4 魂の宿るもの
「……――で」
アーッテラが不機嫌そうな眼差しのまま、テント内の簡易テーブルに肘をついて問いかけた。
その様子はまるで訊問でもしているようだ。
「なにをやってきたんです?」
彼と彼女の前にはコーヒーのいれられたカップが置かれている。
どこか呆れたような表情のままで熱い湯で湿らされたタオルを差しだすと、アリナ・エーヴァは血液で固まってしまった前髪を軽く拭き取る。
「そんな怖い顔するともてないよ、ユホちゃん」
「もてなくて結構です」
素っ気なく応じたアーッテラは、とんとんとテーブルを指先で打つ。
しかし、そんなユホ・アーッテラの渋面にも慣れきっているアリナ・エーヴァはコーヒーカップを手に取ると熱いコーヒーをすすってから小さく肩をすくめてみせた。
「それで、なにやってきたんです?」
繰り返された質問にアリナはわざとらしい溜め息をつくと目の前に座っている副官を見つめた。
手元にあるナイフは人間の脂で艶を帯びていた。
「聞こえてきたた感じだと、戦車やってきたように聞こえましたけど」
「知ってるなら聞く必要ないんじゃない?」
「……一応、わたしはこれでもあなたの補佐なので、事態を把握しておく義務があるんですがね」
彼の剣のこもった声に動じる事もないアリナ・エーヴァは、ヒュウヒュウと聞こえる風の音に耳を傾けながら睫毛を伏せた。
「寝たふりしてもだめですからね」
「してないって」
よく見なくても、アリナ・エーヴァは傷だらけだ。
けれども、軍人である以上それは当たり前の事でそんなことにアーッテラは心を動かされたりはしない。いくら女性であったとしても、だ。
「そういえば、伝令のロッタが亡くなったそうです。ご存じですか?」
従軍しているのはなにも男性たちだけではない。
女性もそうだ。
もっとも、アリナ・エーヴァのように最前線で兵士たちを率いて戦う女性はいないが。
「うん、知ってる」
「そうですか」
短い言葉で情報を交換し合いながら、ふたりは時折なにかを考え込むように黙り込んだ。
「……そのロッタ、まだ十七歳だったって?」
「はい」
ロッタ。
ロッタ・スヴァルト協会という後方支援を主な任務としている女性たちによる軍の補助組織で、危険極まりない様々な任務に携わっていた。貧弱なフィンランド国防軍にとって、ロッタ・スヴァルト協会の存在は必要不可欠だ。
そのロッタ・スヴァルト協会には年若い少女達も存在していたのだ。
伝令や負傷兵の搬出、補給なども、ロッタの任務である。
「気の毒に」
ぽつりとアリナがつぶやいた。
そうして、もう一度コーヒーをすする。
「はい」
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンのように前線で戦っている女性はほとんどいない。ほとんどいないどころか、アリナのような女性前線指揮官がそもそも特別なのだ。
”モロッコの恐怖”と呼ばれた彼女の名前は飾りではない。
もっとも、アリナのような歴戦の猛者とも言える女性ばかりだったら、フィンランドの男は全員が女性恐怖症になるだろう。
まるで哀悼の意を示すようにアリナは黙り込んでから、コーヒーに視線を落とした彼女はややしてから、真面目な眼差しを副長の男に見つめて口を開いた。
別にアーッテラをからかって遊んでいるわけではない。
そんな余裕がないことは彼女にもわかっている。
「アカ共も、そろそろ同じ繰り返しで慣れてきてるだろうからね。ちょっと攪乱してきた」
なんでもないことのように告げた彼女に、アーッテラは目を細めた。
確かに、馬鹿みたいに前時代的な銃剣突撃を繰り返してくる赤軍だが、同じ繰り返しをすればするほど慣れてくるのは人の常で、それは戦場にあってもおなじことである。
