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36 モスクワ講和条約

 第三四歩兵連隊第六中隊に陣地戦をやらせれば、鉄壁の要塞のようであり、攻勢に出れば全ての守りを粉砕する鋭い矛のようだ。

 その部隊は柔軟に形を変えて、敵の攻撃をいなし、防御を巧みに打ち破る。

 ソ連軍をして、たった一個中隊に戦力を裂かせなければならない程に、彼らの部隊は勇猛果敢な強敵だった。

 その部隊の中心人物とも言える指揮官が悪いことに凶弾に倒れた。

 幸い、彼女は今すぐ命に関わる状況ではないらしい。しかし、胸に二発、頭部に一発の銃弾を受けている上、全身が白兵戦を繰り広げた結果傷だらけで放っておけば命に関わることは目に見えている。

 意識を完全に失う最後の瞬間まで、中隊の指揮を執り続けたアリナ・エーヴァは、結局最終的には衛生兵の判断によってソリにのせられて、後方の病院へと送られることになった。

 第六中隊のその後の指揮は、それまでの三ヶ月、中隊長のアリナ・エーヴァ・ユーティライネンを補佐し続けたユホ・アーッテラがそのまま引き継いだ。

 もっとも、引き継いだとはいっても、停戦の発効までのほんの数時間である。

 驚くべきことに、アリナは狙撃を受けた重傷でありながら、何度となく意識を失いかけながら正気を保ち、更に中隊の指揮を執り続けたのである。

「……ユーティライネンの愛弟子、か」

 独断で暴走しがちなアリナ・エーヴァを支えていたユホ・アーッテラ少尉は、二十代だが冷静沈着で彼女の補佐としては理想的な青年だった。

 三月六日の日が暮れた頃、第二大隊は大きな損害を被り、連隊司令部から撤退命令を受けてその日の夜の内に撤退することになった。今までの作戦で、彼ら第二大隊が命令を遂行できなかったのはこれが初めての経験だった。

 それこそ、昨年の十一月から開戦してから初めてのことだ。

 それほどまで彼らはコッラーの戦線で獅子奮迅の戦いを演じきった。

 そんな歴戦の猛者たちが、撤退の行軍の中でぐったりと疲れ切っている。そして、そんな兵士たちを指揮官代理として仕切っているアーッテラの顔色ももちろん良くはない。

「副長、大丈夫ですか?」

「……大丈夫だ」

 小隊長のひとり、アールニ・ハロネンが気遣うようにアーッテラに声をかけると、半分に減ってしまった中隊の面々を見渡してから肩を落とした。

 部下の数人が、上官が丸まっているそりをひいている。

 もうアリナは自ら動けるような状況にはないにもかかわらず、時折意識を取り戻しては、部下たちを叱咤激励して指示を下し続けた。

 速く彼女を病院に運ばなければ、感染症で重大な病気になるだろう。

 一部の兵士たちの行方が、混戦のどさくさでわからなくなっている。

 重傷を負っても味方に回収された者はまだいい。迫り来るソ連軍に連れて行くこともままならず、やむなくそのまま放置された者もいた。

 わかっている死者は二三人、行方不明者が十八人。

 重傷者が中隊長のアリナ・エーヴァ・ユーティライネンを含めて十九人。

 ひどい被害だった。

 激戦の中を苦心してロイモラまで撤退した彼らはすでに戦闘能力を失った部隊で、弾薬すらない状況では部隊の再編は骨が折れた。

 一方、第十二師団司令部は、戦闘可能な部隊をコッラーの戦線に集結させつつあったが、シルップ戦闘団として消耗しきった第三十四歩兵連隊は、すでに戦闘能力を完全に喪失していた。

