34 失われるもの
ヴィサ・レフトはカレリアの戦線の補充部隊を率いて復帰したらしい。
ミーカ・ヴァーラニエミはキティラ、レメッティ方面で相変わらず死闘を続けている。そういった噂程度の情報はアリナの元にも流れてきていたが、いかんせん、彼女の目の前にある戦場はかなり逼迫している。
はっきり言って、やる前からうんざりするような代物だ。
けれども彼女は彼女自身の上官たちに告げた。
不可能はない、と。
まだ辺りを夜のとばりが支配している時刻。アリナは雪を踏みしめてテントを出ると腰の後ろに吊したククリを片手で抜いた。
大振りなナイフ。
今まで彼女と共に戦場を駆け抜けてきたそれ。
星空へとその刃をかざしてアリナは目を細める。
凶暴に湾曲するそのナイフは、かつてまだアリナ・エーヴァが若く怖い者知らずだった頃を思い出させた。
何も知らず、何にも恐れず。ただ、泥沼の戦場に踏み込んだ過去の記憶。
「……ヴィシュヌ」
ぽつりとアリナが呟いた。
「この戦いが終わったら、あんたはわたしを笑って出迎えてくれるんだろう……?」
ナイフに語りかける。
おそらく、この日の午前五時半に幕を開ける戦いは最後の激戦になるだろう。
「……姉さん」
声に振り返ると分隊長に任命したシモ・ヘイヘがそこに立っている。
静かな彼の声。
ヴィシュヌよりは上背が高いが、ヘイヘは短身痩躯だ。
「シムナか」
「……はっ」
応じた彼女に踵を合わせて姿勢を正したシモ・ヘイヘがじっと思慮深い眼差しで彼女を見つめた。
「どうした?」
あと一時間ほどで攻撃が開始される。
「いえ、誰も。あなたの死など望んでいないと申し上げに来ただけです」
「……は?」
唐突に告げられて、アリナ・エーヴァはぽかんと口を開けて間の抜けた声を上げる。そうして自分よりずっと身長の低い男を見つめ直してから、何度か口を開いては閉めてを繰り返した。
その後、軽快な笑い声が暁の闇の中へと響いた。
汚れた手袋をはめた手のひらで両目を覆って笑っている彼女は、しばらくしてから笑いをおさめて和らいだ瞳で男を見つめた。
「突然なにかと思ったよ」
「……死ぬつもりなどない、とおっしゃられるでしょうが。姉さんは危なっかしすぎます。自重してください」
自分と年齢が余り変わらない男のたしなめる言葉に、彼女は優しげに笑ってから手にしていたナイフを腰に戻すと軽く頭を左右に振ってから頭上の空を振り仰いだ。
「わたしが死ぬときは、ヴィシュヌがわたしを殺すときだ。心配いらない」
「そういうのを自殺願望だって言ってるんです」
つけつけと苦言のように告げるシモ・ヘイヘにアリナ・エーヴァはわずかに首を傾けてから、足元におろしていた狙撃銃を片手で引っ張り上げてから自分の肩に担いだ。
「大丈夫。わたしは死なない」
それは確信。
「……大丈夫」
*
全部隊が配置についた。
もっとも、全部隊とは言ってもこの局地的戦闘に配置されたフィンランド軍は四千人程度のごく小規模な戦闘団だ。
キティラ方面に第十三師団。
そしてクフモ方面を第九師団が。
カレリア方面はカレリア地峡軍が戦線を保持している。
アリナ・エーヴァらの第十二師団も、第十三師団を掩護しつつぎりぎりの戦いを繰り広げている。
トイヴィアイネンとアリナ・エーヴァ・ユーティライネンの部隊は、膠着した状況に陥った場合に遊撃部隊として回される予備部隊として扱われていた。
いつ、どこでどんな指令があってもすぐに動けるように。
彼女らは神経を張り詰める。
一九四〇年三月六日――午前五時三〇分。
フィンランド国防陸軍第四軍第十二師団の最後の戦いが始められた。
「トイヴィアイネン」
自分の隣に立っている第五中隊の生真面目な男に彼女が声をかけると、寡黙な第五中隊の中隊長はちらとアリナの横顔に視線を放つ。
「……イワンの動き、どう思う?」
「おそらく陽動の一端だろう」
「わかっていてもこちらに戦力を裂かざる得なくなる、厄介なもんだ」
第九師団、第一三師団、そして第十二師団がカレリア地峡軍の援軍として駆けつけられれば、フィンランド軍にとって大きな戦力になるはずなのだが、現状そうはいかない。
時刻は刻一刻と過ぎていく。
アリナは時々コートのポケットから時計を取り出して時刻を確認していた。
びりびりと冷たい空気の中で砲撃の音と銃撃の音、そして悲鳴が重なって聞こえてくる。
「カレリアの奴らも無事だといいが……」
トイヴィアイネンの言葉にアリナは頷きつつ、ハールトマン少佐の伝令の下士官が早足に近づいてくるのが見えて、彼女はそちらを振り返った。
「ユーティライネン大尉」
「うん?」
「ハールトマン少佐がお呼びです」
「来たか」
独白するようにつぶやいたアリナは、肩越しに僚友であるトイヴィアイネンを見やると、彼は無言で軽く会釈した。
「幸運を」
聞こえたのは、アリナが遠ざかり、ほとんど声が届くか届かないかという距離になってからだ。
わかっている。
もう物資もない。
弾薬も、人員も、なにもかも……!
