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33 死に神の大鎌

「あ、そういえば」

 ユホ・アーッテラが口を開いたのは翌日の朝だ。

 疲労困憊で寝込んでいたアーッテラよりも遅く眠ったはずのアリナ・エーヴァはとっくに起床していた。

 彼女の元気さには頭が下がる。

「うん?」

「昇進おめでとうございます」

「そういえばそうだったっけ。あんまり実感ないから忘れてた」

 祝いの言葉を告げられて、アリナは苦笑すると小首を傾げてアーッテラを見つめた。彼女はコッラーの戦線での戦功によって、中尉から大尉に昇進した。

 もっとも率いているのが第六中隊であるという現実は変わらないから、彼女にしてみれば「実感がない」ということになる。

「疲れはとれたか?」

「はい、すっかり、というわけにはいきませんが。大丈夫です」

「ハールトマン少佐もへろへろだったな」

 くつくつと人の悪い笑みを浮かべているアリナ・エーヴァに、ユホ・アーッテラは眉尻を下げる。

「しかし、こんな状況で大丈夫なんですかね。うちの隊はともかく」

「さてね」

 木っ端微塵(シルップ)戦闘団――簡単に言うと一個連隊と一個大隊。対する、ソ連は一個師団である。

 要するに四千人対二万人だと考えればわかりやすいだろう。

「あれ、本音ですか?」

 飯盒の中のまずい豆スープをすすっているアリナにユホ・アーッテラが視線を上げると、彼女はちらと横目に副官の彼を見つめた。

「出撃前に言ってたことです」

 ――どこまでできるか、そんなことを考えなくていい。

「本音だよ」

「本当に?」

「……――」

 追求するアーッテラに、アリナは言葉を返すこともなく飯盒の中の豆スープを見つめていた。

「そうですか」

 それならいい、とでも言いたげなユホ・アーッテラにアリナは飯盒に口をつけたままでひとり悟られることもなくひっそりと笑った。

 内心を相手に探らせる必要性などない。

 彼女の考えを誰も理解しなくてもいいのだ。少なくとも、アリナ・エーヴァはそう思っていた。

 アリナの飯盒がからになったのを確認したアーッテラが、横から大きな手を彼女の前に差しだした。

「片付けてきます」

「頼むよ」

 彼女と自分の飯盒を抱えて宿営地の方向へと歩いて行く男の背中を見送って、アリナは一瞬だけ視線を彷徨わせた。

 口を開きかけてから、アリナ・エーヴァはそのまま言葉を飲み込む。

 数秒躊躇している間に何を言おうとしたのか忘れてしまった。

姉さん(シス)

 そんな彼女に、ユホ・アーッテラが背中を向けたまま呼び掛けた。

「俺は、”最後の瞬間”まであなたの手駒です」

「……ありがとう(キートス)

 互いになにか不吉なものを感じた。

 背中を滑り落ちるのは冷たい汗。もしかしたら、互いのどちらかがこの戦闘で死ぬのかも知れない。そんなろくでもないことを考えてしまって、アリナはかぶりを振った。

 ――自分はともかくとして、アーッテラを死なせてはならない。

 彼は未来のある若者なのだから。

 ユホ・アーッテラの背中に優しくほほえんだアリナ・エーヴァは、そうして目を伏せて、次に上げた時にはいつも通りの顔に戻っている。

 決して誰にも弱みなど見せないし、付け入ることも許さない。

「……愛してるよ(ラカスタン・シヌァ)