 どれほど歴戦の強者たちがそろっていたとしても、不可能なものは不可能なのだ。

 そうして、ロイモラに運ばれた彼女は、部下たちが抱きかかえる腕の中で完全に意識を飛ばしたのだった。

 そこまで話しを聞き終えたアリナ・エーヴァは上半身をベッドに起こしたままで窓の外を見つめていた。

「……シムナは」

「わかりません。姉さんが搬送された病院を聞き出すだけで精一杯でした」

 一介の兵士の行く先など調べることなどできはしない。なにせ、負傷者の数が多すぎるのだ。

「そうか」

 短くつぶやいた彼女は、春の日差しの中でわずかにうつむいてから高熱をだしたままの重い体をやっと動かした。

「速く直さないとな……」

 点滴の管につながれた腕を見やってアリナは苦笑する。

「病院を抜け出すなんてことはやめてくださいよ、姉さん」

「わかってるよ」

 三ヶ月に及ぶ酷寒の激しい野戦はアリナ・エーヴァの体力を驚くほど消耗させた。酷寒の中を気力だけで戦い続けていた彼女の体力は、傍目にはそうとは映らなくとも、すでに限界を超えていたのだ。

「姉さんが狙撃されたすぐ後に、ハロネンの奴が部隊をまとめて、問題のソ連軍の狙撃兵を射殺しました」

 森の中、敵のただ中にやむなく置いてくるしかなかった重傷者は、おそらく寒さで死んだか、それともソ連軍に殺されただろう。

 日付は一九四〇年三月十七日の午前。

 四日前の三月十三日午前十一時に停戦した。

 ――それを、アリナは目が醒めてから彼女の傍にいた弟エイノ・イルマリから聞かされたのだが、三日間も眠っていたのだ。現実味がないと言っても仕方ないだろう。

「十一時ぴったりに戦闘が終わったそうです」

「……そうか」

「コッラーの戦線の経過ですが、ウオシッキネン中尉が、ソ連軍の銃撃を受け戦死されました。ですが、最後の最後まで、コッラーは持ちこたえたそうです。敵を、一歩たりとも前へすすめはしなかった、と」

 他にもシルップ戦闘団のオーリン少尉とパーッコネン少尉が戦死した。

「ご苦労だった……」

 溜め息のようにアリナが告げると、そのまま熱に浮かされた体がぐらりと傾ぐ。

 体調を押して長い時間、ユホ・アーッテラの報告を熱心に聞いていた彼女の体を副官の青年が支えると、アリナは高熱を抱えた手で彼の肩を押し返した。

「体に触ります。少し休んでください」

「決済しなければならない書類はないか?」

 問いかけるその表情は、中隊指揮官のものでそんなアリナ・エーヴァの様子が無理をさせているのではないかと思わせる。

「大丈夫です」

「……世話をかける」

 そっとほほえんだ彼女の体を寝台に横たえてやると、やがてゆっくりと眠り込んでいく。そんな上官の眠る顔を見つめて、ユホ・アーッテラは深く息を吐き出した。

 どれだけ、アリナ・エーヴァは仕事の鬼なのだろう。

 ここには部隊の部下はいないのだ。だから、強がる必要などないというのに。

「姉さん、ハールトマン少佐が言ってましたよ」

 ――第六中隊が、ソ連軍(リュッシャ)の攻撃を受け止めていてくれたおかげで、他の部隊が思ったよりも小さな被害で撤退することができた。

 ハールトマンの言葉をアリナ・エーヴァが知ったらどう思うだろう。

 なにを言うだろう。

 「そんなことほめられても嬉しくない」とでも言うだろうか。

 死んだ人間は二度と戻ってこない。他の部隊が撤退できたかどうかはともかく、アリナと共に戦った第六中隊の部下たちの多くがこの世からいなくなった。

 どんなに悪ぶって見せていても、彼女が人の死に対してなにも感じていないわけではない。

「姉さん、奴らはあなたと共に戦う事ができて幸せでしたよ……」


 それから数日して、恐ろしい勢いでアリナ・エーヴァは回復していった。元々体力のある女性だ。

 訓練を受けた職業軍人であり、弱々しい女性などとは異なる。

 目を覚ましたことによって食事をとれるようになったことも大きいだろう。体の不調を押して、出された病院の食事も残さず平らげ、なによりも、やはり職業軍人として、彼女はリハビリにも熱心だった。