忌々しいことにそれが現実だった。
彼女の中隊が受けた命令は、敵の中央――主力部隊を谷を挟んで攻撃し、そうして押し返すことだった。
ほどなく開始された状況に、アリナは冷静な眼差しを前方に向けつつ部下たちを見守っていた。コッラーの戦線を保持し続けたこの猛者たちは、冷静沈着で誰も自暴自棄に陥ったりすることなどない。
そしてアリナ・エーヴァの命令に忠実に付き従ってくる。
まさに理想の兵隊たちだ。
狙撃兵たちは襲い来る赤軍の兵士たちを正確に一発の弾丸で仕留めていく。兵士たちにももう後がないことはわかっているのだ。
だから、彼らは狙いを外さない。
「狙撃に気をつけてください」
ユホ・アーッテラに言われてアリナは、ヘルメットをしたままで肩をすくめてみせた。士官であることを示すクロスストラップは、彼女が遠目にも指揮官であることがすぐにわかる代物だ。
「わかってるよ」
狙撃と砲撃でじりじりと押し返し、ソ連軍は湖岸の尾根に向かって後退していく。そこをさらに狙いを定めて砲兵部隊がたたきつぶすのだ。
「……妙だな」
歴戦のアリナの嗅覚が、ふとおかしなものをかぎ取った。
「アーッテラ、全隊に伝令。攻撃をゆるめずに五五〇ヤード後退しろ」
顎に指先を当てたまま考え込んだ、彼女はぎろりと強い眼差しで前方のソ連軍を睨み付けている。
堂々と立っているその姿は危うく的にでもされそうだ。
「いいんですか? 司令部の命令は?」
「かまわん」
ヒュルヒュルと砲弾の飛び交う音が聞こえる中、彼女は狙撃銃を手にすると大股に歩きだす。
最前線のさらに最も戦闘の激しい場所まできて、腰を屈めると雪の中に体を伏せた。
正確に狙いをつけて、数発の弾丸を撃ち込むと彼女のスコープの先で青い帽子をかぶった将校が雪の中に倒れるのを確認した。
「後退命令を全隊に通達完了です、姉さん」
「よし、迎撃しつつそれと悟られないように後退する」
そう告げたアリナは素早く雪の中から体を引き起こすと、視界の端にひとりの伝令の兵士が見えたことにもう一度眉を寄せた。
「なにごとだ」
厳しいアリナの声に、伝令はぎくりと肩を揺らして青い瞳に射すくめられたように固まったがそれも一瞬で、すぐに我に返ると彼女に告げる。
「強力な敵の支援部隊が接近中です」
「……くそったれ」
アリナは悪態をつくと、踵を返して次の目的地へと向かっていく伝令に目も暮れずにユホ・アーッテラを振り返る。
「アーッテラ、現状!」
叫ぶような声に、男は目玉だけを動かして彼女を見た。
「我々が後退すると同時にソ連軍が攻撃を開始しています。両側面から挟撃しこれを攻撃しておりますが……」
「よし、今から反撃に移る。総員着剣し白兵戦に備え、突出した部隊をたたきつぶすぞ」
「……――了解」
大隊司令部からは白兵戦の命令などでていない。
それでもアリナはやれと言うのだ。わずかに逡巡するが、アリナ・エーヴァが選択すると言うことは、おそらく勝算があるに違いない。
「総攻撃は〇九〇〇。攻撃し、敵が後退したら、こちらも深追いせずに後退する」
小隊長らに命令を下したアリナ・エーヴァに、三人の男たちは敬礼をすると各持ち場を指揮するために立ち去っていく。
おそらく、それが後退する最後のチャンスになるだろう。
もう後などない。
ソ連軍の無限にも思える砲兵部隊の餌食になったら一巻の終わりだ。
だからそうなる前に蹴りをつけなければ。
