第19話
パパの入院している病院は、白い病棟が、大海原に向かって翼を広げるように建てられていて、とても環境のいい場所のように思えた。
「うわ…」
駐車場に停めた車から外へ出ると、海から吹き上げてきた潮風が、シャツをぶわりと膨らませた。
「この湾の反対側に、俺達の街があるんだけど…見えるわけないか」
「どこ?どの辺?」
雄介さんの指差す先に目を凝らしてみるけれど、夏の日差しを反射した海はあまりにも眩しくて、僕等の街を探すことは出来なかった。
「病 室に入る前に話しておくが…波留は禁断症状が治まったばかりで、精神的にも肉体的にも衰弱している状態だ。そんな時期にお前達の顔を見た波留が、どんな反 応を示すのか…正直俺も分からない。だけどな、治療に明け暮れる日々の中、ずっと後悔し続けながらも、波留はずっと一人で頑張ってきた。だから…どうか波 留を励まして欲しい。支えになって欲しいんだ。辛い時期を乗り越えたけれど、これからが治療の正念場だから…」
静かな口調で話す雄介さんの顔には、とても真剣な表情が浮かんでいるから、僕はパパに会うのが少しだけ怖くなった。
「凪砂…おまえにとって波留は酷い父親かもしれないが、どうか責めないでやって欲しい。出来ることなら許してやって欲しい。あいつがおまえにしてきた事は、決して許される事では無いけれど、それでもどうか…この通りだ」
目の前で深く頭を下げられたら、どうしていいのか分からず、答えに詰まってしまう。
「ちょっと、雄介。そんな怖い顔したら、凪砂が恐がるじゃない」
雄介さんの態度に顔を強張らせていると、呑気な声で話す尚子さんの声で、重くなってしまった雰囲気が和やかになった。
「そんなに畏まる必要ないわよ。だって凪砂と璃子は波留の家族なんだから、何の心配も要らないでしょ?」
そう言って僕とママの腕を掴むと、温かく豊かな胸に僕達の身体を抱き寄せた。
「少しでも迷いがあるなら、波留の為にも、会うのは止しておきなさい。だけど、本気で会いたいと思うなら…余計な事なんか言わないで、こうしてぎゅっと抱き締めてあげて」
尚子さんにぎゅっと抱き締めてもらったら、胸の中が温かい気持ちで満たされ、強張っていた身体から余計な力が抜けて楽になった。
「会いたい…僕、パパに会いたいよ」
「璃子は?」
「わたしは…」
尚子さんの問い掛けに、ママはふいと視線を逸らしてしまった。
「お願い、ママも一緒に会って」
「だけど…」
「パパが会いたいのは、僕じゃなくて…ママだと思うよ」
「どうしてそんな事が分かるの?」
ここまで来ておきながら、躊躇してしまうのは、きっとパパに対する負い目があるから…。
だけどそんな心配なんて要らないと思う。
「だってパパは、今でもママの事が好きなんだもん…」
「そんな事、あるはず無いわ…。だってわたしは…」
俯き、悩むママの姿はどこか儚げで、幼い少女の様に見えた。
「お願い、ママ。逃げないで、パパと向き合って。ちゃんと話せば、ママの気持ちは伝わるはずだよ」
この機会を逃せばきっと、この先もパパとママは擦れ違ったまま。
下手をすれば、取り返しのつかない事になるかもしれない。
「ねえ、ママ…」
だから僕は、必死でママを説得しようとした。
「あのさ、話し込むのはいいけどさ…。とりあえず中入ろうぜ。暑くて堪んないわ」
「え、あ…陸ッ」
大袈裟に顔を手で扇いでいたかと思うと、陸は僕とママの腕を掴んで、病院のエントランスに向かって歩き出した。
病院という場所は、隅々まで掃除が行き届いているはずなのに、廊下を歩いていると、病院独特の匂いが漂っていた。
「この部屋だ」
