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パーフェクト・スカイ  作者: 野宮ハルト
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第18話


『その気持ちも含めて全部、俺が受け止めてやる』


その言葉を拠り所に始まった生活は、波留の努力と忍耐に支えられていた。

時に情緒不安定になるわたしを、波留はいつもやさしい笑顔で包んでくれた。


そんな彼の優しさに甘え、智樹との想い出に生きるわたしの中で、新たな命が宿り…生まれた。



母となる心構えの出来ていなかったわたしの前で、小さな手足を動かし、力強い泣き声を上げる幼子が、わたしの中にある原始的な本能をくすぐり、懸命に生きようとする姿に新たな感情が生まれるのを感じた。



「そろそろ、名前を決めなきゃいけないな」

出生から14日以内に届け出なければならない子供の名前。

「そうね…」

他の母親の様に、生まれる前から命名辞典を読んだり、画数を気にしたりする事など無かったわたしは、波留が切り出すまで、子供の名前を考えていなかった。


「…七海」

「七海?」

ふっと口をついて出た名前に、あなたの眉根が寄せられた。

「そう…七海がいいわ」


愛する人の命を奪った場所を名前に入れるなんて、酔狂な事だと思ったに違いない。

けれど、あなたが愛した場所だからこそ、敢えて名前の中に入れるべきなのかもしれないと思った。


「七海か…。よし、七つの海を股に掛ける様な、立派な男にしてやるからな」

眦を下げながら、危なっかしい手付きで七海を抱く波留の顔には、喜びと希望が溢れていた。

そんな波留の姿に、わたしの中で緩やかな感情が込み上げてくるのを感じた…。



それ迄のわたしには、ひとつの愛しか存在しなかった。

それは亡くなった智樹に対する愛で、その愛を他の誰かに向けたりする事なんて考えられなかった。


そんなわたしに新たな愛を教えてくれたが、七海という存在だった。


愛は無理に形を変えたり、切り分けたりするものでは無い。

愛するという気持ちは、大切な人の数だけ存在する。

大切な人が増えていけば、愛する気持ちも増えていく。


そんな単純な事に気付かなかったわたしは、必要以上に世話を焼く波留を、疎ましいと思う事もあった。

我侭なわたしを大切にしてくれる波留を、無理にでも愛そうとした時期もあった。


…もう大丈夫。

自分の間違いに気付いたわたしは、智樹とは違う形で波留を愛せるようになった。

良き夫、良き父親としての波留を…。



智樹の生まれ変わりだと信じて産んだはずの七海は、成長と共に、皮肉なほど波留に似ていった。

…きっと天罰ね。

穢れの無い幼子に、歪んだ愛情を注ごうとしたわたしの目を覚まさせる為、神様が罰を下さったんだわ。


一時とはいえ、何の穢れも無い幼子に抱いてしまった邪な愛情は、小さな命を育てていくうちに自然と消えていった。

今では、そんな考えを抱いてしまった自分を、笑えるようになっていた。



そして…。



「波留…お願いがあるの」


純粋に波留と七海を愛せるようになったわたしは、二人目の子を宿す事を願った…。


◇  ◆  ◇


「七海と凪砂の笑顔が、弱いわたしに母としての自覚と強さを与えてくれた。家族四人で過ごした日々は、わたしにとって人生最良の日々だった。その幸せはきっと、愛する人を失うという辛い想いをしたわたしの為に、神様がくれたご褒美なんだと思っていたわ…。だけど…ちゃんと神様は見てたのね。わたしが手に入れた幸せは、波留のたゆまぬ忍耐の上に成り立っていたのよ。そんな大切な事を忘れ、幸せの上に胡坐をかいていたから…あんな事が起きたのよ」


遠くを見詰めていたママの視線が、ふっとテーブルに落とされると、カップを握る手にぎゅっと力が込められた。


「この街へ越す事を相談された時、わたしはその願いを無下にしたわ。散々頭を下げて、最後は土下座までしてきた波留の姿に呆れながら、渋々承知したの。そしてこの街へ来てからのわたしは…知っての通り」



海があるこの街に越してきたというのに、ママは海へ近付こうとしなかった。

そして僕や七海兄ちゃんが海へ近付く事も嫌った。


…どうしてなの?

