5 イッルの祈り
「あなたは、どうして女性なのに兵士になったのですか?」
問いかけられて、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは静かに笑った。その問いかけに彼女は答えない。簡単に言うと、男ではないが暴れるのが好きだったからという理由だけだが、そんなことを口に出すわけもない。
目の前でメモをとっているのは従軍記者だ。確か、ヘイモ・ネストリ・マルヤーナと言っていたか。
余裕のある男だな、とアリナは思いながらショートカットを揺らして小首を傾げた。金色の髪と青い瞳、そして白皙の肌はどこから見ても北国の人間の持ち物で、そんな彼女の勇猛果敢な戦い振りに、誰もが目を奪われた。
特に戦功の優れた兵士を新聞の記事として扱うのは、戦時下にあって国民を鼓舞し、勇気づけるためには必要な事だった。
絶望的な暗闇の中に光を求める。
「女性が最前線で銃を持って戦うなど、どんなに勇気のあるロッタでもできないことでしょう? ユーティライネン中尉」
普段、彼女は部隊では「モロッコの恐怖」もしくは「姉さん」と呼ばれている。そのため「中尉」などと尊敬の念を込めて言われる事はそれほど多くはなく、彼女はこそばゆい思いに捕らわれた。
戦場で体をきれいに清める事もできないのは男も女も別はない。
アリナもまた黒く汚れた頬で笑ったままロッキングチェアにくつろぐように背中を預けた。
「わたしは、ロッタじゃありませんから」
ロッタではない。
自分は兵士である、と彼女は言った。
「ロッタは戦闘に参加しないでしょう? どんなに勇気があっても、彼女らはロッタなのです。わたしは、彼女らとは違ってロッタではありません。最前線で銃をとり、敵を薙ぎ倒し命を奪うのが仕事です」
まっすぐに記者の男を見つめて、彼女は言った。
「……ロッタにはいつも感謝しています」
静かな言葉。
「ロッタとして働いてくれる方達がいるから、我々兵士は敵だけを見つめていられるのです」
ロッタ・スヴァルト協会に感謝を伝えるアリナ・エーヴァのその言葉に、記者の男は柔らかく笑った。
フィンランドでは、男たちばかりではない。
女たちも子供たちも、ありとあらゆる形で戦っている。
その中で異端な女性の代名詞でもあるアリナ・エーヴァ・ユーティライネンは一部の女性陣たちからは信仰の対象のようになっていた。
それほどまでにアリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性はしなやかに強い。
「けれども、どうか真似などしてほしくないのです。わたしは、わたしに戦う力があるから戦っているだけ。無謀に銃をとってもそんなことは意味がないことで、勇気でもありません。直接敵を討つ力がないのならば、別の戦い方があるはずですから」
淡々とアリナが告げれば、ヘイモ・ネストリはメモをとりながら頷いた。
「無謀と、勇気は違う、と?」
「はい」
その言葉の裏に秘められるのは、フィンランドに住む女性たちを思いやる優しい気持ちだ。
アリナ・エーヴァは彼女らに、言外に伝える。
銃を握って戦う事ができるのは、そういった訓練を自分が受けているからだ、と。
誰でも戦えるわけではないのだと。
「そういえば、ユーティライネン中尉の弟さんは空軍のパイロットでしたが、もうすぐ空軍の方でも大規模な作戦が展開されるということですが、それについてどう思われますか?」
「……そうですね、まぁ、弟のことはともかく、空軍のほうのパイロットたちの腕を信じていますから」
地上からでは不可能なことも可能だろう。
そして、なによりも空軍の力が、ひいては自分たち陸軍の利益にもつながる。
「弟さんのことは心配じゃありませんか?」
「心配したところで意味のない事です」
仕方がない。
彼女の言葉にヘイモ・ネストリは一瞬だけ黙り込んだようだった。
「ですが……」
「弟も軍人です。フィンランドのために戦って死ねるなら本望でしょう」
「中尉も、そのようにお考えですか?」
「もしもそのためにわたしの命が必要なら、喜んで祖国の礎となりましょう」
祖国のために命を賭けて戦っているのだ。
激戦のさなかに命を落とすかも知れない。
その覚悟はとっくにできていた。
