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39 訃報

 兵士たちには休暇が与えられたが、第六中隊の指揮官代理を務めているユホ・アーッテラには休暇をとっている暇がなかった。

 なにせ、三月六日の撤退の際の被害が尋常ではなかったためだ。

「ソ連の奴らが、コッラーで捕虜にした千人を返還してくれるそうだよ、ユホちゃん」

 響いた明るい声に、ユホ・アーッテラは机の上の書類を睨んでいた目を上げてから、声の主を見直した。

 彼をユホちゃん、などと呼ぶのは後にも先にもひとりしかいない。

 そもそも、大柄で屈強な職業軍人である彼に対して、どこをどうすればかわいらしい女の子のような呼び方などできるものか。

「……隊長」

 基地内の下士官を捕まえたのだろう。

 肩を貸されるようにして歩くユホ・アーッテラの上官――大尉に昇進したばかりのアリナ・エーヴァ・ユーティライネンが杖をつきながら、仮に与えられた仕事部屋の入り口に立っている。

「……――っ」

 傷は大丈夫なんですか、と彼は問いかけようとして、そもそも大丈夫なわけがないという事実に行き着いて言葉を飲み込んだ。そしてなにかを言わなければならないという義務感にかられながら視線を彷徨わせていると、アリナ・エーヴァは静かに笑ってからアーッテラの肩に手をついた。

 肩を貸してくれた下士官に手を振って告げる。

「助かったよ、すまないね」

「では、失礼いたします」

 敬礼をしてふたりの前を辞した下士官を見送ってからアリナは、全身から力を抜いてアーッテラに寄りかかる。

「姉さん……」

「ティッティネン中佐が、亡くなったって?」

 職業軍人としてきっちりと筋肉の付いた彼女の体は、その辺にいる女性達のようにどこもかしこも柔らかいわけでもなければ、軽くもない。しかし、ふたりの間には明らかな体格差が存在していたから、アーッテラはアリナの体を片手で受け止めた。

「はい、ご存じでしたか」

「ハッグルンド将軍に聞いたよ」

「そうですか」

 コッラー戦線を戦い抜いたヴィッレ・ティッティネン中佐は、戦中に体調を悪化させて二月の半ばには後任をヴィルッキ中佐に任せて後方へと退いた。ほとんど睡眠もとらずに前線で戦い続けたティッティネンは過労によって戦争が終わってから帰らぬ人となった。

「姉さんが、頭を撃たれたときはもうダメかと思いました……」

 溜め息のような副官の声に、アリナ・エーヴァはわずかに首をかしげる。

「かすっただけだよ」

 頭部を狙撃されればさすがのアリナだとて命はない。しかし、九死に一生を得たのは運が良かったからだろう。

 かろうじて弾道がそれて、アリナの頭皮をえぐっただけですんだ。

 それでも立ち上がった彼女に、狙撃兵は今度は心臓を狙ったのだろう。

「敵がシムナだったら、わたしは命がなかったね」

 冗談でも言うように笑った彼女に、アーッテラが眉をしかめた。

「笑い事じゃありませんよ、姉さん」

「わかってるよ、笑い事じゃない……」

 戦のヴィッレと恐れられたティッティネンが死んだことは、第三四歩兵連隊に所属していた兵士たちの心を強く抉った。気難しく堅物のティッティネンはそれでも腕の良い指揮官だった。

 彼が率いていたから、第三四連隊は戦い続けることができたのである。

「ユホちゃん、悪いけど、立ってるのがつらいんだ。座らせてくれないかな?」

 アリナ・エーヴァの控えめな申し出に、彼女の腰を支えていたユホ・アーッテラは慌てた様子で彼女をソファへと導いた。

「気がつきませんで、申し訳ありません」

「ん、いいよ。いつも、ユホちゃんには病院まで仕事を持ってきてもらってたからね。書類があるなら出してくれれば見るから」

 ソファのはしに杖をたてかけた彼女の顔色はそれほど良くはない。

 しかし、傷を押してまで仕事をしに現れたのだ。

 本来であれば彼女を支える副官として叱咤しなければならないところなのだろうが、それにしたところで、ユホ・アーッテラの処理能力を当に越えていたから、アリナが訪れてくれたことは大変ありがたかった。