だからこそ、同じ繰り返しでは決してないのだと、知らしめなければならない。
「まぁ、確かに、慣れてはくるでしょうな」
上官の言葉に頷いたアーッテラはそっと目を細めてから、しかし、と続けた。
「奴らにも狙撃兵はいるでしょう?」
「この間、ヨシフのおじさんのこと話したと思うけど、どうも、ヨシフのおじさんはまともに兵士たちに武器わたしてないみたいなんだよね」
「あちらさんは人数も多いですからね。ですが、大昔じゃあるまいし剣とナイフだけじゃ勝てませんよ? そんなことイワンもわかってるでしょうに」
「わかってたって、それを上に進言できる人間がいなきゃどうしようもないでしょ」
アリナ・エーヴァは上官にも臆することがない性格だ。そのせいで戦争がはじまる前は問題児扱いされているが。
それはさておき、優秀な将校の教育に力をいれるのはマンネルヘイム元帥の方針でもある。アリナ・エーヴァも”問題行動”さえなければ、充分に”優秀な将校”のひとりなのだ。
「……確かに」
いくら最新の兵器があったとしても、それを運用する人間が熟練していなければなににもならない。
扱うのはあくまで人間なのだ。
「ですが、数は脅威です」
「そう」
アリナはアーッテラに頷いた。
「……怖いのは奴らの数だ」
際限のない消耗戦に引きずり込まれればフィンランドは確実に劣勢に追い込まれる。そして、その先にあるのは緩やかな滅びだけだ。
それを、将軍たちだけではなく、前線指揮官たちも理解している。
「冬のうちに戦いを終わらせなければ、もっとひどいことになる」
戦闘を長引かせてはいけない。
アリナ・エーヴァの言葉に、アーッテラは悪寒を感じて頷いた。
ラドガカレリアの戦闘だけでも、フィンランド陸軍第四軍が相手にしているのはソ連は歩兵六個師団と一個装甲旅団を含めた第八軍。
その兵力差は四万人対十二万人だ。
どれだけの兵力差があるのか軍人でなくてもわかるだろう。
二個師団で六個師団半を相手にしなければならないという状況に陥っていた。
それでも、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンが見るところ、第十二師団はよくやっている。
「わたしはわたしができることをやるだけだ」
それでも、「よくやっている」だけではだめなのだ。
勝負とは、勝つか負けるか。
それしかない。
「あいつらもよくやってくれてる」
優しげに笑った彼女の瞳に、アーッテラは口元を緩める。
「それを部下に言ってやってください、姉さん」
「わかってるよ」
くすりと笑った彼女はそうしてアーッテラを見つめた。
「ユホちゃんも休んでおいて」
「了解しました」
コーヒーを飲み終わったアーッテラはそうして、上官のテントを出て行くと険しい光をたたえたままの瞳で雪の積もりはじめているあたりを見回した。
「ご苦労様です」
歩哨に立つ兵士の敬礼を受けて、やはり敬礼を返したアーッテラはそうして自分のテントへと戻っていく。アリナ・エーヴァは自分のテントで副官が休む事に対して嫌悪感を抱いたりはしないが、当のアーッテラ自身がそれをいやがった。
アリナが女性だから、という理由からではなく、単に彼女に毒されたくなかっただけだ。
「姉さん、怪我はありませんでしたか?」
アーッテラは尋ねられて苦笑いする。
「うちの姉さんが怪我なんてするわけないだろう。それよりヴァラントラのほうは大丈夫だったのか?」
「背中の皮がぺろっといっただけみたいですね。ただ、完治するまでは戦闘は無理だろうという事です」
「そうか」
軍医からは後ほどアリナに報告がいくだろう。
そうして改めて彼の帰還命令が出される事になる。
増援の小隊が到着するまでに、負傷者はなるべく最小限におさえなければならない。
