41 戦争の狭間
戦争とは残酷で、ありとあらゆるものを奪っていく。
戦時中に国民を鼓舞するために必要とされた「英雄」の存在に対して、彼女はひどくくだらないものであるように感じた。しかし、わかっているのだ。
英雄と呼ばれる存在はどうしても必要なのだ。特に戦況が明らかな劣勢に立たせられている時こそ必要になる。
戦争という暴風の中を駆け抜けるように生きてきて、そんなアリナ・エーヴァに求められたのは、希望の灯火として銃を握り、そうして旗をかざすことだった。
射撃場で地面に伏せた彼女は、狙撃銃を構えたまま丁寧に照準を合わせる。
戦場とは違い、的は動かない。
だから狙いがつけやすいと言っていいだろう。
正直なところ、アリナ・エーヴァは狙撃を苦手としている。
深く息をついて、心を静めた。スコープを外しているのは、かつて彼女の部下だったシモ・ヘイヘの真似だ。
――よくもまぁ。
アリナ・エーヴァは内心で嘆息する。
「シムナは天才だな」
苦く笑った。
もちろん、そんな言葉で簡単にすむような話しではない。彼のかつての上官であるアリナ・エーヴァによくわかっていた。「天才」という言葉ではすまないほど、ヘイヘが努力に努力を重ねていることを知っていた。
引き金を引くと同時に銃弾は動かない的に向かって射出され、外れるわけではないが的の真ん中とも言えない場所を撃ち抜いていく。
そんな自分の射撃の腕にアリナはひとつ息をついてから独白した。
「わたしには猟師は向いていないな」
銃を放り出す。
アリナ・エーヴァは地面に仰向けに転がると、大きく両腕を開くように投げ出すと青い空を流れていく白い雲を見上げて物思いに沈んだ。
彼女自身が自覚していることだが、いかんせん気が短すぎる。
北国の夏は暖かいが短く、冬はそうして暗く長い。もっとも、気候は地域によって大きく異なり、雪に覆われる期間は、南西部だと年に七十から百十日。東部では百六十から百九十日、北部では二百から二二〇日とまちまちだ。
春には洪水が起こり、初夏には霜が降り、様々な気候の変化に見舞われる。こういった変化は農作物の収穫に大きな被害をもたらした。
そんな厳しい自然に支配された土地。それがフィンランドだ。
こうした土地で生まれ育ったフィンランド人は、我慢強く不屈の回復力を持ち、そして勤勉であることが美徳とされたが、自分とはまるで正反対だとアリナは思った。
――女のくせになんでもできるんだな。
かつて、モロッコの戦場で銃の手入れをしていたアリナ・エーヴァの横に腰を下ろした上背の低いグルカ族の青年は、どこかあきれたような眼差しで彼女を見つめた。
彼は、シモ・ヘイヘよりもずっと身長が低かった。
アリナ・エーヴァが五フィート八インチの身長があるのに対して、グルカ族の青年――ヴィシュヌは四フィート八インチだった。
「器用貧乏なだけだよ」
ランプの明かりにナイフの刃を跳ね返している上背の低い男は、ちらと黒く輝く強い瞳で彼女を見つめてからフンと鼻を鳴らした。
「嘘つけ」
「本当だよ」
即答するように言葉を返したアリナ・エーヴァはそうして沈黙すると、手入れの終えた銃を傍らに押しやってから砂地の上に転がった。
「……なんでもできても、どれもひとつとして一流なんかじゃない。ただ、わたしは中途半端なだけだ」
テントの端でごろりと長身を横たえているアリナは、けれども、男たちと比べればそれほど大きなほうではなかった。もちろん、南方系の男たちと比べれば良い勝負だったが、そんなことを比べてみても意味などない。
体格で戦闘能力に優劣ができるわけではないことを彼女は知っていたから。
事実、当時彼女の相棒と呼ばれたのは、アリナ・エーヴァよりも一フィートも身長の低いグルカ族の青年と、彼女と同じ出身国のヴィサ・レフトだった。ふたりは体格だけ見れば正反対で、上背の低いヴィシュヌに対して、レフトはアリナよりも頭半分ほど大きかった。
射撃も、格闘も一流にはほど遠い。
それがアリナ・エーヴァの自覚だ。彼女は決して自分の能力を過信することはしなかったし、敵にしろ味方にしろ、相手の能力を侮ることもしなかった、
常に彼女は全力で敵に臨んできた。
だからこそ、生き残って来れたのだ。
