8 遊撃戦への序曲
フィンランドの軍は少数で動き神出鬼没だ。
オイルすら凍り付くような酷寒の世界。
「でも、去年よりは暖かいね」
機嫌良さそうに首を傾げたアリナは、ショートカットの金髪を揺らしながら、体を温めるようにその辺をスキーで滑っている。
「”タフ”ですね」
呆れたように上官に告げるのはアーッテラだ。
「……じゃないとやってられない」
唇の端でにやりと笑う。
彼女にしては異様な沈黙がその前に続いていた。
戦闘狂。
時にはそう呼び習わされることすらある彼女。
モロッコの恐怖、とも、ただ単に「恐怖」と呼ばれることもある。女性でありながらそんな異名を持つと言うことに対して、なにも思わないのだろうか。
そんなことをアーッテラが考えはじめたころに、アリナ・エーヴァが副隊長の男の名前を呼び掛けた。
「アーッテラ」
「なんでしょう?」
「……何人死んだ?」
「……は?」
「今まで、うちの中隊は何人死んだ?」
彼女の部隊に配置された隊員たちは約九十名。補充兵たちをいれれば百人を越える。一般的な中隊の規模にすれば小さなものだ。
フィンランドは小国なのだ。
やむを得ない。
しかし、いくらなんでも、現状を全くの犠牲もなしに攻略することなど不可能だった。いくら、指揮官であるアリナ・エーヴァが歴戦の猛者であったとしても決して犠牲は免れない。
「確か……」
「もう、八人死んでる。怪我して動けないのが二十人。早く蹴りをつけないと、こっちが消耗戦に引きずり込まれるばっかりだ……!」
吐き捨てるように言った彼女は、けれども冷静さは失ってはいない。きつそうに見える青い瞳をまたたかせた彼女は、舌打ちをしてから中空を睨み付けた。
確かに、状況は決して良くはない。
けれども一兵士でしかない彼らにはどうすることもできないし、ましてや押し寄せるソ連軍の兵士たちをどうしようもない。
部隊内の死者が八人ですんでいる、というのは奇跡的なことかもしれなかったが、それでも持ち駒を削られていくのは、指揮官であるアリナにとっては厳しい。
「ですが、姉さんは絶望なんてしていないんでしょう?」
「当たり前だ、あんな鈍くさいイワン共を押し返せなかったなんてことになったら、モロッコの恐怖の名前が廃る」
眉をひそめてそう言った彼女は、スキーのストックで軽くアーッテラをつついた。
「イワンの奴らが、タルヴェラ大佐とシーラスヴォ大佐に振り回されてる間に、こっちも総攻撃をかけるそうだよ」
「……この状況下で、ですか?」
フィンランド軍の損害も馬鹿にならないほど大きくなっている。
簡単に言えばいつ戦線が崩壊してもおかしくはない戦闘。快進撃を続けるタルヴェラ戦闘団にしろ、シーラスヴォ大佐の率いる第九師団にしてもそうだ。
コッラー河の戦線だとて予断を許さない。
「うん、混乱しているうちに、敵を分断してモッティに追い込む」
「なるほど」
「ティッティネン中佐がー……」
「え?」
ふと、アリナは間の抜けた声を放った。
それは、今までの深刻な話しをしていたときの声とはあまりにもかけ離れていて、思わず耳を疑ったのはアーッテラだ。
ヴィッレ・ティッティネンは、アリナの直属の上司に当たる。一応、彼女とティッティネンの間には第二大隊隊長を務めるカール・マグヌス・グンナス・エーミル・フォン・ハールトマン陸軍少佐がいるが、余りにもアリナとフォン・ハールトマンが犬猿の仲であるため、実質的に命令を下しているのは連隊長のティッティネンである。その階級は中佐で、質実剛健な男だ。
「……”気をつけろ”ってさ」
「”なに”に気をつけるんです?」
アリナ・エーヴァがなにを言っているのか、本気で理解できなかったユホ・アーッテラが問い返すと口角をつり上げて三十代半ばの女性指揮官は笑った。
「わたしが女だから、イワン共に気をつけろだと」
鼻から息を抜いた彼女は、地図を見つめたままで身じろぎもしない。
「あぁ、”その手”の心配ですか」
中隊の指揮官二人が手元に広げた地図を見下ろして何事か言葉を交わしている様子に、陣地にいる兵士たちがちらちらと視線を投げてくる。
気のない返事を返しながら、アーッテラはやれやれと肩をすくめた。
心配などするだけ無駄だろうに。
なにせ、片やは有名な「モロッコの恐怖」だ。
金色のショートカットは帽子と包帯にほとんど覆われて見えないが、鼻筋の通ったすっきりとしたきつめの美人は、どこか無邪気な印象すら受けた。
「でも、姉さんこう言っちゃなんですが、”女の子”ってのはもっとこうかよわくて守ってあげたくなるような子のことを言うんじゃないんですかね?」
聞きようによっては余りにも失礼な物言いだが、アーッテラの言葉にアリナ・エーヴァは機嫌を悪くする様子もなく大きく頷いた。