深くロッキングチェアに体を沈めながら、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは言う。とても最前線にいる軍人のそれには見えない。
揺り椅子がゆらりと揺れた。
力を抜いて疲弊した体を休めている。
ブーツをはいた足を組んだアリナ・エーヴァに部下のひとりが気を利かせたのかコーヒーを運んできた。彼女は前線指揮官であったが、誰よりも勇敢だ。
「ありがと」
礼を述べる彼女はほほえんでから金属製のカップを受け取った。
テーブルの上には分厚い手袋が重ねられておいてある。それを指先で撫でながらあまり美味ではないコーヒーに唇をつけた。
化粧もしていれば美人なのだが、いかんせんそこは最前線で化粧で美しく装う事などできるわけもない。どちらかと言えば、他の兵士たちと同様に薄汚れているほどだ。
そんな彼女の瞳は、どこか切なげで、そして優しげな光をたたえている。
「姉さん、取材もいいですが休んでくださいよ。あなたがいないと始まらない」
「わたしなんかいなくたって大丈夫でしょ」
コーヒーをいれてきた下士官に告げたアリナは人差し指の先で金髪をかき上げた。
「なに言ってんですか、姉さんがいないと俺らが困るんですから」
そう言いながら冷めてしまったスープを皿にいれて彼女の前にだされて、アリナは机の隅においてあった固いパンをその中につけるようにして柔らかくすると、顎に力をいれて噛みついた。
戦場で食事がまずいなどと文句を言えるわけもない。
正直なところ、空腹など感じていないが、それは単に神経が興奮しているだけの事だ。だから、それに騙されてはいけない。
「しっかり食って、しっかり寝てくださいよ」
「はいはい」
アーッテラといい、あんたたちといい口うるさいね。
ぼやくように告げた彼女は顔の前で手を振ってから吐息をついた。
「取材の続きはまたにしてくれる? 少し休みたい」
そう言ってから彼女はロッキングチェアに体を沈めたままで腕を目の上にあてると瞼を閉じた。
ややしてから控えめな寝息が聞こえてきて、そんな彼女に狙撃兵の下士官は毛布をかけてやってから、彼女の前のテーブルにある食べかけの乾パンとスープ皿を音も立てずにそっと離した。
「隊長はひとりで背負い込んでなんでも頑張っちゃうんで、少しそっとしておいてやってください」
ヘイモ・ネストリ・マルヤーナにそう語りかけた下士官は、彼にコーヒーを勧めてからアリナ・エーヴァのテントを出て行った。
眠る彼女は少しだけ疲れた顔をしている。
意識があるときは、味方を鼓舞し、決して疲れた表情など覗かせることがない彼女は、眠っているときだけは本当の素顔を見せる事ができるのかもしれない。
少なくとも、前線では。
「俺は姉さんが一番怖いぞ」
世界で一番誰が怖いか、と尋ねられれば、エイノ・イルマリは迷うことなく「姉さんだ」と答えるだろう、と思う。
友人にそう言ったのはいつだったろう。
おまえは何歳になっても姉ちゃんが怖いのか、と笑われたのを思い出した。
怖いものは怖いのだ。
十歳年上の姉は、子供の頃から容赦なく弟に対して暴力を振るった。もちろん、彼が怪我をするようなことにはならなかったが、どこからどう見ても普通の女の子とはわけが違った。姉は姉なりに弟が立派な男の子に育つ事を願っていたのだと、思いたい……。
「イッル、君の姉さん、コッラーの要所の指揮をとっているんだって?」
十二月に入ってからフィンランドの天候は悪化している。
特に、コッラー地方は二週間近く続いている雪の影響で航空支援もままならない状況が続いていた。もっとも、それは侵攻するソ連軍も同じことで、フィンランド軍のみがそういった状況に置かれているわけではない。
しかし、数の上では圧倒的にフィンランドを上回っているソ連軍に対して、航空支援が出せないという状況は充分に苛立ちを隠せない状況だった。
「……あぁ」
姉――アリナ・エーヴァはコッラー河の要所で防衛戦の指揮を執っている。
「モロッコの恐怖、かぁ……、確か、フランスの兵士だったんだっけか」
モロッコの恐怖。
そう呼ばれる女性、アリナ・エーヴァ・ユーティライネン中尉の伝説にも似た強さを彼らは一度は耳にする事があった。
