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35 墜落

 衛生兵に引きずられるようにして、重傷をおった狙撃手――シモ・ヘイヘが後方へとつれられていく。その様子を見送ってからアリナ・エーヴァは意識を切り替えた。

 今は、たったひとりに意識を捕らわれているわけにはいかない。

 彼のような犠牲者を減らすためにも、戦い抜かなければならない。

 それがアリナ・エーヴァ・ユーティライネンに課せられた義務だ。どんなに苦難の状況であったとしても彼女は決して諦めたりはしない。

 倒れかける味方を叱咤し、足が止まる兵士たちを怒鳴りつける。

 ヘルメットの下の金色の髪を振り乱して、声が枯れるほど叫ぶ彼女は銃を振り上げて号令をかける。

 進め、怯むな、と。

 味方に最も被害が大きくなるのは撤退の時だ。敵に背中を向ければ、被害はより大きくなる。アリナもモシン・ナガンを構えて時折立ち止まり正確にソ連兵士の頭を射貫いていく。

 そもそも自分は狙撃兵などではないはずだ。

 ひどく頭の芯が冴えているような気がして、彼女は軽く頭を振った。

 まるで、まわりにある全ての事象がスローモーションのように展開されていく。敵の動きも、弾道も正確に「見え」た。

 いけない……。

 アリナ・エーヴァは内心でひとりごちると、強く自分の頬をひっぱたいた。

 同時に彼女の意識は正気へと引き戻される。

「どうしたんです?」

 自分の隣で戦っていたユホ・アーッテラが問いかけるとアリナは、再び銃を構え直した。

「なんでもない」

 つぶやいて彼女は眉間に皺を寄せる。

 「あの感覚」は、かつて彼女がフランス外人部隊にいたときに感じたものだ。まるで襲い来るものの全てが自分の範疇にあって、なんでもできるような気がしたのは彼女の若かりし時だ。

 それはそう……。

 ヴィシュヌと共に戦った最後の戦いだ。

 全ての音がやんで、全ての動きが止まって見えた。

 まるで武術の達人にでもなった気がするような、そんな静寂と静止した世界。そんな静かな世界でかつて彼女は「なんでもできる」と勘違いをして無鉄砲に飛び出した。

 銃とナイフをもって、がむしゃらに戦っていた過去。

 けれども、静かな世界の先にあるのは勝利ではない。

 確実な滅びだけ。

 今はそんなものに捕らわれるわけにはいかない。なぜなら、当時の彼女であればいざしらず、今は多くの部下たちの命を握っているのだ。

 第一二師団第三四連隊第二大隊第六中隊は、アリナの確実な指揮の下に機動防御を実践して退却していく。

 迫り来るソ連軍は目と鼻の先だが、それでもアリナ・エーヴァ・ユーティライネンも、彼女の部下であるユホ・アーッテラ、そしてアールニ・ハロネンら小隊長たちも冷静さを失わない。

 ウラーというかけ声と共に突撃してくるソ連兵士を仕留めながら、アリナは無表情に引き金を引く。

 部隊の誰もが黙々と自分の仕事をこなしていた。

 引き金をひいて、砲弾や弾丸から自分の体をかばい、そして運悪く被弾した仲間を横目にそれでも決して諦めない。

 彼らを率いるモロッコの恐怖と呼ばれる魔女――アリナ・エーヴァが諦めたりしないからだ。

 ソ連軍の大軍にじりじりと後退しているように見せながら、実はアリナ・エーヴァは冷静に部隊に指示を出している。

 肩をかすめた銃弾にも意識を傾けることもしなければ、また、彼女は肉薄する赤軍兵士が銃剣を振り上げたのをかまうこともせずにナイフを構える。すでに彼女自身も無傷というわけにはいかず、全身のあちこちに傷を受けている。

 敵に打撃を与えつつ、その攻撃がゆるむ一瞬を見逃さずに彼女は指示を下す。その瞬間に大きく後退する。中隊の部下たちの安全を最も重視しながら、アリナは常にユホ・アーッテラと共に最前線にあって、ソ連軍の部隊の動きをよく観察していた。

 砲弾が飛び交う中、ユホ・アーッテラがアリナに耳打ちした。

「もう、シルップ戦闘団の砲兵部隊には砲弾が一発もないそうです」

「そうだろうね」

 アーッテラの報告を苦々しく聞きながら、アリナは舌打ちすると中隊直属の分隊に所属する兵士を呼びつける。

 もうこんな混戦の中で無線など役に立たない。

 すでに彼女の直属の分隊は半数に減っていた。

 ヘイヘは重傷を負い、後方に運ばれた。そして数名が戦死している。

 なによりこの混乱の中で、小隊長たちと連絡を取ることなど無謀にも等しい。伝令に兵士をやったとして、彼らも死ぬかも知れない。つまるところ、そんな危険な選択はできるわけがないということだ。

 土と氷、そして雪が舞う。

 砲弾が炸裂して木々の枝が折れて降ってくる。木陰や岩陰に潜みながら後退するフィンランド軍はやがて夕方が近づく時刻になってようやくソ連軍の攻勢が止まりアリナらは激しい砲撃によってむき出しになった地面にやっとの思いで尻をついた。