ママの言動を理解できなかった僕は、ずっと不思議で仕方なかった。


『璃子は…ママはな、海が嫌いなんだよ…』

子供の頃、パパがポツリと漏らした言葉の意味が、やっと分かった…。


ママにとって海は、大切な人を奪ってしまった忌み嫌う場所だったんだ。



「ママ…?」

カップを握る華奢な手に自分の掌を重ねると、ママの身体がビクリと震えた。

「どうして家を出て行ったの?どうしてパパと別れたの?ママは…僕達の事が嫌いなの?」

ずっと聞きたくて、だけど聞けなかった言葉を口にしようとすると、涙で声が詰まってしまう。


『泣いてばかりいると幸せが逃げていくわ。だから、何があっても笑ってなさい…』

去り際に聞かされたママの言い付けを守り、辛い事や、悲しい事に出会ったら、嘘の笑顔を貼り付けて乗り越えようとしたけれど、そんな事をした分だけ、辛さも悲しさも増していった。

それでも僕は無理して笑い続けたけど…幸せは逃げて行った。


「何言ってるの…。ママが凪砂を嫌いになるはずないでしょ?」

「じゃあ…パパは?」

「好きよ…今でも愛してる」

「だったら…」


ママは伏せていた顔を上げると、僕の手をぎゅっと握り締めた。


「やっと智樹の死を乗り越えられたと思ったら、次に待っていたのは愛する息子…七海の死。せっかく掴んだ幸せは、海が全部浚ってしまう。ママが愛した人は全て海に消えてしまう。そんな思いに駆られてた。あの時のママには、二度目の悲しみを乗り越えるだけの気力が無かったの。冷静な思考を失っていたの。悲しいのはわたしだけじゃないのに、自分だけが不幸だと思い込んで、あなた達を置いて家を出てしまったの…」


…やっぱりママと僕は親子だね。

ふと頭の中に浮かんだ考えに、胸の中にあった錘が取れ、気持ちが軽くなった様な気がした。


「どうしたの?」

自然と漏れた笑い声に、ママが僕の顔を怪訝そうに覗き込んできた。

「あのね…僕とママって、見た目だけじゃなくて、思考回路まで似てるんだなと思って」

「どういう事?」

「ママは、自分が愛した人は全て海に消えてしまうと思い込んでいたでしょ?僕はね、泣いてしまうと、周りの誰かを不幸にしてしまうと思い込んでいたの」

「それって…」

「だってママ、僕に言ったでしょ?『泣いてばかりいると幸せが逃げていくわ。だから、何があっても笑ってなさい…』って。だから僕は泣かないようにしてきた。誰の前でも涙を見せない様にしてきた。だけど…」


どんなに頑張っても、何かにとり憑かれた様に仕事をこなし、挑むように海へ向かい、沢山のお酒を飲むパパを止める事が出来なかった。

日を追う毎に様子の変わっていくパパの姿を、黙って見守る事しか出来なかった。


「ごめんなさい…凪砂…」

「謝らないで。僕はママを責めるつもりなんか無いよ。だって僕は、ママの言葉があったから、ずっと頑張って来れたんだよ。それが無ければ…」


…だったら。

パパはどんな想いでママと別れ、どんな想いで僕と過ごしてきたんだろう?


きっとパパも、縋るものが欲しかったんだ。

僕のように頼りない息子じゃなくて、もっと強くてしっかりしたものが。

それが見つからなかったから…お酒に逃げたんだ。


「明日、波留の所へ行こう」


黙り込んでしまった僕達を励ますように、雄介さんがそんな言葉を掛けてくれた…。


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