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37 亡霊

 声が聞こえた。

 開け放たれた扉の部屋からとうとうと聞こえてくるのは深く低い男の声だった。いつものように、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンの病室に、報告のために訪れたユホ・アーッテラは足を止める。

 部屋に入ろうとして、彼は思わず立ち止まった。

 入るのをやめたのではない。

 入れなかった、と言えば正しいだろう。

 アリナ・エーヴァのベッドの傍らの椅子に座っている男は、ユホ・アーッテラが訪れたことに気がついたようだが、視線をやっただけで話を続けるのをやめることはせずに寝台に横になって窓の外を見つめている彼女の肩を見つめる。

 男の声が静かに空気を振動させていた。

 聞いているのかいないのか。

 起きているのか眠っているのか。それすらも傍目にはわかりかねる相手に男は静かに話しかけている。互いが互いに対して言葉を返さなくても、相手のことを完全に理解している。

 それがアリナ・エーヴァ・ユーティライネンとミーカ・ヴァーラニエミの距離感だった。似た者同士であるが故に、互いを深く理解しすぎている。

 決して互いを気遣ったりはしない。

 決して互いに同情したりはしない。

 男女の友人同士と言うよりは、まるで気心のしれたライバルのような存在。

 深く響く戦友の声が心地よくてアリナは安らいだ様子で瞼を閉じた。ふたりの間にあるのは、互いが互いを守りきれる程強いという絶対の信頼だ。もしも、アリナ・エーヴァに殺伐とした暴力の世界で安らいだ表情をさせることができる相手がいるとすれば、それはミーカ・ヴァーラニエミとヴィサ・レフトしかいないだろう。

 開け放たれた病室の扉から漏れる男の声を聞きながら、ユホ・アーッテラは廊下の壁に背中を預けたままで床に座り込むと膝の上に頭を抱えて目を閉じる。

 無力感などからではなく。

 アリナ・エーヴァと男たち――ミーカ・ヴァーラニエミらを巡る関係には決して割り込む余地がないのだと実感させられるからだ。

 それほどまでに、穏やかな時間と空気感。


 停戦発効の直前、ミーカ・ヴァーラニエミは第十三師団にいて相も変わらず一個中隊を率いてキティラ、レメッティ方面で激戦を繰り広げていた。

 その日の反撃は朝からいつにも増して激しく、まるで全て残されていた弾薬を使い切ってしまおうとでもしているかのように思われた。

 そんな銃弾と砲弾の嵐に、ヴァーラニエミはいつものように対峙していた。鋭く舌打ちした彼はいつものように仏頂面で機関短銃を抱えている副官の青年を見やって、もう一度舌打ちした。

「姉さんならこんな時どうあってもなんとかしてくれるでしょうに」

 ぼそりと呟いたイスモ・アラルースアの頭に鉄拳をたたき落としてから塹壕から目から上だけを出して辺りを窺った。

「クソアマでも無理だろうよ」

「姉さんのことをクソアマって言うのやめてもらえませんか? 大尉」

「馬鹿野郎、あの女が呼ばれ方なんぞいちいち気にするか。それにあんな戦闘狂、クソアマで充分だ」

 アリナ・エーヴァの周囲には奇妙な信者が多いが、それは彼女が「女性」だからではないだろう。

 モロッコの恐怖。

 そう呼ばれる英雄だからだ。

「英雄、か……」

 タバコに火をつけながら、ヘルメットを押さえたヴァーラニエミは片目を細めてから、自分から数フィート離れたところに炸裂した砲弾に身を縮めた。

 悪いことに、兵士がひとりその直撃を受けて肉の塊になってしまった。

「……野郎っ」

 悪態をつきながら機関銃を構えると、顔を出していたソ連軍兵士の頭を蜂の巣にした。停戦発効を目前にして、敵も味方も死んでいく。

 本当に、今日のこの日で戦争が終わるのかと疑いたくなるような状況だった。空にはいつものように爆撃機が飛んでいて空爆を続けている。

 忌々しい爆撃機に対して、フィンランド空軍の迎撃機は飛んでこない。

 なぜか?