 弱った体を痛めつけ、彼女は点滴も抜けないうちから、廊下を何往復もしていた。

 腹からはっきりとした声を出して、同じように療養している兵士や下士官たちと明るい声で会話を交わす。

 停戦で重苦しい空気とは裏腹な彼女の明るさに、軍病院内はどこか明るさを取り戻しつつあった。

 彼女は決して振り返ったりしない。

 まっすぐに前を見つめて、陰鬱な空気を吹き飛ばす。

 数日で高熱もおさまり、点滴も抜けた。傷だらけの体はまだ包帯が巻かれているが、それでも顔色は日に日に良くなっていく。

「……ユーティライネン」

 余りにも元気すぎてうるさいアリナに手を焼いた病院側が、女性ということもあって、彼女は個室に移されたのだが、それを見計らったようにひとりの男が訪れた。

 珍しくベッドの上でおとなしく新聞を読んでいたアリナは、来客の顔を見つめてから驚いたように目をぱちくりと瞬かせた。

 およそ三ヶ月ぶりに見た顔でもある。

 第四軍団長――ヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンド少将。

「見たところ元気そうだな」

「ついこの間まで生死の境をさまよってたらしいですけどね」

 ハッグルンドの言葉に軽口を叩くアリナは、にこりと笑ってから新聞をたたむと、表情を改めた彼女は第四軍団長にベッド脇の椅子を勧める。

 本来であれば、彼女が立って上官を迎えなければならないのだが、まだアリナはそこまで回復していない。

「モスクワ講和条約……、ひどい内容ですね」

 アリナの感想に、ハッグルンドは肩をすくめた。

「しかし、フィンランド(スオミ)の全てを奪われることはなかったし、住民たちは全員、ソ連に従属することを良しとせず住み慣れた街だというのに引き上げた……」

 それほど重い決断だったということだ。

 アリナ・エーヴァは、ハッグルンドのその言葉に視線を新聞の写真へと落とした。

 フィンランドがソビエト連邦に奪われた土地は、ヴィープリ市、ハンコ半島、ウーラス、コイヴィストなどの港。ラドガ湖北部やサイマー湖などが含まれていた。

「わたしの故郷は国境の向こうになってしまいました……」

 そう言ってほほえむ彼女は、いっそヘルシンキに家でも買いますかね、と付け加えた。

「ユーティライネン……」

「弟の、生まれ故郷のリエクサが国境の向こう側にならなかったことだけは、安心しました……」

 柔らかく笑うアリナの青い眼に、ハッグルンドは言葉を失った。

 彼女は普段こそ態度も口も悪いが、おそらく今の言葉は本音なのだろう。

 アリナ・エーヴァの生まれ故郷、ソルタヴァラはラドガ湖の最北にある。その街は、国境の向こう側となり、フィンランド人たちが二度と踏み込めない場所になってしまった。

「確か、少将閣下の故郷もヴィープリでしたか……」

 室内にいるふたり――ヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンドと、アリナ・エーヴァの故郷は二度と踏めないだろう国になってしまった。

「……――今は、ゆっくり休め」

「閣下」

 新聞から目を上げた彼女が、じっと切れ者の将軍の顔を凝視する。

「本官は、負傷し意識がなかったため終戦を知りません。お手数ではございますが、交戦停止のご命令をいただきたく思います」

「全く、貴様は本当に困った小娘だ」

 命令がなければ、彼女は再び戦場を求めて飛び回るだろう。アリナ・エーヴァ・ユーティライネンとは、そういう人間だ。

 肩を落としたハッグルンドが、はっきりとした声で彼女に通達する。

「アリナ・エーヴァ・ユーティライネン大尉、本日をもって交戦停止を命じる。即刻部隊を引き上げ帰還せよ」

「承知致しました」

 アリナ・エーヴァにとっての戦争が、こうして三月二三日にようやく終わった。




 一九三九年十一月三十日から、一九四〇年三月十三日までに及ぶ冬期の間に行われた戦争はようやく幕をおろしたのだった……。

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