第23話
夕暮れ時の砂浜は、昼間の喧騒が嘘のように閑散とし、お子さんや愛犬と共に散歩する地元の人達の姿がちらほらと見受けられるだけ。
波の音に誘われ沖に目を遣れば、波を待つサーファーの姿が、ぽつりぽつりと波間に浮んで見えていた。
「わ、あぶな…」
海に向かって一心に歩く僕の行く手を阻むように、するすると足元にじゃれついてきた大型犬の頭を撫でてあげると、「くん」と満足気に鼻を鳴らして去っていく。
「ふふ…かわいい」
ふさふさした尻尾を振りながら去っていく人懐こい犬のように、この街に住む者はみんな、とてもフレンドリーなんだ。
きっとそれは、この街の風土…一見気楽そうに見えるけれど、その実常に自然の脅威に曝されている…が、無意識の内に皆の中に見えない≪連帯感≫を生み出しているからなんだと思う。
パパや陸のサーファー仲間がやさしいのも、商店街のおばさんや、漁師のおじさんが気さくなのも、そういった所から生まれた気質なのかもしれない。
この街に漂う雰囲気は、引っ込み思案で、人見知りをしてしまう僕をやさしく包み、すんなりと温かく迎えてくれた。
だから僕はこの街が…好きなんだ。
ここで生まれ育った陸の中にも、そんな気質はもちろん備わっているけれど、陸がくれるやさしさは≪それだけ≫じゃないって事を…僕は知ってる。
「りくーッ」
波打ち際に座り込み、フィンを着けながら名前を呼ぶと、凪いだ海面を漂う陸が手を振り返してくれた。
「ここまでキックして来-い」
「うげ、ムリーッ」
「ムリじゃなーい。これも練習」
「はーい…」
足元を浚う波に戦きながら、しぶしぶ海へ入ると、泡立つ波の上に浮かべたボードのノーズを掴んだ。
この街へ越して来て陸と出会い、僕の世界が広がった。
そして、波乗りするパパと出会った陸は、新たな世界を知り、そこへ足を踏み入れた。
大人からすれば小波程度でも、子供である陸や七海兄ちゃんにとってはとても大きな波に見えていたはずなのに、果敢に立ち向かっていこうとする二人の姿は眩しかった。
波に巻かれ、揉みくちゃにされても尚挑んでいく二人の姿を目にするたび、病弱だった僕の中には歯痒い思いが溢れていた。
…いつか、もっと大きくなったら。
二人と肩を並べて、なんて贅沢は言わないけれど、せめて二人の後を追い掛けてみたかった。
砂浜で見守るママに手を振り、僕、陸、七海兄ちゃん、そしてパパの順で波に乗る。
それが僕の夢だった。
けれど…七海兄ちゃんが居なくなってしまった今、それは叶わぬ夢となってしまった。
それでも、僕には…陸が居る。
懸命に病と戦ってるパパの病状は快方に向かっているし、出て行ったママも家に戻って来てくれた。
一度はバラバラになってしまった家族だけれど、今また新たなスタートラインに立とうとしてる。
だから…今だからこそ、僕は陸の後を追い掛けたいんだ。
パパやママが何と言おうと、やってみたいんだ。
僕の夢を叶えるため…。
「いい加減ドルフィンスルーくらいマスターしろよ」
「だってさ…目と口に水が入って痛いんだもん」
「だーッ、まだそんな事言ってんのか?」
「次は…ちゃんとやる」
しゅんと項垂れると、パドリングで側までやって来た陸に肩をポンと叩かれた。
ママが戻ってきてくれたお陰で、心身共に健康体となった僕は、陸の背中を追い掛けサーフィンを始めた。
けれどすぐに、体力不足と運動不足、それに加えて圧倒的な身体能力の低さを露呈してしまった。
さらに言えば…泳ぎもあまり得意でないから、足の着かない場所で落水してしまうと、ボードに上がるどころか、リューシュコードを使ってボードを手繰り寄せる前に自分が溺れてしまう。