戦争、あるいは戦いの場において、敵の能力と自分の能力を正確に把握するということは重要なことだった。
どちらを見誤っても、その向こう側にあるのは死と敗北だけだ。
「もしも、おまえが敵に捕まったときはどうする?」
「……男なら多少はまともに扱われるだろうけど、わたしは女だからねぇ」
野蛮な相手の捕虜になれば、身の安全など保障はされないだろう。
アリナは、ヴィシュヌの問いかけにつぶやくように応じながらテントの壁に顔を向けるようにして黙り込んだ。
「そのときは、自殺するかもね」
「なんだ、貴様なら図太く生き残りそうだが」
「……はっ」
男の言葉にアリナは肘をついて上半身を起こしながら、自分よりもずっと小柄なヴィシュヌを見つめた。
「その辺の強姦事件とは違うでしょ。死ぬまでまわされておしまいなら、その前に自分で自分の命の始末をつける」
捕虜に人権などない。
そして、アリナは自分がなによりも「女」であるということを理解していた。もしも、万が一捕虜になったらどうなるかもわかっていたのは他でもない、彼女自身だ。
「でも、むざむざ捕虜になるつもりはないけどね」
機嫌の悪そうな瞳を返したアリナはそうして再び横になると、そのまま体を丸めて目を閉じた。
ひとりではなかった。
戦いの中で、彼女はヴィシュヌとヴィサ・レフトに守られ、そうして彼らを守っていた。もちろん、同じ部隊の男たちのことも、であるが。
――あの三人……。ひとりが女だとはとても思えんな。
それが周囲の評価だった。
どんなに苦しい戦闘でも、彼らの息はぴったり合っていて厳しい任務も彼らに与えればほぼ完璧にこなしていた。
それ故に、彼らにつけられたのは「モロッコの恐怖」という異名だ。
「格闘はヴィシュヌに及ばない。射撃はシムナに及ばない……。ただ、わたしは幸運なだけだ」
たったそれだけ。
フィンランド陸軍の多くはアリナ・エーヴァが格闘を得意としていると思われているらしいが、彼女自身にその自覚は薄かった。かつて兵士として最も体力のあった時期に、誰よりも強い戦友を知っていたからというのもあっただろう。
彼と組み合うといつも負けてばかりだった。
自分よりも長身のヴィサ・レフトと組み手をしても互角以上の戦いができたというのに!
そんな友人を相手に彼女はいつも自分の技を磨いてきた。
殺人のための技を。
冬期の戦争は短いがそれなりに激戦で、かつてモロッコの砂地にいた頃の若い彼女の記憶を思い起こさせた。
モロッコの植民地戦争で、そしてつい先日終わった冬期の戦争で彼女は気心の知れた兵士たちも、そして仲間も、たくさん失った。
まるで熱く熱を持った鉄が冷めていくように、アリナ・エーヴァは徐々にその熱から解放されて「正気」を取り戻す。
戦場で、戦闘に飲み込まれるのは良い傾向とは思えない。
それを誰よりも知っていたのはアリナ・エーヴァだ。
いったい何人の兵士たちがまともな市民生活に戻れるだろう。
そこまで考えてから伸びかけた金髪が首筋に触れるうっとうしさにアリナはわずかに眉をひそめると、人の気配を感じて目を開いた。
「……ミカちゃん」
「傷はいいのか?」
「別になんでもないよ」
言いながら、体を起こすと彼女は地面に尻を着いて座ると、長い両腕で膝を抱えた。その膝の上に顎を乗せて首を傾げると、立って自分を見下ろしている男を見つめる。この男は敵に対しては容赦ないが、別段、平時に危険人物なわけではないことをアリナは知っていた。
「貴様が、頭を撃たれたときは、おまえの部下たちが泡を食ったそうじゃないか」
「そうなの?」
きょとんとした様子で彼を見上げているアリナに、男は溜め息をついてから隣に腰を下ろすと両脚を投げ出して空を仰いだ。
「なにせほとんど意識がなかったから覚えてないんだよね、どこ撃たれたのかもはっきり知らなかったし」
「なるほど」
まぁ、脳天ぶち抜かれればエヴァでも命はないだろうからな。
そう続けた男は、放り出されている銃とククリナイフに目を留めてから肩をすくめてみせた。
「結局、亡霊から離れられないんだな」
あきれた様子のミーカ・ヴァーラニエミにアリナは柔らかく笑うと、視線をナイフへと放る。
「いいんだよ、別に」
亡霊に取り憑かれたままでいいのだと彼女は言う。