「今はスオミの軍人だ」
フランスの兵士などではない。
訂正するエイノ・イルマリに僚友のパイロットは苦笑した。
「コッラーはすごい雪が降り続いてるらしいな」
その雪原を、アリナは部下を引き連れて守っている。
どんな思いで雪の中に立っているのだろう。
エイノ・イルマリはそんなことを思った。
「心配か?」
「別に……」
心配しているわけではない。
溜め息混じりのエイノ・イルマリの言葉に、低く笑い声を上げた。
「照れるなよ。この間来てたあれが姉さんだろ?」
招集された翌日、彼女は陸軍本部まで訪れてからその足で、エイノ・イルマリの兵舎に現れた。しかもはさみをもって、だ。
「結構美人だったじゃないか」
「俺、姉さんと喧嘩して勝ったことないんだよな」
「そんなに強いのか」
「陸戦のプロだからな」
紅茶をいれたカップを口に運んで、エイノ・イルマリは窓の外に降り続ける雪を見つめた。
早く雪がやめばいい。
そうすれば、戦闘を続ける陸軍の手助けをしてやることもできるというのに。
雲が重く垂れ込め、雪が降り続ける中ではそうもいかない。
空軍のパイロットの彼らには、天候まではどうすることもできなかった。
――姉さん。
祈るように彼は口の中でつぶやいた。
声には出さない。
――どうか、無事でいてほしいと。
天候が良くなって、自分達が大空を飛んでいければ、彼女らの手助けする事をできるというのに。今のエイノ・イルマリにはそれができない。
不意に、彼の手から紅茶の入ったカップが滑り落ちた。
「……っと」
思わず滑ったそれを受け止めようとしたが、それがままならずに派手な音を立てて床に転がる。
「おい、なにしてんだ」
言われて、エイノ・イルマリは目をみはる。
「イッル?」
呆然と、自分の手から滑り落ちたカップと、そして受け止め損ねた自分の手を交互に見つめて言葉を失っている青年に、僚友のパイロットは手を伸ばした。
「おい、大丈夫か?」
「……あ、いや」
こぼれ落ちたカップを拾い上げてエイノ・イルマリは頷いてから溜め息をつくと立ち上がった。
「外の空気を吸ってくる」
「風邪ひくなよ」
「わかってるさ」
外の世界はマイナス四〇度だ。けれども、風邪などひくわけがない。
扉を押した彼は雪の積もる風景を見つめていた。
「姉さん……」
なにかあったのではないかと、心に積もった不安を振り払うようにエイノ・イルマリはかぶりを振ると自分の手のひらを凝視する。
滑り落ちたカップが、姉の命のように感じられてぞっとした。
戦場で誰よりも強い姉が、倒れたのではないかといやな思いに捕らわれる。
どうか無事でいてほしいと、彼は祈った。
*
「姉さん! 失礼します!」
怒鳴るような男の声にアリナが飛び起きたのは眠りについてから数時間がたった頃だった。
「どうした」
呼び掛けられたのと同時に起き上がって毛布をはねのける。
そうして立ち上がりながら、アリナはきびきびとした動作でテーブルの上の手袋を取り上げて両手にはめると、ブーツをはいた足で踵を鳴らす。
「イワンの小隊がどうもあやしげな動きをしています。奇襲の用意をしているのではないかと副長が」
「わかった。で、アーッテラは?」
「シムナと偵察に出ています」
そう告げられて、アリナ・エーヴァは眉をひそめた。
「……急いで、アーッテラとシムナのところへ行って、早まるなと言ってこい」
「はっ」
アリナはコートの上から雪中迷彩を着込んでその上に革のベルトで機関短銃を背中に背負うように装備した。彼女の指示で集められたのは、第六中隊の中の一個小隊だ。小隊長はアールニ・ハロネンと言うベテランの狙撃手である。すぐにスキーをはいてテントの外に集まっていた彼らをアリナは見渡すと、顎をしゃくる。
「行くぞ」
平時よりも言葉使いがきつくなるのは、彼女が事態を重く見ている証拠だった。しかし、アリナ・エーヴァのそんな眼差しに臆する事もなく、彼女の部下は従ってスキーを滑らせた。
時刻は朝の三時にもならない。凍えるほど寒い暗がりの中を、スキーをはいて音もなく滑り出した。
まだ雪は降り続いていて、それがアリナを不安にさせる。
そもそも、ヘイヘにも寝ろと言ったはずだ。
苛立たしげに眉をひそめた彼女は、ちらと肩越しに部下達に視線を投げかけるのだった。