7 予兆
ロッキングチェアが揺れる。
どうやら寝返りをうった反動でお気に入りのロッキングチェアが大きく揺れたようだ。ぼんやりと目を開いてから彼女は自分の額に違和感を感じて手のひらで探る。
布の感触に現状を確認した。
どれだけ意識を失っていたのかはわからないが、意識を失う前に砲撃の音を聞いて、そして全身に衝撃を受けたと思ったらそのまま意識が途切れたのだ。
不覚だ、と思った。
しかし、ヘルメットもしていなかったというのに傷が包帯程度で済んでいることの方が奇跡的だ。
自分の強運に苦笑いしながら、体を起こす。
もっとも、シモ・ヘイヘだけをつれて二人だけで赤軍の奇襲部隊の偵察に向かったユホ・アーッテラが悪いのだ。
テントの外はひどく静かで風の鳴る音しか聞こえない。
雪はいつやむのだろう。
雪が音を吸収して、静けさに拍車をかけている。
「冬将軍に助けられたな……」
アリナは独白する。
少なくとも、ソ連の赤軍など素人の集まりだ。熟練した兵士たちで構成されているフィンランド兵の敵ではない。
しかし、物量差だけはどうにも頭が痛くなる。
手持ちの武器だけで戦うしかないのだ。
テーブルの上には血糊の拭われたククリが置かれている。
「目が覚めましたか?」
聞き慣れた声がテント内に響いて、アリナは瞳だけを動かして声の主を見やる。どこか機嫌悪そうな眼差しになるのはやむを得ないだろう。
「そんな顔しないでください」
困ったように彼が笑っていた。
「アーッテラ」
「なんでしょう」
「結果的におまえたちが助かったから良かったようなもんだ。もう少し考えて行動しろ。わかったな。先走りすぎると援護も間に合わないぞ」
語気が荒くなる。
思い出すだけで不愉快な気分にさせられて、彼女はロッキングチェアの肘掛けに腕を預けると目を閉じてゆらりと揺れる。
自分の気持ちを整理するときにするアリナ・エーヴァの動作の一つだ。
彼女は前線指揮官の一人として意図的に冷静さを取り戻すことができる。決して感情だけで物事を判断するような女性ではない。
そこが、女性士官でありながら多くの兵士や下士官を惹きつける一因だったのかもしれない。
「シムナは無事か?」
「えぇ、無事です。姉さんが間に合わせてくれましたので」
「そりゃ良かった。本当に、銃声が聞こえたときはどうなることかと思ったよ」
やれやれと溜め息をつく彼女は指先で頭に巻かれた包帯を嬲りながら肩をすくめる。
「姉さんの傷も大したことないそうです」
「だろうね、それほど痛くないし」
なによりも迫撃砲が直撃したわけではない。
「耳は大丈夫ですか?」
「聞こえてるよ、少しぼーっとするけどね」
それで、とアリナ・エーヴァは言葉を続けた。
「イワンの動きはどうなってる? それにわたしは何時間寝てた?」
「イワンは明け方に奇襲部隊を壊滅させましたので、現在小康状態を保っています。それと隊長が寝てたのは五時間ほどです。でも、丁度良い休息になったんじゃないですか?」
しれっとして返事をするアーッテラに、渋面を向けるが結局何も言わなかったのは、確かに彼の言葉通り、体を充分に休めることができたためだ。
たとえ意識を失っていたとしても、危機的状況になればアーッテラは彼女をたたき起こすだろうという絶対の信頼関係がふたりの間には築かれている。
「雪は、まだやまないの?」
「もう十日になりますね」
ソ連軍の兵士たちだってそろそろ限界のはずだ。
彼らは豪雪に慣れていない。スキーも履かずに雪の中を歩けば、それだけ機動力は低下するし、戦車などの機甲部隊も同じことだった。
なによりも消耗が激しいはずだ。
それはフィンランド国防軍の面々がなによりも熟知していることだ。
「雪がやめば、空からの支援も見込めるだろうに……」
「激戦区に限りますよ、それは」
「そりゃそうだけどさ。別にわたしはコッラーを支援してほしいなんて一言も言ってない」
ばっさりと切り捨てるように告げた彼女の瞳は、女性のそれとは思えないほど物騒な光をたたえている。
これが先ほどまで意識を失って揺り椅子に揺られていた女性なのかと思えるほどだ。
「航空支援なんてなくたってなんとかしてみせるさ」
それが陸戦のプロとしてのプライドだ。
平野部とは異なり、フィンランドは森林が多い。その中でゲリラ戦を展開すれば充分な戦果を期待できた。
「楽しそうですね」