沢山の水を飲みもがいていると、陸や他の誰かに助けられる…なんて事が度々起きた。
助けてもらった後は、極度の疲労感と挫折感に襲われるけど、それでも懲りずに海へ挑み続ける僕の姿を見かねたのか、桂さんが『おまえにはコレが向いてる』と言って、ボディボードを調達して来てくれた。
僕にとってボディボードは、ボードに掴まり、波間を漂っているだけ…つまり、浮き輪で遊ぶ海水浴客が使う物と同じ…遊び道具の様に感じていた。
だから、桂さんにボディボードを勧められた時は、頑なにそれを拒否した。
けれどその帰り、桂さんが貸してくれた1本のDVDが、僕の考えを大きく変えた。
青く澄んだ外国の海、日に焼けた肌の男性が、踊るように、滑るように、自在にボードを操りながら、大きな波を乗りこなしていく。
気軽に出来るせいか、日本ではボディボードといえば女の子が行うマリンスポーツと思われがちだけど、サーフィンとは違う技を繰出す事が出来るボディボードは、海外では男性から多く支持されていると言う。
ボードの上へ腹這いになって波間を滑る姿に、サーフィンの様な派手さはないけれど、細やかなテクニックから繰り出される多彩なアクションが、僕を惹きつけ魅了した。
…やってみたい。
脚力、腕力共に自身はなかったけれど、そんな映像を見せられた僕は、ついつい周囲に甘えてしまうサーフィンよりも、ある程度の所までは自力で出来そうなボディボードを始めてみる事にした。
泳ぎが得意でない僕にとって、波を掻き、波を蹴るといった動作は酷く体力を消耗したけれど、我武者羅に身体を動かしているうちコツを掴んでいった。
不規則な波の動きに揉まれる事で、徐々に波や潮の流れを読む事が出来るようになっていった。
苦手だった事を一つ克服するたび、小さな自信が生まれ、水に対する恐怖が少し和らぐ。
新しい事を覚えるたび、甘ったれで弱虫だった心が強くなる。
けれど…。
「しょっぱいんだもん…」
「仕方ねえだろ、海なんだから」
そう、未だに僕は海水の塩辛さに馴染めず、沖へ向かって進む為に必要な業、≪ドルフィンスルー≫が出来ずにいた。
「まあ、アレだ…。いきなり上達するもんじゃないし、基礎をみっちり覚えておいた方が、後々楽になるからな…」
僕を慰めるように笑う陸の顔には、大好きな笑顔が浮んでた。
「それじゃ、始めるか。疲れたと思ったら、無理しないで陸に上がること。これ約束な」
「はーい」
陸は腕にはめた時計で時間を確認すると、波を求めて移動していった…。
◇ ◆ ◇
日没間近、凪いでいたはずの浜辺に大きな波がやってくる瞬間がある。
それを待ちかねていた陸は、沖に大きなうねりを確認すると、「よっしゃッ」と気合を入れてパドリングを始めた。
「どうだった?」
浅瀬で波に揉まれていると、髪から水滴を滴らせた陸が近付いて来た。
「うーん、最後の最後でコケたところがカッコ悪かった」
「それを言うなら、凪砂だって同じ様なもんだろ?」
陸はにかっと笑うと、波に浚われそうになっている僕の腕を掴んだ。
パパの事があって以来、陸は大好きな海とサーフィンから遠ざかってしまった。
そのせいで、サーファーらしい締まった身体からは筋肉が落ち、微妙な波の変化を察知する勘が鈍り、ボードを操る足腰のキレも悪くなっていた。
楽勝で乗りこなせるはずの波から弾き出された時、ターンのタイミングが微妙にずれた時、陸は少しだけ悔しそうな顔をするけれど、すぐに体勢を整え波に挑んで行く。