「姉さん、知ってますか? 第三四連隊のことです」

「知ってるよ、四月の頭に解体が決まってるらしいね」

 やむを得ないことだ。

 戦争が終われば志願兵たちは動員を解除される。

「姉さん、俺は……」

 ユホ・アーッテラが言いよどんだ。

「俺は、姉さんが戦うところにはどこへでもついていきます」

「いらないよ」

 重たい……。

 人の命が重い。

 アリナは書類に視線を落としながら長い睫毛を揺らす。

「姉さん!」

「……なに? ユホちゃん」

 どん、と音を立ててテーブルに手をついた彼に、顔を上げてほほえんだアリナ・エーヴァはじっと彼の色素の薄い瞳を見つめてから金色の伸びかけた髪をかきあげた。

「隊長、俺は本気でそう思っているんです。あなたと共にあって、あなたと共に戦いたいと。隊長が、ヴィシュヌのことを引きずっているのも知っています。それでも、俺は、隊長と共に最後まで戦うと決めました」

 隊長。

 その言葉に、アリナはかすかに笑った。

 その瞬間だ。

 不意にアリナの長い腕が伸びて腰にさげたククリナイフを引き抜いて、テーブルを挟んで目の前にいる男の胸ぐらを掴む。そのまま一気にテーブル上に引き倒すと、アリナ・エーヴァはそののど笛にククリナイフをつきつけた。

 ユホ・アーッテラも完全に油断していたため抵抗などできなかった。

 鈍い音をたてて、テーブルにたたきつけられることになったアーッテラは思わずその衝撃にうめき声を上げると一瞬、目をつむる。

「アーッテラ、わたしはそんなにできた指揮官じゃない。なにを勘違いしてんだか知らないけど、こんな暴力女についてきたっていいことはないよ。待ってるのは地獄への特急列車だけだ」

 自分が人間として優秀なほうではないことをアリナ・エーヴァは理解している。だからこんな自分についてくるべきではないと、ユホ・アーッテラに対して彼女は告げた。

「……それでも!」

 ナイフを押しつけられ、上から押さえ込まれた姿勢で、アーッテラは怒鳴りつけるように声を張り上げる。

「俺は神に誓った……っ!」

 強い瞳で彼女を見つめる彼に、アリナ・エーヴァはわずかに逡巡するように視線をさまよわせてから両目を瞬かせた。まるで泣くのをこらえてでもいるかのようにも見えた。

 ふとアーッテラを押さえつけるアリナの手の力が弱くなった。

 眉をしかめて痛みをこらえるように体を丸める。

 床に放り出されたナイフが重い音を立ててまっすぐ床板に付き立った。

「姉さん……っ!」

「……大丈夫」

 額には脂汗が滲んでおり、仕事をはじめてからそんな様子をつゆほども見せなかった彼女が実は体に負担をかけていたことを感じさせられた。

 よくよく見れば、灰色の軍服の上に濃い円形の染みが浮かんでいる。

 出血だった。

 杖をついたり、歩いたりといった行動は思いもよらず彼女の体に負担をかけていたのだろう。

「四月七日に野外礼拝をやることは聞いてる。それまでに、中隊の被害状況を割り出さないとな」

 第六中隊長、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンが三月六日に受けたのは銃創だけではない。白兵戦によっていくつもの傷があった。