 アリナの中隊は、この日の戦闘で約半分にまで減らされていた。もしくは捕虜になった者もいるかもしれない。

 それでも、どうすることもできなかった。

 明日、もしもこれ以上この戦線を維持しろと命令されたら、第三四連隊を含めたアリナらの部隊は全滅するだろう。

 武器も、兵士もいない最悪の戦場で彼らは文字通り身ぐるみ剥がされて敵の前に放り出されているのだ。

 時折、散発的な射撃の音が聞こえてくる。

 まだ小規模な戦闘があちこちで続いていた。

「……ハールトマンのところに行ってくるよ」

 一日の戦闘に疲れ切ったアリナが腰を上げて、歩きだす。

 銃を杖代わりにするように地面に付きながら指揮テントへと向けて歩いて行く彼女のヘルメットは激しい戦闘でどこかへ飛んでしまったのか今はなかった。

 その瞬間だった。

 渇いた銃声が響いたと思ったら、アリナの側頭部から血が噴き出した。

 頭蓋骨に重い衝撃を受けたのか女性指揮官がそのまま倒れ込んでいく。

「姉さん……っ!」

 地面に顔面から突っ込むかと思われた時、若い兵士が思わずアリナの体を支えて、衛生兵を金切り声で呼んだ。

 暗転した意識が暗がりに落ちていく。

 部下たちの声がアリナの意識の淵に聞こえた。

「……大丈夫だよ」

 わたしのことは心配いらない。わたしの心配なんてする必要などない。

 だから、大丈夫……。

 伝えなければならない、その一心でアリナ・エーヴァは意識を現実へと引き戻すと、自分を支える男の腕を強く掴み占めた。

 その余りの強さに、兵士が目を剥いて彼女を見つめる。

 しかし、今にも遠のきそうな意識の中でアリナは部下のそんな様子にかまっている余裕がない。

「姉さんっ!」

「……アーッテラ」

 全幅の信頼を寄せる副官の青年の名前を彼女は呼ぶ。

 差し伸べられた腕にしがみつくようにして体を起こしながら、彼女は両膝にぐっと力をいれると立ち上がった。

 痛みは感じない。

 目の前が見えない。

 ただ、ぬるりとした感触が頭の上から首筋へと伝っていくのがわかる。

 自分に与えられた役目をこなさなければ、という思いで必死だった。奥歯を一度強く噛んで彼女は口を開いた。

「アーッテラ、悪い。退却を率いてやることができないかもしれない。もしも自分で部隊を率いるのが、難しいと思ったら、トイヴィアイネン中尉に助言を請え。あと、大隊長のハールトマンもアホで女たらしだが頼りになる……」

 必死の思いで言葉を紡ぎながら、アリナは男の支える腕に必死で縋る。

 そして同時にもう一度、パンと渇いた音を彼女は聞いた気がした。狙撃だから音など聞こえているわけがない。けれど、体に感じたのは衝撃だけだ。

 痛みも、熱さもわからない。

 体の均衡を失って、アリナは目の前の男――ユホ・アーッテラの腕の中に崩れ落ちた。

 自分が死んではいけない。もしも、自分が死ねば次に狙われるのは、副官のアーッテラ、そして小隊長たちだろう。

 だから、自分が的になるためにも、死ぬわけにはいかない。

 狙いは指揮官。

「狙撃兵だ!」

「探せ! 部隊が全滅するぞ!」

 狙撃の主はおそらく、腕の良い狙撃兵だろう。

 敵ながら最初に指揮官を狙うのは良い判断だ。

 けれど、自分が倒れては部下たちが危険にさらされる。倒れてはいけないと、思いながらも彼女の部下である味方の狙撃兵たちが、同時に銃を片手に周囲を警戒し出すのを感じて、今度こそアリナは完全に暗闇に飲み込まれていった。

「……ごめん(アンテークスィ)

 それから何度かアリナは目を覚ました。

 虚ろな頭で必死に事態を把握しながら、彼女は傍らにいる男に指示を下す。

 衛生兵にたびたびのように無茶をするなと叱咤されながら、それでも尚、彼女は中隊の指揮を執り続けた。

 それが自分の役目だと、そう信じて。

 意識を失っては、再び浮上する意識の淵でアリナは彼女の元に届けられる状況を分析する。

「いい加減にして、後方へ下がれ!」

 大隊長のハールトマンに怒鳴りつけられはしたものの、このときのアリナにはほとんど聞こえてなどいない。

 最後にアリナ・エーヴァが覚えているのは、戦死した部下を回収しようとして駆け出そうとした兵士たちだ。

「行くな! もう無理だ!」

 目と鼻の先にソ連兵が迫っている。

 死んだ仲間の装備を略奪するソ連兵たちはちはまるでハイエナのようだった。

 ユホ・アーッテラが部下たちに制止の声を上げて、撤退を指示している。

 そうして彼らは安全なロイモラの師団司令部まで撤退をしたのだ。



 ざわざわと声が聞こえる。

 アリナ・エーヴァはぼんやりとする頭でそのざわめきに意識を傾けた。

 そういえば、何度か朦朧とした意識を取り戻したような気もする。ただ、そのときは頭が重たくて、体が動かなくて、意識が浮上しかけるたびに何度となく暗闇の奥底から伸びる長い腕に捕らわれて、再び眠りの淵へと引きずり込まれた。

