40 長いお別れ
三月十三日午前十一時に終わった冬の戦争で、フィンランドは多くの痛手を被った。
国土の要所の喪失は、フィンランドにとって痛手でありそこにはなんと国民の十二パーセントが居住し、工業の十パーセントが存在していた。
しかし、ソビエト連邦割譲になるにあたり、フィンランド人の全てがソ連人になることを拒み、各地へと散っていった。結局の所、十一月三十日の開戦当時にソビエト連邦が謳っていたフィンランド解放戦争は、多くの森の熊や鹿などを解放するだけにとどまった。
この広大な無人地帯を埋めるために、ソビエト連邦政府が多くの人間を国内から移住させるに至ったことは言うまでもない。
三月の末、フィンランド国内では割譲された地域に住んでいた難民たちのための再定住法が施行されて、政府の音頭取りによって多くの人々が再び自宅を手にすることができた。
アリナもまたこの再定住法によって自宅を得たひとりだった。
四月七日。アリナはユホ・アーッテラの運転する車で野外礼拝の行われるレヘモを訪れていた。
青く広がる空の下に、アリナは黒いツバの広い帽子をかぶり、黒いドレスを身につけている。
第三四歩兵連隊の生き残りたち。
野外礼拝になる理由は単に教会に入りきらないから、という理由だけだ。
臨時で第二大隊の指揮官代理を務めることになったアリナ・エーヴァは生真面目な顔で前方を見つめている。
けれども、第六中隊の兵士たちは半分が戦死した。
重傷で動けない者も多いから、この礼拝にこれたのはごくわずかにとどまっている。アリナ・エーヴァの渋面の原因はそれだった。
喪に服する黒いドレスに、アーッテラはちらと視線を放った。
もともと長身のせいもあって、洋服が映えるのだ。バランスの良い体格と、無駄な肉の付いていない体の線のせいでモデルのようにも思わせた。筋肉の付いた腕は服のデザインで隠されており、実に優美に見える。
彼女自身、三月初旬の撤退戦の指揮を執った際に重傷を負っていたが、この頃にはだいぶ回復しつつあった。体力のある彼女のことだから、傷が塞がれば回復を望めるのだ。しかし、長く回復できずにいたのは、まず彼女の感染症と激戦による体力の消耗と、感染症の危機が去ってからも、時折暴れることがあったため着いた傷が開くということが何度かあったせいだった。
毛皮のコートを身につけている彼女は停止した車からそっと足をおろした。
エスコートするように腕を差し伸べたアーッテラに支えられるようにして、彼女はハンドバッグを手にしたままで立ち上がる。
「……隊長! ご無事で!」
「姉さん!」
叫ぶように自分を呼ぶ声にアリナは首を巡らせた。
そこにいるのは、第六中隊の部下たちだ。
この野外礼拝が終わればちりぢりになるだろう。
「姉さんが無事で良かったです……」
「姉さん、生きててくれて良かった」
無事で良かったと口々に繰り返す彼らをアリナ・エーヴァは見渡した。
部隊の全員の目の前で彼女は狙撃された。
倒れていくアリナ・エーヴァを全員が見ていたのだ。それでも尚、彼女は霞みがかった意識で部隊の指揮を執り続けていたことを、その場にいる全員が知っている。
戦中に共に戦った者たち――人数は三十名ほどしかいなかった。
アリナがかすかに帽子の下で眉をひそめた。
けれども兵士たちがそれに気がつく前に、彼女は一瞬で表情を改める。
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ、わたしが死ぬか」
多くの感情をばっさりと切り捨てるように言い切った彼女は、目の前で涙ぐんで鼻をこすっている自分の弟ほどの年齢の青年兵士の頭を強くひっぱたいた。
「しっかりしろ」
目の前の青年は農家の跡取りだ。
春の種まきの準備があるだろう。
雑な動作で黒い手袋を脱ぐと、彼女は渇いた音を立てて両手を打ち鳴らす。
「わたしはおまえたちをそんな腰抜けに育てた覚えはない。自分の頭で考えて、自分ができることをやれとわたしは言ったはずだ」
強い彼女の声に、第六中隊の面々ははっと我に返ったようだった。
彼女が彼らに求めた彼ら自身の役割を最後まで演じろと、アリナ・エーヴァは言っているのだ。