呆れたようなアーッテラの言葉に、アリナは唇の端を引き上げてからにやりと笑った。それは麗しい貴婦人の笑みなどではなく、百戦錬磨の兵士の笑みだ。
けれど、彼女は古参兵でありながら、決して敵も味方も過大評価もしなければ過小評価もしない。常にそこにある戦力を的確に分析し、敵の虚をつく戦い方が可能な前線指揮官だ。だからこそ、彼女の部隊の隊員たちはそんな彼女に無類の信頼を寄せている。
「ま、こういうときじゃないとゆっくり休めないからね。あんたたちも充分休んでおきなよ」
言いながら彼女は机の上に広げられた地図を見つめている。
なにを考えているのだろうか。
「タルヴェラ大佐の戦闘団が、イワンの一三九狙撃兵師団を返り討ちにして東にむかっているらしいよ」
「……ふむ、快進撃ですな」
「大佐は、独立戦争時代からの辣腕の指揮官だからね。わたしなんて足元にも及ばない」
「そうですか? やってみたら案外なかなかいけるんじゃないですかね」
勇猛果敢な彼女だ。
全隊の指揮もそれなりにこなせるのではないかともアーッテラは思うが、彼女は軽くかぶりを振った。
「無理無理、協調性ないし」
どうにも命令されることは好きではないし、人に自分の意志を伝えることも苦手だ。だから彼女は兵隊をやっているのだ。
中隊指揮官とは言っても、実際の所、戦闘員として頭数に入っているのだから、指揮官とは言い難いかも知れない。
第四軍団の側面を掩護するのは第十六歩兵連隊と野戦補充大隊から急遽編成されたパーヴォ・タルヴェラ大佐の「タルヴェラ戦闘団」で一種の独立戦闘部隊である。彼らは十二月十四日から十五日にかけてソ連第八軍の一三九狙撃兵師団を撃破しさらに北東へ進撃して翌十二月十六日にはマトカイルマヤにまで到達。さらに進撃を続けながら一三九狙撃兵師団の救援のために駆けつけたソ連赤軍第七五狙撃兵師団も撃破した。
ちょうどその頃天候も回復し、フィンランド空軍の戦闘機隊が出撃を可能とした。
フィンランド空軍の戦闘機は、他の国の戦闘機とは異なり、雪上でも滑走、離陸できるように脚にスキーを履いている。
現在の主力戦闘機はフォッカーD.XXIでこれらは三六機あまりしかなかった。
「航空支援はいりませんか?」
「コッラより、もっと危ない戦線があるならそっちに回すのが当たり前だ」
冷たいほど冷静に言い放った彼女に、アーッテラは思わず無言で頷いた。
確かに、自分達の相手は八万人に上る赤軍だ。
しかし不思議なもので、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンが「大丈夫」と言うと大丈夫な気がしてくるから、彼も相当彼女に毒されていたのかも知れない。
「そんなものなくたって、どうとでもしてみせる……」
陸戦のプロとして彼女は固く誓った。
テントからコートを翻して出てきたアリナ・エーヴァの姿に中隊の隊員たちは一様にほっとした目を向けた。
アリナ・エーヴァという「女性」が無事だったからではない。
アリナ・エーヴァという「兵士」が無事だったからだ。
彼女の存在は中隊にとってはとても大きなもので、例えるならば面倒見の良い父親か母親のようだ。
「無事でしたか」
静かに寡黙なはずの兵士――シモ・ヘイヘが言った。
「当たり前だ、あの程度で死んだら洒落にならん」
わざとらしく唇をへの字に曲げたアリナにヘイヘは苦笑した。目の前の百戦錬磨の女性は、女性だというのに敵軍の喉を掻き切ることも厭わなければ、頭部を蜂の巣にすることも厭わない。
まさしく鬼神のように戦う彼女に、男たちはぞっとすらする。
「雪がおさまってきたね……」
冬将軍はその手を緩めつつある。
もっとも、本格的な冬はまだまだこれからではあるが。雪がおさまれば、激戦区への航空支援も可能だろう。そうすれば、激戦を繰り広げているトルヴァヤルヴィ、もしくはスオムッサルミへの地上支援を期待できる。
「ま、どうでもいいけど」
ぽつりと独り言でもつぶやくように言った彼女に対して、横を歩いていたアーッテラが視線をちらりとよこしてくる。
「なにがどうでもいいんですか?」
「なんでもない」
「……そうですか」
アリナ・エーヴァが語る気がない以上、どんなに問い詰めたところで無駄なことを知っているユホ・アーッテラはそれ以上の追求はせずに溜め息混じりの息を吐き出した。