「わたしは、きっと死ぬまでヴィシュヌのことは忘れられないし、ヴィシュヌのことを忘れたらわたしじゃないと思ってる。わたしは最後まで奴とともに戦い続けるつもりだから。それに、ヴィシュヌのことだけじゃない……」
彼女は友人の男に告げてから静かに笑った。
「わたしは、あいつらの戦った姿を忘れちゃいけない。いずれ数年もしないうちに戦った記憶なんて忘れ去られていくだろう……。だから、せめて”わたしたちだけ”でも覚えておいてやらないと」
若いながら勇敢に戦った兵士たちを忘れてはならない。
多くの犠牲の上に積み上げられた、薄いガラスを思わせる頼りない平和を。
「ミカちゃんは、この平和がずっと続くと思う?」
「……平和、か?」
世間は戦争に満ちあふれている。
フィンランド共和国とソビエト連邦の戦争は三月十三日に終わったが、その翌月には大ドイツ国がデンマークとノルウェーに侵攻した。
そしてさらに五月にはドイツによる西部侵攻が行われたのだ。
現在、状況としてはフランスが大きな苦難に直面している。
フィンランドにとっての戦争は終わったものの、世間は相変わらず不穏に染まっていた。
「……――少なくとも、スオミにとっては、ね」
三ヶ月に及ぶ冬の戦争で、フィンランド共和国は消耗しきった。
それでも、現在、多くの情報を収集しつつソビエト連邦との間にしかれた新たな国境に対して防衛線を構築している。
国防軍は戦争が終わったとは言え、忙しさは変わらない。
三月の末には、アメリカ合衆国から買い取った新型戦闘機の受領にベテランのパイロットたちが出発したほどだった。
「おまえはこのまま現役に復帰か?」
「そうだね、訓練もあるし」
面倒だけど仕方ないね。
からりと笑った彼女はそうして銃とナイフを手にしながら立ち上がった。それがアリナ・エーヴァのかわいげのなさとも言える。
決して誰かに頼ったりしない。
自分でできることを、全て自分でこなそうとする。
おそらく甘えることが苦手なのだろう。
「こないだ、コッラー戦友連盟っていうのを結成してね。みんな楽しそうでいいことだ」
灰色の軍服の襟元を指先で直した彼女は、ミーカ・ヴァーラニエミに片手を差し伸べながら彼を引き起こすとにこりと笑った。
その瞳は彼の友人としてのものではない。
コッラー戦線を支えたひとりの指揮官として、彼女はどこか誇らしげだ。
「そういえば、パロランピが忙しなかったな」
「いろいろパロランピに任せてるからねぇ。財政管理とか、わたしには無理だし」
コッラー戦線を戦った第十二師団を中心として、コッラー戦友連盟なるものが結成されたらしいというのは国防軍の間では比較的有名な話しだった。
そのコッラー戦友連盟の証しでもある、コッラー十字章が制作されているのだという。
「よくやるよね、あいつら」
アリナ・エーヴァの手にひかれて立ち上がったヴァーラニエミは、無造作に彼女の手から銃を奪うと肩に担いで歩きだす。
「誇らしげだな」
「……わたしの部隊は半分が消し飛んだけどね」
短くつぶやいた彼女はそうして声もなくほほえむと、かすかに目を細めてから、そうして視線を落とした。
「でも、あいつらがいたから、コッラーは持ちこたえることができたんだ」
ラドガ湖北方面の防衛線が突破されればどんな事態に陥るのかを彼女は知っていた。わかっていたから、なにがなんでも守らなければならなかった。
「そうだな」
第十二師団が決死の覚悟でコッラーの戦線を維持していたから、第十三師団はモッティの撃滅に力を注ぐことができ、カレリア地峡軍はマンネルヘイム線に集中することができた。また、スオムッサルミ方面の第九師団も同じだ。
第十二師団のおかげで、どの部隊も挟撃に対する気遣いをせずにすんだ。
たった一個師団で、彼らはソビエト連邦軍第八軍を受け止め続けたのである。
「貴様もいたからな」
「わたしなんて大したことはしてない」
「……――そういうことにしておいてやる」
なにか言いかけたミーカ・ヴァーラニエミは結局、別のことを口にして息をつくとアリナ・エーヴァの肩を乱暴に抱き寄せた。
「戻るぞ」
「はいはい」
フィンランド共和国を取り巻く状況はこれからもっと厳しいものになっていくだろう。けれども、今はつかの間の平和だとしても、彼らは戦争の狭間でようやく息を吐き出すのだった。




