、今朝の出来事はとても新鮮で、強烈なインパクトを与えてくれた。
「ホント、凪砂は何も知らないんだな」
「む…仕方ないでしょ」
僕の住む世界は、家と塾と学校と、この浜しか無かったんだから。
しかもそんな狭い世界の中でさえ、僕は傍観者で居る事しか出来無かったんだから…。
「ふ…そんなむくれるなって」
「むくれてなんかないもん…」
そう言いながら、頬を膨らます自分が子供っぽくて、恥ずかしくなった。
「やりたい事、色々あっただろ?それなのにずっと我慢して来た凪砂の事、俺は偉いと思ってるぞ」
「べつに…偉くなんか…」
「俺 や七海くんは好き勝手出来たけど、凪砂はいつも留守番役ばっかでさ…。そんな凪砂を尻目にはしゃいだ後は、いつも後悔しまくってた。凪砂が自由に動けれ ば、一緒に遊びたかったけど、それが出来ないから、『せめて俺達が側にいてやろう』って、よく七海くんと話してたんだ」
七海兄ちゃんと陸は、パパからサーフィンを習いながら、競い合うようにして成長していった。
サーフィンしている時の二人は、いつもキラキラ眩しい笑顔を浮かべ、僕はそんな二人を浜から眺めていた。
年の差があるせいか、教えられた事はすぐに覚えてしまう七海兄ちゃんと違い、何度も失敗を繰り返しながら、身体で覚えていく陸の姿に自分自身の姿を重ね、陸が失敗すれば僕も悔しがり、陸が成功すれば自分の事の様に喜んだ。
新しい事を覚える度、眩しい笑顔を浮かべて見せる陸をちょっとだけ羨ましいと思う事もあったけれど、自分が出来ない分、陸にはもっと上手になってもらって、僕を楽しませて欲しい…そんな気持ちで見守ってきた。
「そうだったの…?」
「そんな事言えば、余計辛い想いさせちまうと思って言わなかったんだ…」
幼馴染だけど、僕の憧れでもあった陸と、こんな風に思いっ切りはしゃげる日が来るなんて…夢にも思っていなかった。
だからなのかもしれない…こんなに気持ちがフワフワするのは。
「なんか…嬉しい。そんな風に思っていてくれたなんて」
「当たり前だろ?凪砂は、七海くんにとってはかわいい弟で、俺にとっては大切な幼馴染だったんだから」
「でもさ…僕はずっと、陸は七海兄ちゃんに憧れてると思ってた。だから一緒にサーフィンしたり、遊んだりしてるんだと思ってた。七海兄ちゃんが好きだから、いつも側に居ると思ってた…」
「違う…だから言っただろ。俺は…」
陸は急に口籠ると、ふっと顔を逸らしてしまった。
「俺…は?」
逸らした顔を覗き込むと、陸は少し怒った様な表情を浮かべた。
「… 凪砂はいつも、『七海兄ちゃん、七海兄ちゃん』て言いながら、七海くんの後を追い掛けてただろ?俺と遊んでいても、七海くんが来たらそっちに行っちまう。 だから凪砂は、俺に興味が無いのかと思ってた。けどさ…俺も、あんな風に追い掛けて欲しかった。凪砂を俺の方に向かせる為には、俺も七海くんみたいになる しかないって思ってた。あの頃の俺は、凪砂を振り向かせる為なら何だってしてみようと思ってた。サーフィン始めたのも、それがきっかけだし…って、あーも うッ。スッゲー恥ずかしいんだけど」
照れ隠しの様に濡れた髪をくしゃりとかき上げた陸の顔には、いつもの余裕も、いつもの笑顔も無い代わりに、赤くなった頬が、大人びた陸の面立ちを年相応に見せてくれた。
「り…く?」
「んだよ、そんな真剣な顔して見んな」
いつも応援していた陸は、大きくなるにつれ、徐々に僕と住む世界が変わっていった。
