第13話
「大丈夫だから…な」
陸の大きな手が、あやす様にやさしく何度も背中を擦ってくれると、あんなに苦しかったはずの呼吸が楽になり、パニックに陥っていた気持ちも平静さを取り戻していった。
「ビックリさせて悪かった。凪砂に何も聞かないで、全部勝手に決めてきて…」
落ち着きを取り戻した僕の顔をそっと撫でると、雄介さんの顔に安堵の表情が浮かんだ。
「う ちの会社にもいたんだよ…。仕事のストレスを発散する為に飲んでいた酒に、呑まれちまった奴が。そいつと、昨夜の波留の姿がダブってな…。だから、朝を 待ってすぐに波留を病院に連れて行ったんだ。そしたら、さっき言った通り…アルコール依存症って言う診断が下ったんだ。鬱症状も出てるって言うし…」
感情を押し殺した声で、雄介さんが淡々と語る。
「アルコール依存症ってヤツは、早期発見、早期治療、それと本人の意志が重要らしいんだ。だから俺は波留に教えてやった。酔った波留が、凪砂に怪我を負わせたって事を。そしたらあいつ、自分の意思で入院するって言い出だしたんだ」
…知らなかった。
パパの様子がおかしいのは知っていたけど、そこまで酷い状態だったなんて…一番近くにいながら、僕は何にも気付いてあげられなかった。
「僕がいけないんだ…。お酒飲んでるパパの事、見て見ぬ振りしてた…僕がしっかりしてれば、こんな事にならなかった…殴られて当然だよ」
みんなの幸せを願っても、僕の気持ちは全て裏目に出てしまう。
空虚な時間が支配していた、パパとの生活を思い出すと、自責と後悔の念に胸がぎゅっと痛くなる。
「凪砂…自分を責めるんじゃない。おまえはまだ子供なのに、何でもかんでも一人で背負わせてしまったね。責めを負わなきゃいけないのは、俺達大人のほうだよ…」
唇を噛み締め、溢れそうになる涙を堪えていると、膝の上で握り締めていた拳を、雄介さんの手がそっと包み込んできた。
「悪かったな…凪砂」
「謝らないで、悪いのは僕だから…。僕のせいで、みんな不幸になるんだ…」
ダメだと言い聞かせてるのに、堪えようとしてるのに…勝手に涙が溢れてくる。
「パパもママも…七海兄ちゃんも」
「凪砂ッ!」
震える僕の身体を、陸が後ろからきつく抱きしめてきた。
「隠し事は一切許さないって言ったばかりなのに、何であんな大事な事隠してたんだ?」
「り…く?」
「何 勝手に不幸ぶってんだ?救助のプロだって、溺れた人の命救えない事もあるんだぞ。まして七海くんは素人だ、救いたくたって救えない命もあるんだ…。それ に、波留さん達が離婚したのだってお前のせいじゃない。あれは本人同士の問題だろ?離婚したって、波留さんと璃子さんはおまえの親だ。それは永遠に変わら ないんだぞ!」
陸が本気で怒っている声を初めて聞いた。
泣いている声を初めて聞いた。
陸の瞳から零れ落ちたものが、僕の首筋を濡らしていく…。
「ごめんなさい…何でも相談しようって決めたのに、隠し事しないって約束したのに…」
陸の涙に、硬く閉ざしていた心の扉が開いて行く。
「パパの事は…もしかしたら、良くなるかもって思ってた。だから、もう少し様子を見てから相談しようと思ってた。でもその前に…」
涙で声を詰まらせると、僕を包む腕に力が込められた。
「分かった、分かったからもう泣くな…俺が、俺達がついてるから大丈夫だ」
…陸。
黙っててゴメンネ。
心配掛けてゴメンネ。
迷惑かけてゴメンネ。
やっぱり僕には陸がいないとダメなんだ。
「波留が退院するまで此処にいなさい。ちゃんと寝て、ちゃんとご飯食べて…元気な姿で波留を迎えましょう」
それまで黙っていた尚子さんが僕の前にやってきた。
「二人ともまだまだ子供なのよ…もっと大人に甘えない」
僕を抱きしめている陸ごとその胸に抱き寄せられたら、忘れていた母の温もりを思い出した。
甘く優しい温もりに、僕は子供のように大きな声を上げて泣き出した…。
◇ ◆ ◇
陸の家でお世話になる様になって一週間…。
毎朝陸が海へ出かける時間に合わせ起床すると、僕は一旦自宅へ戻り、遺影の中で微笑む七海兄ちゃんに『おはよう』って言いながらお線香を供えてた。
今迄より早起きすることになったけど、七海兄ちゃんの為なら全然苦にならない。
シンと静まり返った家の中で遺影に向かって手を合わせると、小さな声で問い掛ける。
「きっと良くなるよね?大丈夫だよね?七海兄ちゃん…」
そうやって問い掛ければ、事態が好転するような気がして、何度も同じ言葉を繰り返してから、陸の家へと戻って行った。
七海兄ちゃんの命日は1週間後だけど、パパの退院はそれよりも先になりそうだと雄介さんが言ってた。
去年の三回忌法要にママは来なかったけど、海が見渡せる場所にある七海兄ちゃんのお墓には、時折真新しい花が手向けられていた。
名前も知らない白く可憐な花…それはみんなで仲良く暮らしていた頃、庭先を飾っていたのと同じ花だった。
その花を見かけるたび、七海兄ちゃんの前にしか姿を現さない母を恋しいと思った。
今の僕の心はきっと、砂漠の砂みたいにカラカラに乾いてるんだ。
陸の家に滞在する時間が増えれば増えるほど、愛情に飢えた僕の心は、陸や陸の両親から注がれる愛情を貪欲に吸収していく。
それでも足りなくて、もっともっとと心の中で叫んでる…。
だからなのかもしれない…。
陸のやさしさや気遣いがとても嬉しくて、その気持ちを僕だけに向けて欲しい、なんて我侭な事を考えてしまうんだ。
だけどそんな事したら、直幸くんの言った通りになってしまう。
今度こそ本当に陸を縛り付けてしまう。
…そんなのダメだ。
陸は僕と一緒に居る時間が好きだと言ってくれたけど、大事な幼馴染だからこそ、陸の時間を奪いたくないんだ。
僕の事なんか構わずに、もっと自由に振舞って欲しいのに…。
「凪砂~ッ、宿題!」
夕食後、ダイニングテーブルで宿題を片付けていると、テキストを抱えた陸が側へ寄って来た。
「ダメ、自分でやりなよ」
「ちょっと位いいだろ?」
素っ気無く答えると、陸は僕の身体を羽交い絞めにしてきた。
「ちょ、苦しいって」
「見せてくれるまでこのままだからなッ」
それは単なるじゃれあい、今迄だってずっと同じ様な事をしてきた筈なのに、いつの間にかそんな些細なスキンシップすら無くてはならないものになってしまった。
…ホントに苦しいんだって。
逞しい腕の感触や、僕を包み込む体温や香りに、ふざけあう楽しさよりも、安らぎを感じてしまう。
なのに、安らぎを感じれば感じるほど、胸を締め付けるような苦しさが生まれてくる。
だって、陸に大事な人が出来た時は、この安らぎを手放さなければいけないんだ。
…ずっとこのままでいたい。
そんな日なんて来なければいいのに…。
陸の逞しい腕に自分の手を添えると、身を裂く思いでその手をゆっくりと引き剥がしていった…。