隊長が自ら奇襲を加えたことは間違った判断ではなかったが、今はひとりの脱落も厳しいところだった。
「わかった」
溜め息をついた彼は、テントに戻って毛布を引き寄せると眠りへとついた。
「どうなってる?」
問いかけられて、シモ・ヘイヘは表情も動かさなければ、身じろぎもしない。
驚きもしないのは彼が今、ライフルを構えているからだ。
声をかけてきた上官に対して、文句のひとつも言わないが、それは彼女に文句がないからではない。
ただ、恐ろしいと思えるのはアリナ・エーヴァが驚くほど気配が感じられず、熟練の猟師であるヘイヘすら気がつかなかったほどだ。
例えるならば、野生の肉食獣。
声をかけられるまで気がつけなかった。
森の中に野営しているソ連軍の兵士たちに視線を滑らせて、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは小首を傾げた。
シモ・ヘイヘもそれほど重装備なわけではない。
サブマシンガンと狙撃銃。そして、ナイフを持っているだけだ。しかし、そんな彼と比べてもアリナは軽装備だ。
それこそ、ナイフを一本腰に刺しているだけだった。
「殺していいなら」
「構わない、やれ」
短く応じたヘイヘに、アリナは命令を下した。上官の命令に声に出して応じるわけでもなく、彼はボルトアクションライフルを構えて、引き金を引く。
冷静に、一発ずつ。
「寄ってくるのがいたら、始末してやるから心配いらない」
「はい」
万が一取りこぼしがいれば、始末する、とつぶやいた彼女に、シモ・ヘイヘは頷いた。彼とあまり年齢の変わらない女性将校は、兵士として実に豊富な経験を持っている。そして、熟練兵でありながら彼女はどんな敵も過小評価する事はない。
常に、自分を含めて、部下をひとりでも多く帰還させる事を考えている。
シモ・ヘイヘもそれをよく知っていた。
下士官や兵士たちが代わる代わる炊事当番で野菜を刻んでいるところに現れてはくだらない冗談を言いながらその仕事を手伝ったりする。
人徳がある、というよりは、人の心をつかむのがうまいのだろう。
腰に刺したナイフの持ち手に手袋をした指先で触れながら、アリナ・エーヴァが冷たい空気の中で瞬きをした。
雪がちらちらと降り出している。
十二月に入ってから、特に天候が悪化していた。
それは、期せずして劣勢に追い込まれていたフィンランド軍を手助けする形になった。なにせ、航空支援もほとんど望めないが、冬将軍の存在はソ連の航空支援部隊を寄せ付けずにいられた。
あっという間に降り積もっていく白銀の世界。
その中に、雪中迷彩の彼らは紛れ込む。
鋭い音をたてて、ライフルが火を噴いた。
同時に、百メートルほど先にいる赤軍兵士が声も立てずに倒れ込む。
「スナイパーがいるぞ!」
ロシア語の叫び声が響いた。
それと同時に、言葉を放った男もそのまま頭を撃ち抜かれて雪の上に倒れた。どこから銃弾が飛んでくるのかと、動揺しているソ連兵士たちを次々と撃ち殺していくヘイヘの様子は普段と何も変わらない。
ぴくりとも表情を動かさずに、ただ、冷静にターゲットに狙いを定めて引き金を引く。それだけの作業を繰り返す。
そんな部下の狙撃兵を見つめて、アリナ・エーヴァはやれやれと首を振った。
自分の出る幕などない。
やはり、彼は天才だ。
彼の手によってあっという間に一個小隊が全滅させられた。ライフルを置いたシモ・ヘイヘは、ふと物陰に潜んでいたらしい政治将校を見つけて銃を構え直す。
けれども次の瞬間、彼の隣に身を伏せていたアリナ・エーヴァが立ち上がったかと思うとヘイヘのサブマシンガンを取り上げるとそのまま引き金を引いた。
男の頭に正確に、文字通り吹き飛ばした。
相手に逃げる隙も与えない。