「整列!」
教会から椅子を運んできたユホ・アーッテラの声が響いた。
男の号令に、兵士たちが数秒でアリナ・エーヴァ・ユーティライネンの前で整列した。
「気をつけ!」
胸を張って直立不動の姿勢をとった兵士たちをアリナがいつものようにどこか冷たくも感じられる眼差しで見つめている。
戦時中は日常風景だった。
上官の様子を窺うようにユホ・アーッテラが、アリナを見つめると口元に柔らかい笑みを浮かべた彼女は胸の前で腕を組んだままひとつ咳払いをした。
「休め」
アリナの号令に、兵士たちは彼女に視線だけを向けた。
それを確認した女性指揮官はやれやれと言った様子で自分の首の後ろを撫でると、肩をすくめてから「楽にしろ」と言った。そうしてアーッテラの運んできた椅子に腰をおろした彼女は、じっと三分の一まで減ってしまった自分の兵士たちを凝視する。
長い沈黙だった。
感慨深げに彼らを見つめているアリナがなにを思っているのだろう、と多くの部下たちが思い始めたころ、アリナはうつむきがちに帽子の下で口を開いた。
「……よく戦ってくれた」
アリナは長い沈黙の後にそう告げた。
そうして続ける。
「ウリスマイネンの森で、わたしたちは最後の戦いに臨んだ。絶望的な状況にもかかわらず、誰も指揮官であるわたしの命令に脱落することもなく、戦いに臨んでくれた。今、こうして、わたしの話しを聞いてくれているおまえたちに、わたしはまず前線指揮官として礼を言う」
一拍おいて彼女は言葉を続けた。
「多くの仲間たちの命が失われた。もう知っていると思うが、あのうるさいティッティネンのおやっさんも死んだ。落ち着いたら、おやっさんの墓に顔を見せにいってやってくれ。きっと、おまえたちが生きていることを知って嬉しく思うだろう」
最初にヴィッレ・ティッティネンが亡くなったことに触れてから、彼女は長く息をついた。
アリナ・エーヴァはこうした話しをすることにひどく長けている。
「わたしたちはあの戦いで、最も偉大な功績を残した友人を失った。彼は最後の最後まで優秀で、仁勇に長け、素晴らしい男だった。あの時、状況は混乱していて、敵も味方も入り乱れ、自分の部隊の兵士も、余所の部隊の兵士もわからないそんな状況の中、シモ・ヘイヘは撃たれたんだ……」
アリナ・エーヴァの口ぶりに苦々しいものが乗った。
「ダムダム弾でな……、国際法で禁止されているにもかかわらず、だ!」
激しくなる彼女の口調に、第六中隊の面々がざわめきをもたらした。
彼らの脳裏には今、一ヶ月前の戦いが蘇っていただろう。
激しい森の中の戦闘に彼らは晒されていた。それでも絶望的な中に戦い続けたのはアリナ・エーヴァがそこにいたからだ。
「今でも、まだわたしには応急処置をされていたヘイヘの顔を忘れられない……。血にまみれて、意識がほとんどないっていうのに、彼はただただ申し訳なさそうにわたしを見ていた」
自分の腕の中で脱力していったシモ・ヘイヘの様子に、アリナの脳裏にはかつてモロッコの植民地戦争で共に戦ったヴィシュヌを思い出した。
あのときは、ヴィシュヌと共に意識がなかったからそんなことは覚えていない。
けれども、ヴィシュヌもそうだったのではないかと、アリナ・エーヴァの意識の淵になにかが蘇りかけた。
「マケ・ウオシッキネン中尉も、コッラーの戦線で死んだ……」
オリンピックにも出場した体操選手でもあるマケ・ウオシッキネンが戦争で死んだ。
鼻をすする音にユホ・アーッテラが首を回すと、そこには従軍牧師を務めたアンッティ・ランタマーと従軍記者のエリッキ・パロランピ中尉がそこにいた。
静かに響くアリナ・エーヴァ・ユーティライネンの話しに黙って耳を傾けている。
「わたしもあの戦いで重傷を負ったが、それでも覚えている。三月十三日の朝、我らの戦友であるグリゴリ・シニサロが死んだ時のことだ。奴の亡骸を持って帰ってやりたくても、忌々しいソ連軍の政治将校が迫っていて、それすらもできなかったんだ。シニサロは敵のただ中に置いてくるしかなかった……。彼の魂は、きっとスオミネイトの腕に抱かれて天へ召されるだろう」
アリナ・エーヴァの言葉はそこで途切れた。