病室の入り口に掲げられたプレートに、≪オイカワ ハル≫という名前を見付けると、会いたいと思っていたはずの気持ちが少しだけ揺らいだ。
「今なら引き返せるぞ…」
耳元で囁く陸の声で我に返ると、入り口からずっと手を繋ぎっぱなしだった事に気付いた。
「ううん、大丈夫…」
陸の手をぎゅっと強く握り締めて勇気を貰い、僕は病室の扉に手を掛けた…。
◇ ◆ ◇
ふうと大きく息を吐き、緊張に強張る身体の力を抜く。
「よし」
意を決し、スライドドアを右手に引くと、海に面した窓から差し込む光の眩しさに目が眩んだ。
「パパ?」
物音ひとつせず、人の気配も感じない病室内の雰囲気に、臆病な気持ちが顔をもたげる。
「ねえ…いないの?」
自分の発した声がキンと反響する室内に、一人で過ごした夜を思い出し、両膝ががくがくと震えだす。
「どうした、凪砂?」
「パパ、いないの…」
病室内に足を踏み入れず、その場で固まっている僕を不審に思ったのか、雄介さんが声を掛けてきた。
「いないって…」
僕の言葉に慌てて病室内を覗き込んだ雄介さんの顔が、不安げに曇っていく。
「どこ行ったんだ…」
「トイレかしら?」
「いや、トイレは部屋の中にある」
皆で顔を突き合わせ、あれやこれやと憶測を巡らしていると、廊下の先から気の抜けた声がした。
「あれ?どうした、皆集まって」
声のした方へ振り返ると、病院から貸与されている淡いブルーの病院着にスリッパという井出達のパパが、ビニール袋片手にのんびりとした歩調で歩いて来る。
「パパッ」
パパの姿を目にした途端、両足の震えは止まり、無意識のうちに駆け出していた。
「凪砂ッ」
がばりと抱きついた身体の細さに驚き顔を上げると、慈愛と困惑の入り混じった瞳で僕を見下ろすパパと目が合った。
「よく来てくれたなあ」
「うん」
削げ落ちた頬と、細くなった手足、不健康な色味を帯びた肌が、パパの闘病生活を物語っているように見えて、鼻の奥がツンとした。
「雄介に連れて来てもらったんだな?」
「うん」
「尚子と陸も一緒か…、ッ!?」
尚子さんと陸の影に隠れる様に立っていたママに気が付くと、パパの両目が驚いたように大きく見開かれた。
「璃…子?」
ママの名前を呼ぶと、僕の肩を抱く手にぎゅっと力が込められた。
「来ちゃった…」
「はは、カッコ悪いトコ見せちまったな」
はにかむ様に笑うママを見て、パパの顔に照れ臭そうな表情が浮かんだ。
「迷惑…だった?」
「そんな事あるわけないだろ」
じっと視線を合わせたまま話す二人の姿がとても初々しくて、僕は嬉しいような、ちょっと照れ臭いような気持ちになった…。
「えーと、立ち話もなんだな…」
見詰め合う二人の姿に苦笑する口元を軽く手で覆いながら、雄介さんはみんなを談話室へと誘導した。
「俺、何か飲み物買ってくる」
「わたしお手洗い」
談話室のテーブルを囲み、世間話に花を咲かせていると、一人、また一人と、順を追うようにして席を立っていく。
「あー、腹減った。何か買いに行こうぜ、凪砂」
「え?僕は大丈夫…」
「いいから、一緒に行こうぜ」
陸は渋る僕の腕を掴むと、半ば強引に談話室から連れ出された。
「ちょ、陸。何で?」
「ばーか、こういう時は気を利かせるもんだぞ」
陸の不可解な行動に眉を顰めると、呆れ顔の陸に鼻をむにゅっと摘まれた。
「そういうものなの…?」
「大人の事情ってもんがあるだろ」
「そっか…」
…大人の…事情か。
それがどんなものなのか、よく分からなかった僕は、陸の言葉に分かったようなフリをした。
「外行こうぜ」
「うん」
売店でスナック菓子とジュースを買い込むと、それを持って建物から出た。