 フィンランド空軍の戦闘機隊は、カレリア地峡に集結させられて、ヘルシンキに侵攻しようとするソビエト連邦軍の迎撃にあたっていたからだ。

 フィンランド軍の士気は高い。

 しかし、中隊長として中隊をを率いているヴァーラニエミにはわかっていた。フィンランドに、これ以上後がないということを。

 士気が高いだけではだめだ。

 それだけでは戦争に勝つことなどできはしない。

 激しい戦闘がそれからしばらく続いた。

 目の前で何人もの兵士たちが倒れていった。それでも、戦闘は終わらない。

 あと一時間、あと三十分。

 あと十五分。

 戦争はもうすぐ終わるのだというのに……。

 銃弾の嵐だ。

 そして、一九四〇年三月十三日午前十一時に銃撃戦が終わった。


 唐突に。

 ソ連軍の陣地からは歓声のような笑い声すら聞こえてきた。

 おそらく、無理矢理徴用された兵士たちだったのだろう。

 生きて帰れる、と。

 戦争が終わったのだと。

 けれども、負けたフィンランド共和国側にとっては、ソビエト連邦の事情などまさにどうでも良いことだった。

 負けたのだ。

 講和条約を受け入れて、負けた。その場にあるのは失意と落胆と、絶望。重苦しい沈黙だった。

 ――まだ戦えたのに、と。



「エヴァ、まだ起きているか?」

「……」

 アリナは尋ねられて、片手を軽く上げると「聞いている」と態度で示してから、そうして首を回すと枕の上で頭を男に向けて青い瞳でじっと彼を凝視した。

「そんなこと、聞かなくてもミーカならわかるでしょ」

「いやな女だな」

 機嫌の悪そうな彼の声に、アリナはふわりと笑うと金色の髪を指先に絡めて天井を見上げる。

 静かな空間だった。

「……アラルースアは、元気にしてる?」

「あいつは、おまえに会うまでは死なんと頑張っていたぞ」

「そう……」

 わずかに首を傾げてから再びじっと彼を見つめた。ひどく穏やかな瞳で、これが歴戦の猛者なのかと思わせるほどの静寂をたたえている。

 まるで波が寄せるように彼女に正気が戻ってくる。

 そんなミーカ・ヴァーラニエミの目線の先に、サイドテーブルに置かれたククリナイフに目が止まった。

 大振りなナイフで、彼女と長く共にあった殺人のための道具だ。

「おい」

「なに?」

「そろそろ亡霊に縋るのはやめたらどうだ」

 低く脅しつけるようにヴァーラニエミが言うと、アリナのナイフを片手でとると、それを手の中で弄ぶ。

「……ミーカ」

 亡霊に縋るのをやめたらどうだ、とヴァーラニエミに言われてアリナ・エーヴァの顔色が変わった。ベッドに肘を突いて上半身を起こしたアリナは、眉間を寄せて男を睨み付けた。

「それに触るな」

 ベッドに横になったままの彼女が、腕を伸ばしてナイフを取りあげようとすると男は大きく腕を振りかぶって、片腕でまだ負傷していてろくに動くこともできないだろうアリナの肩を押さえつけると、そのまま彼女の体に全身でのしかかって喉笛にククリの刃を押しつけた。

「動くなよ」

「動くなって言われて、動かない馬鹿がいるか」

 男の短い命令にアリナは枕の下を片手で探ると、愛銃の銃口をヴァーラニエミの額へとためらいもなく押しつける。

 首の皮からぴりりとした痛みが走って、ヴァーラニエミが押しつけたナイフによって、首の薄皮が裂かれた感触が伝わってきた。もっとも、そんなもの怪我のうちにも入らないと認識しているアリナ・エーヴァは動じない。