 中には、縫合しなければならないような傷もあったはずだ。

 そんな体で、最後の戦場を戦い抜き、そうして撤退の指揮を執り続けていた。

「アーッテラ、おまえにはいつも迷惑ばかりかける」

 アーッテラを押さえつけたことによって、走った激しい痛みがしばらくしてからようやくひいたのか、アリナはソファに背中を預けると深く深呼吸を繰り返す。

 胸に浮かんでいる血液の染みはしだいに広がっているが、アリナは痛いという泣き言すら言わない。そんな気丈に振る舞う上官の様子に、アーッテラは溜め息をついた。

 彼女は大の男でも泣き叫ぶような傷を受けながら、苦痛も訴えずに部隊を率い続けた。自分が泣き叫べば部隊の兵士たちが動揺することを知っていたためだろう。

「医師を呼んできます」

「悪いね」

 荒い呼吸をつきながらアリナがほほえんだ。

 シモ・ヘイヘの行方はまだ知れない。

 たぶん彼は死んでしまったのではないか、それがユホ・アーッテラの言葉だった。コッラーの戦線では多くの犠牲が伴った。

 傷を負った者も多く、中には一生、障害を残すだろうと思われるような傷を受けた者も多い。もしくは彼女たちが最前線で戦っている間に、病院で死んだかも知れない。

 アリナ・エーヴァは胸を押さえたままで痛みをこらえると、前方に崩れ落ちるようにソファに横倒しになると額をシートに押しつける。

「……結構痛いな」

 苦笑いしてから独白した彼女は、そうしてアーッテラが軍医を連れて戻るのを待つのだった。

 じわじわと出血によって染みが広がっているのがわかる。

 病院にいたときは、安静にしていたからそんなことはなかったが、やはり通常の生活というのは体に負担をかけるものだ。



 兵舎に戻ったアリナの包帯が新しいものに変わっていることに気がついたのは、同じ兵舎に住んでいたミーカ・ヴァーラニエミだ。

「暴れるならもう一度病院送りにしてやろうか?」

「暴れてないよ……」

 痛みに目をしかめながら応じる彼女に、不機嫌な顔をしたヴァーラニエミは目を細めてから、彼女の肩を大きな手のひらでつかむと強く指を食い込ませた。

 そこは傷こそないものの、腫れ上がっているため捕まれるとそれなりに痛みを感じる。

「ちょっ、勘弁してよ……」

 杖をついている身では男の手から逃れることもできない彼女は、苦痛に顔を歪めながら抗議の声を上げれば、男は今度はその手を額に当てた。

「やっぱり熱が上がったか。だいたい退院したばかりで朝八時から夜九時まで仕事に没頭するなんて狂気の沙汰だ」

 乱暴な男の声に、アリナは肩をすくめると杖をついていた右手を軽く挙げてから男の手を振り払う。しかし雪と氷で滑りやすくなっている床板を杖もなしに体を支えるのはひどく難しくて、支えを失った体は兵舎の廊下でよろめいた。

「飯は食ったのか」

「ユホちゃんと、基地で食べてきたよ」

「ならとっとと寝ろ」

 倒れかけるアリナ・エーヴァの体を乱暴に支えた男は、ひきずるようにして彼女を寝室へと連れて行く。しばらくしてから湯で暖かく濡らしたタオルを彼女に持って行ってやると、アリナはひどく疲労していたのか、ベッドに突っ伏すようにして眠っていた。

「俺はな、おまえの外人部隊での頃のことなんて知らねーからな……」

 青ざめた顔に張り付いた金髪をかき上げてやりながら、ミーカ・ヴァーラニエミは友人の疲れ切った寝顔を見下ろした。

 強靱(つよ)い彼女しか知らない。

 しかし、どんなに歴戦の猛者と言われていても、人間なのだ。

 当たり前のように体力は消耗するし、当たり前のように心を傷つける。それはミーカ・ヴァーラニエミ自身も、そしてアリナ・エーヴァ・ユーティライネンの戦友のひとりであるヴィサ・レフトも同じだった。

おやすみ(ウオタ)……」

 それでも、ぼろぼろになるまで戦い続けた友人をからかうような、ヴァーラニエミではない。

 しばらくの沈黙の後、ヴァーラニエミはアリナの耳に囁いた。

 コッラーの戦線で、彼女の部隊はソ連軍の攻撃を一心に受け止め、盾となり矛となりフィンランドの壁となり続けた。そして、アリナ・エーヴァ自身もその過酷な戦いの中で傷つき、最後の最後に倒れたのだった。

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