「そうそう。わたしもね、中佐に言ったんだよ。どうせ、イワンの奴らはわたしみたいなムキムキの女はいやだろうし、なにより年寄りすぎるからご免被ると思いますよってね」
「そしたらなんと?」
ヴィッレ・ティッティネン相手にそんな冗談めいた言葉を返すアリナが容易に想像できてしまったアーッテラが苦笑すると、目の前の全軍唯一の女性士官は大袈裟に肩をすくめてから溜め息をついてみせた。
「俺は本気で心配してんだぞ、この馬っ鹿もーん! って怒られたよ」
くすくすと笑い出したアリナに、アーッテラもつられて笑い出す。
そもそも、最前線とは言え、アリナが駐屯する陣地まで入り込むにはまず歩哨たちの見張りをしている塹壕を突破しなければならないのだが、「狙撃兵」と呼ばれていない者たちの中にも銃の腕に秀で、視力の良い者が多いため、そこを突破して曰く「女」であるアリナの元をピンポイントで襲うことなどまず不可能だったし、戦場でひとりになったところを狙ったところで、彼女に組み伏せられるか、頑強なククリナイフで切り裂かれるか、サブマシンガンで銃弾の雨をお見舞いされるかのどれかである。
「ですが、それ、中佐をおちょくった姉さんのほうが悪いんじゃないですか?」
声を殺して笑っているアーッテラに、アリナ・エーヴァは「まーね」とだけ言ってから、真面目な表情に戻った。
「……心配してくれるのはありがたいけどさ、心配なんかするだけ無駄なんだよ。わたしは兵隊だからね」
「中佐は、姉さんを失いたくないんだと思いますよ」
笑いを納めながらそう言ったアーッテラは、勇猛果敢な女性指揮官を見つめてからまじめくさった声で告げてやれば、アリナは口元だけでかすかに笑う。
「買いかぶりもいいところだ」
「怪我したことは黙っておかないとうるさそうですね」
「そうだね」
ふたりの会話はまるで戦場にいるそれとは思えないほど気軽なもので、聞いている者がいるとすれば平時と錯覚するかとさえ思われる。
けれど、そうではない。
そこは最前線だ。
「……そういえば、姉さん。他の連中は順番に休めてるからいいですけど、総攻撃の準備にはいる前にサウナでも入って一回しっかり休んでくださいよ」
「大丈夫だよ、そんなに心配しなくたって」
女性でありながら、体力は兵卒や下士官の男たちとは段違いの彼女はいつも余裕綽々とした顔をしている。
時折、疲れを隠しているのではないかとアーッテラは勘ぐることすらある。
特定の従卒もつけない彼女はひとりでなんでもできる女性だった。
兵士としても、指揮官としても非常に優秀だ。
「冗談ばっかり言ってないで、真面目に聞いてください。あなたに倒れたら困るのは俺らなんですから」
わかりましたね?
まるで小言でも言われたように肩をすくめたアリナはそうしてから、ふと鼻から息を抜くようにして笑った。
「わかったわかった、そのうち休むよ」
部下たちが自らついてくる指揮官というのは確かにいる。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性指揮官はその中のひとりだ。少々、粗雑なところがあるが、あっけらかんとしていて冬の寒さを吹き飛ばすような明るさを持っている。
絶望的にも思える泥沼の戦場を、強い光で照らし出す。
まるでその存在は、冬の北欧に忘れ去れれた太陽のようだ。
「姉さん、副長。どうぞ」
唐突に、男の声が聞こえたと思ったら彼女らの目の前に金属製のカップに入れられたスープが突き出された。
普段、仲間内で作っているものと香りが異なる。
突き出されたカップを受け取りながら、アリナが訝しげな表情を浮かべると狙撃手の男はにやりと笑いながらコートの襟を正すとヘルメットを外した。
鹵獲品の赤軍の薄汚れた制服を身につけている。
「ちょっと奴らのところまで行って昼飯もらってきました」
ちょっとそこまで、とでも言いたげな彼の言葉にアリナとアーッテラは顔を見合わせた。大胆な狙撃手はにやりと笑うと流暢なロシア語を披露する。
「へぇ?」
温め直されたスープに口をつけながら、アリナは唇の端をつり上げると青い瞳で男の顔をじっと見つめて笑みを返す。
まるで全てを見透かそうとするかのような彼女の笑みに、狙撃手の男は肩にライフルを背負い直してから、アリナ・エーヴァの手元にある地図を指さした。
「イワンの野戦炊事所の場所は、こことここ、手の届くところだとこっちとこっちにもあります。どうします? 姉さん」
「どうするのかって聞かれたら答えは一つしかないでしょ?」
アリナも平然と言葉を返すと、アーッテラを見やった。
「小隊長を招集、わたしのテントに十分後だ」
履いていたスキーをぬぐとくるりと踵を返す。
誇り高く歩くその後ろ姿に、アーッテラは鋭く敬礼を返すと中隊の指揮官たちを集めるために歩きだした。