「雪がやむのは嬉しいですが、イワンも元気になるのが厄介ですな」
「……そうだね」
そのまま雪に埋没しててくれると楽でいいんだけど。
付け加えるようにつぶやいた彼女の言っている事は、あまりにも残酷でアーッテラはかすかに片目をすがめるが、当のアリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性士官はそんなことも意に介してはいないようだった。
顎に指を当てたままで考え込んでいる上官の横顔に、アーッテラは肩に機関短銃を背負いながら首を巡らせた。
塹壕には見張りについている歩哨たちが視線を巡らせて辺りを警戒している。
コッラー川。
その後ろには、フィンランド軍の総司令部や、首都ヘルシンキ、陸の要所の一つカレリア地峡やフィンランド空軍の戦闘機隊を擁するインモラ空港など国防において重要な拠点が多い。
だからこそ、コッラー川は必ずや守り通さなければならない。
どんなに被害が大きくなるのだとしても。
「怖くはありませんか?」
静かに、静寂の中を滑るようにアーッテラが問いかけると、アリナは視線だけを動かして自分の補佐役である副長を見やった。
「コッラは絶対に守らなければならない。ですが、アカの奴らはたたいてもたたいても沸いて出てくる。まるで亡霊かなにかを相手にしているような気分になります」
コッラー川というその場所を守り通さなければならないということはわかっている。けれども、それを一個師団でできるものだろうか。
相手はその上一個軍だ……。
「ユホちゃん。あんまり難しいこと考えるとはげるよ」
深刻な顔をしているアーッテラに、アリナ・エーヴァは軽い口調で応じた。
まるで冗談でも言っているような雰囲気だ。
「殺すか殺されるかっていうときに、他の戦線の心配なんかするだけ無駄だよ。とりあえず、自分が生き残ることだけ考えればいい。後ろに将軍がいるから、とか、街で家族が待ってるから、とか、そういうこと考えるのは二の次にしたほうがいい」
毛皮の帽子を包帯の巻かれた上からかぶって、彼女はひらひらと歩哨をしている狙撃手の男に手を振った。
どこまでも緊張感に欠けているのが彼女らしいと言えば彼女らしい。
「弟さんのこととか、心配になりませんか?」
尋ねた彼に、彼女は肩をすくめただけで特になにかを告げるわけでもなく、補給担当の兵士からスキー板とストックを手渡されて肩にたてかけた。
「さて、イワンも混乱してるだろうし、そろそろ行こうか」
「全員招集しますか?」
「……どうしようか」
考え込む素振りを見せてから、彼女は手袋をはめた手で地図を開いた。
「アーッテラは、奴らがどの辺りに展開していると思う?」
「そうですね、まぁ、単純に考えれば丘を越えたこの林の奥だと思われますが、姉さんの見解は?」
「この林の、この辺りだとは思うけど、その奥って確か対戦車用の罠があったよね?」
「そういえば、戦車戦を想定して必死で作りましたな」
広大な湖沼地帯と、森林に覆われたフィンランドの土地は、そのまま自然の要塞だ。機械化師団を投入するならば、ベツアモの上から入るか、もしくはレニングラードにもより近いカレリア地峡の細い回廊を通るという選択しかない。
長い地上の国境のすぐ脇には、マンネルヘイム線と呼ばれる自然を最大限に利用した防衛線がしかれているため、そこからは陸からの侵攻は容易ではない。
そう言った意味ではフィンランド側の防衛戦というのはそれなりにやりやすかったが、だからといって仕事が楽になるわけでもない。
事実、こうして難所の攻略のために赤軍は八万人の大部隊を差し向けている。
「きっと、アカの奴らには一個軍なんてなんでもない数字なんでしょうなぁ」
地図を覗き込みながら溜め息をついたアーッテラに、アリナも頷いてから眼を細めると黙り込んで考えに沈んでいる。
「ここに何人残しておけばいいと思う?」
「そうですねぇ、でも、他の連中もいるから中隊全員で出ても問題ないと思いますが。ただ、雪もやみそうですからね、奴らも元気になることを考えると犠牲は無視できないでしょうね」
「あんまり死なれると困るんだよね……」
「そうですね」
ただでさえ少数精鋭なのだ。
赤軍の兵士は叩いても叩いても余剰兵力を持っているからいいだろうが、フィンランド軍はそうではない。