僕のせいでそんな風になってしまったというのに、陸は恨み言ひとつ漏らさず笑顔を返してくれる。
好きな事を後回しにしてまで側に居ようとしてくれる陸の態度には、僕を心配してくれる気持ちが溢れていて、胸が苦しくなるほどの切なさを感じる。
「もう、陸と一緒にしないでよ。僕は下手なだけだから。でも、陸は…」
何度落水しても、諦める事無くボードを手繰り寄せる姿が、陸の中にある強さを教えてくれる。
「ん?俺が…どうした?」
僕に陸のような強さがあったなら、『僕さえ我慢すれば全てが丸く治まる、全てが上手くいく』なんて幼稚な考えなど浮かばなかったはず。
陸の自由な時間を奪ってしまう事態になんて陥らなかったはず。
「もっと…」
「もっと…?」
陸はずっと、孤軍奮闘する僕に救いの手を差し伸べ続けてくれた。
なのに僕はその手を払い除け、自力で道を切り開こうとし続けた。
それでも陸は諦める事無く、僕の力になろうとしてくれた。
そんな態度を疎ましく思う心のどこかで、陸に対する甘えが生じていたのかもしれない…。
「自由に動けばいいのに…」
「な…自由って…どういう事だよ?」
「家の件では陸にいっぱい迷惑掛けたし、いっぱい心配してもらっちゃった。だからスゴく感謝してるし、申し訳ないとも思ってる。パパやママの事まで気を遣ってくれるのも、スゴク嬉しいよ」
「んだよ、急に改まって…」
「でもね…」
陸の笑顔は太陽だ。
キラキラ輝く、夏の太陽だ。
「僕に気を遣って、好きな事や遣りたい事を後回しにして欲しくないんだ…」
「それは前に話しただろ?俺は凪砂と一緒にいるのが好きで、おまえに見て貰いながらサーフィンするのが好きだって…。で、おまえは、俺がサーフィンしてる姿を見るのが好きなんだろ?」
「そうだよ」
「じゃあ何でそんな事…」
泣き出しそうな時、挫けそうな時、僕を支えてくれたのは陸の笑顔だった。
その笑顔があったから、前を向いて歩き出す事が出来たんだ。
「僕はね、陸のダイナミックなランディングが好きなんだ。波の向くまま、気の向くまま、色んな波を乗りこなそうとする姿が好きなんだ。だけど…今の陸は小さくまとまってる」
「は…?何言って…」
これからもずっと、その笑顔を見ていたい。
輝く姿を見せて欲しい。
「波に乗ってる時くらい、僕の事なんか考えず、自由に動き回って欲しいな」
「べつに…凪砂の事なんか考えてねーよ…」
「そう…。だったら、余計な事に気を取られないで、目の前にある波の事だけ考えて」
「凪砂に言われなくても、そうしてるって…」
ねえ、陸。
陸は、好きな場所で、好きな事をしている時が一番輝いてるって…知ってる?
「陸は僕の…太陽なんだ」
「はあ?何だ、ソレ…」
僕の言葉に、陸が照れ臭そうに笑う。
そんな笑顔も…好きなんだ。
「僕は意気地なしだから、すぐに日陰に逃げ込もうとしちゃうんだ。だけど陸は、そんな僕を明るい場所へ導いてくれる。暗い場所で迷っていたら、足元を照らしてくれる。僕は…僕には、陸が必要なんだ。陸じゃないと…ダメなんだ」
「凪砂…?」
「僕は陸が好き、大好き。ずっとずっと前から…多分初めて会った時から大好きだった。だから…僕の為に、カッコいい陸をもっと見せて欲しいな…」
陸がくれた言葉への返事は、僕達を育んでくれた場所で伝えたかった。
僕の気持ちに嘘偽りがない事を、この場所で聞いて欲しかった。
「わがまま言って…ゴメンね」
「そんなわがままなら…大歓迎だ」
ぐいと腕を引かれて抱き込まれた胸からは、陸と潮とワックスの匂いがして、僕の気持ちを落ち着かせてくれた…。