すでにランタマーとパロランピが訪れていたことに気がついていたのか、アリナは座ったままの姿勢で男たちを見上げてふわりと笑う。
優しい笑顔だ。
その笑顔がまた、彼らの深く底のない悲しみを呼び起こした。
いつでもそうだった。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性は彼ら兵士たちにとって精神的な支柱になっていた。
誰よりも強靱で苛烈でありながら不器用な優しさを滲ませる彼女に多くの兵士たちがついていった。
「……大いなる出来事と、大いなる代償。我らの戦いは無駄ではなかった。我々が戦い抜いたからこそなるべくしてなるようになった。それが神の思し召しなのです。イエスの死は我らスオミに暮らす全ての兄弟たちの死を慰めるものでした。戦いは終わり、多くの死に我らは直面しましたが、神や兄弟たちの崇高な導きにより、我らの土地に再び平和がもたらされたのです」
アリナ・エーヴァの言葉に続けるように、アンッティ・J・ランタマーは言葉を続けた。牧師らしい穏やかな声に、兵士たちはうつむくと泣き声をこらえる。
大いなる出来事と、大いなる代償。
フィンランド人たちにとっての戦いはこうして全てが終わった。
*
五月の初旬の誰もいない教会。
イエス・キリストの像の前に跪いて両手を胸の前で組み合わせている女性がいる。
喪に服する黒いドレスと帽子。
教会を訪れるときの彼女のいつもの服装だ。
そうしてそんな彼女の斜め後ろに立っているのはやはり長身の青年で、全体的に色素の薄い彼は国防空軍の制服を身につけていた。
「手紙、受け取りました」
声が響く。
まだ包帯が完全にとれているわけでもない上背の低い男が教会の入り口に立っている。
シモ・ヘイヘがユヴァスキュラの病院に入院していると発覚したのは四月の下旬だった。部隊を代表して第三四歩兵連隊第六中隊の指揮官、アリナ・エーヴァが彼に手紙を綴った。そして、ヘイヘから返事がきたのはつい最近のことだ。
「遅い」
アリナの短い苦情に、ヘイヘは小さく苦笑する。
「申し訳ありません」
静かな声だ。
フィンランド国防空軍の飛行士を務める青年――エイノ・イルマリ・ユーティライネンが振り返ると、そこにはシモ・ヘイヘが立っていた。自分の背後にいる姉のアリナ・エーヴァが身じろぎもしていないのは気配でわかった。
「もっと早く連絡できれば、姉さんを心配させずにすんだのですが……」
静かに淡々とした声が響いて、アリナ・エーヴァはようやく立ち上がると、足音も立てずに振り返る。
逆光になった教会の入り口に立つ男を見つめて、やっと彼女は目元を和らげた。
「シムナ、おまえはわたしにとってかけがえのない、そして素晴らしい部下だった」
シモ・ヘイヘとアリナ・エーヴァの会話に、口を挟むこともできずに、エイノ・イルマリは事の成り行きを見守っている。
戦場で築かれたふたりの絆。
それからアリナは長い、とても長い沈黙を挟んで顔を上げる。
「シムナ……、ありがとう」
空気を振動させる音はやがて冷たい、しかし北国の遅い春の空気の中に消えていく。
そうしてからうつむいたアリナの肩がかすかに震えた。
「……姉さん」
そっとエイノ・イルマリが姉の肩に触れると、彼女の体は確かに震えていて彼は言葉もなく抱きしめる。
「それでも、ヴィシュヌは笑ってくれないんだ……」
涙も、嗚咽もなく、ただ昂ぶる感情のままに肩を震わせる姉をエイノ・イルマリは無言で抱きしめ、シモ・ヘイヘは午後の明るい日差しの下でやはり言葉もなく立ち尽くすしかできなかった。
ヘイヘにはわかっていた。
上背の低い自分が誰かに重ねられていることを。
彼女は、いったいどれだけ辛い喪失を続けていけばいいのだろう。けれども、悲しむべきことは、アリナ・エーヴァは精神を削り続けるような過酷な状況に自身を起きながら、そんな世界で生きていく事しかできないのだ。
モロッコの恐怖――そう呼ばれるアリナ・エーヴァは、確かに自分の心を痛め続けながら、そうすることでしか生きていけない。
悲しい戦士として、彼女は銃を手にし続けるのだろう……。