最初から押しつぶされそうなほどぎりぎりの数で戦っている。
たまたま冬将軍を味方につけられたという幸運に見舞われているに過ぎない。
そうして、奇襲を仕掛けながら戦線の維持を図り十二月も半ばを過ぎた頃、アリナは塹壕の中でくつろぎながら冷たい土に耳を押しつけて目を閉じた。
「風邪ひきますよ、中尉」
「ひくわけないでしょ」
こんなところでフィンランド軍の将校が「風邪をひいた」など笑い話にもならない。北欧の寒さに北欧の人間が慣れ親しんでいなくてどうするというのか。
「どうしたんです?」
アーッテラの声に、アリナは体を起こすと肩にたてかけていた機関短銃を革のベルトで背負い直してからすっくと立ち上がる。
「ちょっと神経を休めてただけだから気にしなくて良い」
「そうですか?」
本当にそんなくだらない理由なのだろうか。
アーッテラが勘ぐるが、アリナ・エーヴァはそんな彼の眼差しにも動じない。
毎日のように奇襲攻撃をしかけて、毎日のように鹵獲兵器を手に入れる。少数精鋭で移動して、兵力は最大限に温存した。
そうすることで部隊は代わる代わる休息を取ることができたため、アリナの中隊はそれなりに士気が持続していた。
どんなに寒さに慣れているフィンランド軍とは言え、やはり極寒の中での作戦は体力と気力を消耗するものだ。コッラー川の西に抜けられれば後がないとわかっているからこそ、兵士たちは気力だけで戦線を支えている。
ごう、と音が空の上から響いた。
フィンランド空軍の古い複葉機が飛んでいくのが遠目に見えた。
「ブルドッグですね」
ブリステル・ブルドッグ。
一九三〇年代初頭のイギリス空軍の主力機だが、十年たった今でもフィンランドでは前線を飛ぶ戦闘機の一端として運用されている。ちなみに本国のイギリスではすでに引退してホーカー・ハリケーンにその座を明け渡した。
「あんなんでツポレフとかI-16に勝てるのかね」
「……一応フォッカーDもあるでしょう?」
冷静に分析するアリナに、アーッテラがフォローをいれれば、上官である女性はしかめつらしい顔をしたままで鼻を鳴らす。
「空戦でスピードが劣るってことは問題だと思うけど」
もっとも偵察だけならばなんとかなるかもしれない。
陸軍の人間であるアリナ・エーヴァは空軍のパイロットたちの熟練度をあまりよく理解していない。
風の噂では弟のエイノ・イルマリの操縦の手腕もなかなかのものであると聞いたことはあったが、それでも、弟だからこそ過大評価して、噂をそのままに受け入れる気にもなれない。
どういうわけか、彼女はエイノ・イルマリにはひどく厳しい面があって、優秀だと言われても本気で信じてはいない様子だった。
「戦場も知らないひよっこ」
それがエイノ・イルマリに対するアリナの評価だ。
「わたし、空戦やってる下で戦闘するの嫌いなんだよね」
「そりゃ誰でも嫌いだと思いますが……、爆弾降ってくるし」
「それは空戦じゃないでしょ」
爆撃は空戦じゃない、と言い切った彼女に対してアーッテラは「はぁ」と気のない返事をした。
確かに上空で空戦をしているとありとあらゆるものが降ってくる。
うっかり当たれば大被害だ。
「似たようなもんじゃないですか?」
「そうかな? だって、爆撃機のお仕事は地上を狙うことで戦闘機のお仕事は制空権の取り合いでしょ?」
制空権を制した側が戦場を制する。
九月から十月に行われたドイツとソ連らによるポーランド侵攻がそうだったように。
ドイツ軍は圧倒的なまでにドイツ空軍の戦闘機、爆撃機を投入して地上作戦を最大限に支援して、約一ヶ月に及ぶ戦闘の末、あっという間にポーランド第二共和国は陥落して地図の上からその国が消えた。
フィンランドの首脳陣のみならず、国民もそれを見てきている。
だからこそソ連の暴挙を受け入れるわけにはいかないのだ。
爆撃機の仕事と、戦闘機に仕事は似て非なるもの、だと、アリナは思っていた。
「とにかく、そろそろ奴らも本気でこっちを潰そうとしてくるだろうから、気合い入れ直さないとね」
胸の前で、パンッと右の拳を左手の平に打ち付けて、彼女が笑う。
天候が回復した。
それはフィンランドの兵士たちにとっても都合の良いことだったが、逆もまた同じことだ。この機に乗じて、赤軍は総攻撃を仕掛けてくるだろう。
それは容易に想像できて、アーッテラも無言のままで頷いた。