砲弾と土塊の飛び交う中、アリナはきびきびと命令を下しながら、各部隊から入ってくる詳細な報告を逐一漏らさず把握する。
まるで不吉な魔物のように蠢く最前線の状況を余さず理解しながら彼女は攻撃と後退の時期を覗っていた。
ソ連軍にそうとは悟られずゆっくりと前進しながら、アリナは視界の向こうにソ連軍の歩兵を視認した。
時刻は午前八時五七分。
ゆっくりと時計の秒針が動いていく。
銃と、ナイフに触れたアリナの手に力がこもる。
午前九時……。
「総員突撃……っ!」
アリナの命令が第六中隊を駆け巡った。長い腕が前方を指し示す。
ウラー! というソ連軍兵士の雄叫びが聞こえる。
銃とナイフ、機関短銃を抱えてソ連の攻撃部隊を迎撃する中隊の中央にはまるで泥まみれの女神のように、アリナがいる。
中隊長自ら鬼神のように戦いを繰り広げる彼女を補佐するのはやはり、卓越した戦闘能力を持つユホ・アーッテラだ。迫り来るソ連軍を相手に一騎当千の強さを見せつける第六中隊の迎撃に、敵部隊の攻撃がわずかにゆるんだ。アリナはその一瞬を見逃さない。ほんのわずかな隙を見誤らずにアリナ・エーヴァは伝令の兵士を呼びつけると部隊に後退命令を出す。
おそらく、これ以上は部隊が耐えきれない。
反撃を効果的に加えながら確実に後退していくが、それでも中隊の死者はもう数え切れない。しかし、そんなことに気を遣っている暇などなかった。
自分ひとりが生き残るだけで精一杯なのだ。
アリナは辺りを見回して、若い兵士が苦痛に呻いているのを認めると乱暴にその腕を引っ張り上げて立ち上がらせる。
「走れ! 死にたくなければ!」
立ち止まってはならない。
及び腰になってもいい。
とにかく走れ、と彼女は兵士に命じる。
彼女自身も戦闘による傷を受けていた。しかし、脳内でアドレナリンが分泌されているためか痛みは感じない。
「姉さ……」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で青年は立ち上がると彼女に命じられた通り走り出す。
痛みなど感じていないかもしれない。
ひとりでも多く生かして帰さなければならない。
義務感にも似た思いでアリナは迫り来るソ連兵をナイフでたたきつぶした。
噴水のように血が噴き出して、それに目も暮れず彼女は走る足を止めない。
大隊司令部はどうなったのだろう。
頭の片隅でそんなことを思ったがそれも一瞬だった。
「姉さん、全部隊に大隊司令部から後退命令です!」
ユホ・アーッテラの叫ぶような声に、アリナ・エーヴァは舌打ちを鳴らして怒鳴りつけた。
「遅いっ!」
損害が増してからでは遅いのだ。
森の中は死体だらけだった。
そんなとき、彼女の視界の片隅で不吉なものが見えた。
「……シムナっ!」
まさにたった今、シモ・ヘイヘの顔半分を弾丸が撃ち抜いたその瞬間だった……。
頭の中が真っ白に染まる。
「……姉さん」
見えたのだろうか? 重傷の彼が?
ヘイヘが自分を呼ぶ。
「衛生兵!」
雪の中に崩れ落ちていくシモ・ヘイヘと、そしてとどめを刺そうとするソ連軍の兵士。アリナは無我夢中でナイフを抜いた。正確にヘイヘを狙う敵兵にナイフを投げつけて息の根を止めると、銃弾の雨の中彼女は彼に走り寄ると、小柄な狙撃手を抱き起こす。
「申し訳ありません……」
薄れ行く意識の中で、シモ・ヘイヘはアリナに抱き起こされながらそう告げたのだった……。