「亡霊なんぞ、どれだけ思っても戻ってはこないぞ」

 ――亡霊。

 その言葉に、アリナは眉をひそめた。

「……――貴様には関係ない」

 ばっさりと男の言葉を一刀両断した彼女は、ナイフを握る男の手首を掴んだ。一方の男のほうも、彼女の銃を持つ手首を押さえつける。

「ナイフを返せ」

 ぎろりとヴァーラニエミを見据えたアリナは低くどすのきいた声で命じた。がちりと音がして、撃鉄がおろされたが、しかしミーカ・ヴァーラニエミも動じない。

 アリナと彼の関係とはそういうものだったからだ。

「……亡霊に縋るな。貴様はそんなに弱くはないはずだ」

 一部始終を目の当たりにしているというのに、ユホ・アーッテラは動けない。身じろぎでもすれば、もしかしたら互いが互いを殺すのではないだろうかとすら思ったからだ。

 そんなわけはないとわかっていたというのに。

「黙れ……っ!」

 アリナ・エーヴァが思い切り手にした銃で男の頬を殴りつけた。

 弱った腕のどこにそれだけの力が残されていたというのだろうと思えるほど、強い殴打だった。そのままベッドから飛び降りたアリナが、男が体勢を立て直す前に、右の手首を思い切り踏みつけると怒りに満ちた表情のまま、その顔に銃口を突きつけ、照準を正確に合わせた。

「殺してやる……」

 激情に駆られてアリナ・エーヴァは銃の引き金にかけた指先に力をこめる。

 気性の激しい女性。

「……姉さん(シス)、やめてください」

 このままでは病院内で騒ぎになってしまう。両名にそんなつもりがなかったとしても、知らない者が見れば殺し合いに発展しそうな喧嘩にも見える。

 そんなユホ・アーッテラの声に、アリナははたと我に返ったようだった。

 今、自分はなにをしていたのかと。

「――……ユホちゃん、ミカちゃん」

 つぶやくように彼らの名前を呼んでから、アリナは長い溜め息をつくと床に転がったククリナイフを拾い上げる。そうして、ヴァーラニエミに手を差し伸べて引き起こそうとしたアリナ・エーヴァの体が不意に傾いだ。

「騒ぎになる前で良かったな」

 ふたりにとって、こんなじゃれ合いは日常ごとだ。

 胸を押さえて倒れ込んだアリナは、服の上から胸を鷲掴みにしてヴァーラニエミに抱き留められる。

 アリナ・エーヴァにはわかっていたのだ。

 最初から、ヴァーラニエミの言葉に悪意などないということを。

「……まだ怪我が完治していないんだ、無理はするな」

「畜生……っ」

 吐き捨てるような彼女の慟哭。それはなにに対して吐き出されたものなのか、それは誰も知りはしない。

 畜生、と彼女は何度も繰り返して、駄々をこねる子供のように男の広い胸に拳をたたきつける。アリナ・エーヴァのような正真正銘の軍人に全力で殴られると結構痛いのだが、それでもヴァーラニエミはなにも言わない。

 泣くことができない彼女の”号泣”だ。

 なぜ。

 「なに」に対して泣いているのだろうか……?

「エヴァ……」

 胸に巻かれた包帯に血が滲んでいた。ミーカ・ヴァーラニエミを相手に暴れたために、傷が開いたのだろう。アリナは男の腕に強く縋って痛みをこらえると細い息を吐き出しながら、二人の男たちに支えられるようにしてベッドに戻った。

 ――あいつの亡霊は、わたしを殺すまで離れたりはしない。

 新しい包帯を巻かれ、痛み止めを打たれて眠りにつく寸前、彼女はそう告げた。

「ごめん、ヴィシュヌ……。ごめん……」

 わたしが弱かったから、あなたを死なせてしまった。

 わたしが頼りなかったから、あなたを守れなかった……。

 けれどもその懺悔は、本当に「ヴィシュヌ」という男に対して捧げられているものなのか。

 強い大きな手のひらに自分の手を包み込まれて、アリナ・エーヴァはただ眠りの中へと失墜していった。

 亡霊に取り憑かれた兵隊の哀れな末路。

 彼女の謝罪の言葉を聞きながら、三ヶ月にも及ぶ激しい戦闘をアリナ・エーヴァと共に戦ったユホ・アーッテラはただ思考の底に捕らわれた。

 彼女はいったい「誰」に対して泣いたのだろう、と。

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