 覚えているのは途切れがちの記憶だ。

 いつも傍らで、ユホ・アーッテラが彼女に戦況を報告していた。

 彼の的確な報告を聞きながら、彼女は虚ろな意識で部隊の指揮をとった。熱さも、寒さも、痛みもわからない。

 そんな中で、ただ報告を聞いて自分の頭の中で戦況を判断する。

 最後の最後で、ハールトマンの怒鳴り声も聞いたような気がするが、彼女が覚えているのはアーッテラの報告だけだ。

 ――うるさい。

 アリナは思いながら瞼を上げる。

「……姉さん」

「イッル……?」

 声が掠れた。

 金色の髪の、青い瞳の、そして白皙の肌を持つ優しげな眼差しの青年。

 腕を上げようとしたが失敗した。

 体がまるで鉛のように重くて動かない。

「ずっと意識不明だったんだ」

 銃撃を受けただけだろうに……。アリナが自嘲するように唇の端をつり上げようとするが、まるで筋肉が硬直したように動かない。

 おそらく、エイノ・イルマリの言う「ずっと」というのは、彼女が意識を完全に失ってからのことだろう。けれども日付の感覚など当になくなっていた彼女には、いつ自分が倒れたのかもわからない。

「傷が原因の熱がなかなかひかなくて、ずっと昏睡状態だったんだ」

 動かない首をなんとか振りながら、彼女は自分のベッドの周りにいる男たちを見やる。誰も彼も良い体格をしている男共だ。

 他の負傷兵のベッドの周りにいるのは可愛らしい女性であったり、美しい婦人であったりすると言うのに、自分の周りはどうしてこうも色気がないのだろう。

 皮肉げに考えていると、見慣れない男に視線が止まる。年齢は、彼女よりもいくつか年下だろう。

「はじめまして、エイノ・アンテロ・ルーッカネン飛行大尉です。ユーティライネン大尉」

「俺の上官だよ、姉さん」

「そ……」

 応じようとしても声が出ない。

 長い睫毛を伏せてからひりついた喉に激しく咳き込んだ彼女は、ベッドの中で身もだえるように体をよじる。

 まるで全身が自分のものではないかのようだ。

 そして咳がおさまってからアリナは改めて自分のベッドを見下ろしている男たちを確認した。

 副官ユホ・アーッテラ少尉と、友人のミーカ・ヴァーラニミエ大尉、そしてヴィサ・レフト中尉と弟のエイノ・イルマリ・ユーティライネンとその上官、エイノ・アンテロ・ルーッカネン大尉。

「寝てろ、クソアマ」

 ぼそりとミーカ・ヴァーラニミエが呟いた。

「貴様がそんなんじゃ、張り合いがない。とっとと五体満足の貴様に戻れ」

 荒っぽい男の言葉。

 アリナは彼の声に唇の端を痙攣させるように笑うと、自分のものではないような腕を必死の思いで上げた。

 最前線でオルガン銃を運んだ時よりも体が重い。

 こんな感覚はフランス外人部隊にいた時以来だ。

 おそらく、狙撃を受けたのは最低二発。

 一発目で頭をやられた。二発目はわからない。

 しかし、零下の世界で傷を負うというのはへたをすれば命に関わる。

 ようやく四インチほどあげた彼女の手を、エイノ・イルマリがそっと包み込んだ。

「戦争は終わったんだ……」

 だから、もう眠っていても誰もあなたを咎めたりはしないから。

 ゆっくり休んでほしいと弟が告げる。

「……おやすみ(ウオタ)

 ヴィサ・レフトの声が聞こえた。

 暖かい弟の手のひらの感触を感じながら、アリナはそうして眠りの彼方へと失墜していった。

 もう、泥沼の戦争は終わったのだ、と。

 聞かなければいけないことはたくさんある。だから眠ってはいけないと思うのに、体が言うことを聞かない。

 自分が狙撃された後、どうなったのか、とか。

 シムナはどうしたのか、とか。

 コッラーの戦線は結局どうなったのかとか……。

 聞きたいことは山ほどあった。

おやすみなさい(ヒューヴァー・ウオタ)

「アーッテラ……」

 眠りの魔物に引きずり込まれながら、彼女は忠実な副官の名前を無意識に呼んだ。

 ――結局、わたしはヴィシュヌ(あなた)に笑ってもらえないのだ……。ヴィシュヌが笑ってくれないのは、わたしが多くの戦友を見捨てたせいなのだろうか。わたしが守り切れなかったから、あなたは笑ってくれないのだろうか。

 ただ、深く深く様々な思いに絡め取られるようにして、そうして彼女は墜落した。

「ここにいます、姉さん(シス)

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