連続した渇いた音に、ヘイヘが眉をひそめるとややしてから軽機関銃の引き金から手を離した彼女は、息を吐き出すと銃をおろす。
「副長が心配しますよ、中尉殿」
「アーッテラが心配なんかするわけないじゃん」
アーッテラはそれなりに長いつきあいになる。
たびたび、基地を訪れては一般の兵士と混じって訓練を受けていたアリナ・エーヴァとは一九三九年以前から交流があった。
それ故に気心知れた仲とも言える。
「あいつ、他の女の子にはへらへら優しいくせに、わたしにはちっとも優しくないからね!」
フンと鼻を鳴らした彼女にヘイヘは吹き出した。
「まぁ、姉さんは男前ですからね」
赤軍の小隊を全滅させた彼らは、辺りに散らばっている兵器を眺めてからスキーで近づいた。
「弾は持って帰りましょう、銃とかは後で人をよこせばいいかと思いますが……」
鹵獲しようというヘイヘの提案に、アリナはブーツの爪先で大男の死体をひっくり返してから腰にある拳銃を吊したホルスターを引っこ抜く。
「そうだね」
凍らないうちはコートやブーツなども持って帰る事ができる。
これは早くアーッテラに報せなければならないな、と考えながら、アリナは冷たい空気の中でもう一度睫毛を揺らした。
「とりあえず、帰ってコーヒーブレイクでもしようか」
ライフルの弾を抜いているヘイヘに声をかけると、彼は背中に背負ったリュックにそれらの鹵獲品を詰めてから立ち上がる。
「歩哨を交代してゆっくり休んでくれ」
「姉さんは休まないんですか?」
「休むよ。けど、さっき、奇襲かけたときに戦況もろくに確認しなかったからね。一応、情報を集めとこうかと思ってさ」
口ではそんなことを言っているが、歩哨をしているヘイヘのところまでわざわざ来たのだから、そんな理由ではないのだろう。
「嘘ばっかり言ってないでください。単に、おもしろがってるだけでしょう」
「ばれたか」
ぺろりと舌を出して笑った女性に、ヘイヘは肩をすくめてみせた。
「ところで、そのナイフ、なんて言うんですっけ?」
「これ?」
流線の美しい白いナイフを見やったヘイヘが顎をしゃくると、アリナは長いナイフを引き抜いてから淡い光にその刃を煌めかせてから彼を見つめる。
人を殺す事に特化した頑強なナイフで内反りが印象的だ。
「ククリって言うんだよ」
「へぇ、いいナイフですね」
「モロッコにいたときにさ、戦友がくれたんだ」
ククリナイフ。
一般的にはグルカナイフとも呼ばれる。
アリナはヘイヘににっこりと笑った。
「そりゃまた……」
「ま、これくれた奴はもう死んだけどね」
なんでもないことのようにつぶやいた彼女の表情は揺らぎもしない。なにを考えているのだろう。
「武器に、前に持っていた人の魂が宿るとか、思いますか?」
問いかけられて、アリナ・エーヴァはひどく意外そうな瞳でヘイヘを凝視した。彼がそんなことを言うとは思っていなかったようだ。
「……無機物だよ、武器は」
ややしてからぽつりと告げた彼女に、上背の低い男はぺこりと頭を下げた。
そのときだった。
ヒュッと音が鳴ってアリナの手首が翻る。
手に握っていたククリが勢いをつけて投げつけられたと思った次の瞬間に、暗がりから男の低い悲鳴が聞こえた。
次に聞こえてきた音は、雪の中に崩れ落ちただろう柔らかな音だ。
「生き残りか」
ナイフは見事に赤軍兵士の額を貫いていた。
雪の中に倒れ込んだ赤軍兵士の死体に歩み寄って、そうしてナイフを引き抜きながら、アリナはわずかに目を細めた。
「こいつ、もしかしたらソ連の人間じゃないかもしれないね」
「……――どういうことです?」
「いや、なんでもない」
アリナはそうして、ナイフを男から引き抜きながらその軍服を指先でめくると吐息をついた。
階級章も、所属もない。
もしかしたら、という思いにアリナ・エーヴァ・ユーティライネンは捕らわれるのだった。