パパの付き添いが無くても海に行ける様になった陸は、交遊関係をぐっと広げていった。
そうやって狭い場所に留まらず、視野を広げた陸のテクニックは格段の進歩を遂げた。
それは僕が望んだ姿なのに、そんな陸の姿を目にする度、見えない溝が深まっていく様な気がして寂しくなった。
どんどん世界を広げて行く陸は、そのうち僕の事なんか忘れて、どこかへ行ってしまうと思って怖くなった。
…だけど。
「僕達って…似た者同士なんだね」
溜息と共に小さく呟くと、目を逸らしていた陸の視線が僕に向けられた。
「俺と凪砂が、似た者同士?」
ふ…陸は僕の言葉に笑いを漏らす。
「だってさ、僕達はお互いに、相手の気持ちが自分に向いていないと思い込んでた。相手の気持ちも知らず、変に意地張って見せた。相手の為になると思って取ってきた行動は、実は全然見当違いだったり…。そんな事してたから、僕達の想いは…ずっと擦れ違いのままだったんだね」
「そうかもな…」
陸はふっと目を細めると、僕の頬に手を伸ばした。
「ずっと守ってやんなきゃって思い込んでたけど、俺が思うよりずっと大人になってたんだな」
「ずっと大人って…相変わらず子供扱いして…。僕だって成長してるんだよ、少しずつだけど…」
そう言いながら、むうとむくれてみせる僕は、やっぱり幼稚で少しも成長してない。
「そうだよな、成長してないほうがおかしいよな。あーッ、クソ。もしかしたら、俺の方がずっと子供なのかもしれないな」
陸は悔しそうな表情を浮かべると、僕の頬をきゅっと摘んだ。
「や、痛いってば」
「でもまあ、いいか。早速、凪砂の知らない部分見つけちまったし…」
陸は僕の頬を摘んでいた手を項に回すと、ゆっくりと顔を近付けて来た。
「もっと知りたい…凪砂の事…」
こつんとおでこをぶつけられると、陸の吐息を間近に感じ、心臓がドキドキし始める。
「僕も…知りたい、陸の全部」
目を閉じ、そっと唇を重ねると、寄せる波音が一際大きく響き渡り、僕達を祝福するように海鳥が鳴いた…。
「さてと、そろそろ戻るか」
「お腹空いちゃったよ」
座り込んでいた砂浜からゆっくり立ち上がると、乾きかけのウェットから砂がサラサラと落ちる。
「朝飯は?」
「ママが待ってるから、一度家に帰る」
「それじゃ、その後家に来いよ。桂さんから新しいDVD借りたんだ」
「わ、何のDVD?」
「見るだけで、凪砂のヘタレが直るって言ってたけどな」
「む、ヒドイ」
お尻や脚に着いた砂を払い、自転車にボードを載せると、自転車のスタンドを外した。
「あー、今日も暑くなりそうだ。見ろよ、あの太陽…」
陸の言葉に空を見上げたら、青く澄み渡った空に白く輝く太陽が浮んでいた。
「うわ、今日も30度超えそうだね」
うんざりした様に呟けば、陸がクスリと笑う。
「ホント、暑さに弱いよなあ。そんなんで、夏乗り切れんのか?」
「今年は大丈夫。絶対に、倒れたりしない」
だって僕は、一人じゃない。
陸が居てくれるだけで、僕は強くなれる。
陸の笑顔が、僕を支えてくれる。
「お、随分自信持ってんな。つーか、ただの強がりか?」
陸に心配掛けたくないから、僕は前を向く。
陸を悲しませない為、僕は強くなる。
陸と一緒に居る僕はもう…強がらない。
「違うよ、今年の夏は…陸が居る。去年の夏とは違うんだ」
「そう…だな…」
陸の顔にキラキラ眩しい笑顔が浮かぶと、僕の心が晴れていく…。
「よし、行くか」
「うん」
前を向いて歩き出した僕達の頭上には、青く澄み渡った空が広がっていた…。
≪END≫