 ぽつりとアリナの声が呟いたその言葉を、アーッテラは聞こえないふりをしてその場を立ち去っていく。

 おそらく、それは彼に告げたものなどではない。

 だからアーッテラは聞こえない振りをする。

 そう。

 誓ったのだ。

 彼女の傍で戦えることに決まったときに。

 アリナ・エーヴァ・ユーティライネン――モロッコの恐怖に忠誠を誓うと。



  *

「行軍中になにがあったんです?」

 アールニ・ハロネンが問いかけると、アリナは地図を睨みながら目を上げもせずに金色の髪の毛を指先でつまみ上げながら息をついた。

「イワンの偵察部隊が、機関銃中隊から銃を盗んでったんだよ」

「被害は?」

「人的被害はないようだけど」

 言いながらアリナが目を上げる。

 青い瞳が大隊指揮所になっているテントに向けられた。

「機関銃中隊の中隊長……、名前なんだったっけな。忘れたけど。相当ハールトマンのアホの怒りを買ったらしいよ」

「……――そりゃ、災難でしたね」

 いろんな意味で。

 そう告げたハロネンにアリナ・エーヴァは、機関銃中隊の失態に対しても、それに対するハールトマンの叱責に対しても特にコメントすることなく、別の言葉を口にする。

「なにせ物資が足りないからねぇ……、ソ連軍(リュッシャ)にとってはたかが数丁だろうが、スオミにとっては大被害だ」

 噂ではフィンランド語で思いつく限りのありとあらゆる罵倒が浴びせられたらしいというから、さすがにそれには皆が同情した。

「そうそう、今日の作戦は中止だそうだよ」

「了解しました」

「午後になったらラシ大尉のところの部隊も合流するそうだ。部隊の連中には、武器の手入れを怠らないよう伝えておけ。いつ命令がでても動けるように、とな」

 アリナの言葉に、小隊長一同は「はっ」と応じてから敬礼をする。

 そんな彼らに満足したのか、アリナ・エーヴァは鷹揚に頷いてから、三名の小隊長と副官のアーッテラを見渡してから微笑する。

「それで、連中はどんな様子だ?」

「落ち着いているようですね。ま、昨晩は行軍には相当参ったようですが」

 なにせ、コッラーの激戦区を二ヶ月の間保持し続けてきた猛者ばかりだ。落ち着いていなければアリナが直接出向いていって蹴り飛ばすところだ。

「結構。おまえたちも充分休んでいろ。おそらくこの先、戦闘が始まったら休む暇なんてなくなる。いいな?」

 それは予感だ。

「了解!」

 中隊長の命令を各小隊に持ち帰る隊長たちを見送って、アリナは今にも壊れそうな椅子に腰を下ろすと簡易テーブルに肘をついた。

「コッラーは激戦だって?」

「……そのようです」

 中隊長に倣って、椅子に腰を下ろしながらユホ・アーッテラが応じると、彼女は大きな溜め息をついた。

「ウオシッキネンの奴、無事だといいが……」

「そうですね」   

 コッラーの戦線に残った中隊長のひとり。

 マケ・ウオシッキネンの身をアリナ・エーヴァは案じた。もちろん、一介の兵士だから死んでもいい、というわけではない。しかし、士官の重要性はまた別だ。

「今日、明日で、ほとんどの連中が死ぬかもしれない……」

 感情があまり感じられない彼女の声に、アーッテラは眉を寄せた。

「怖いですか?」

「怖いよ」

 即答したアリナは、沈痛な面持ちでまるで過去を振り返るような目をして中空を見つめている。

「……わたしが、殺したんだ。何人も、部下たちの命を奪った。もしかしたら、わたしの判断ミスがなければ死ななかったかもしれない。わたしが、奴らを守ってやれれば生き残れたかもしれない。いつも、日が落ちて眠るときになると、死んでいった奴らの顔が頭に浮かぶ。わたしが、殺したんだって。そして、またわたしが殺すんだ。戦友たちをわたしの手で、地獄に送らないといけない」

 無表情に近い彼女の瞳に、副官の男は絶句する。

 小隊長や中隊長たちは、前線指揮官であるがゆえにその死に対する多くの責任を負っている。

「きっと、生き残って故郷(ソルタヴァラ)に帰ったら、人殺しってなじられるんだろうね……」

 悲しげに笑う彼女は、人殺しという言葉を突きつけられることに対して思い悩んでいるわけではない。そんなことはアーッテラにはすぐにわかった。

「……そんなことは」

「いいんだよ。わたしは、人殺しだ。部下たちの、そしてその家族の、痛みも悲しみも、苦しみも背負う覚悟はできている」

 それが指揮官としての覚悟。

 まるで自分が悪者ででもあるかのようにわざとらしく破天荒に振る舞う彼女の、余りにも悲壮な覚悟に、アーッテラは愕然とした。

 たかが中隊長であるというだけの理由で、どうしてそんなにも大勢の感情を背負わなければならないというのだろう。静かに響いた声は、決してテントの外にこぼれ出すことはなく、その言葉の重さはアーッテラ以外には届かない。

 彼女は、悲しいほどに自分の役目を理解していた。

 前線で誰よりも勇猛に、旗を翻すことこそが自分に与えられた役割だと知っている。

 簡易テーブルの脇に立てかけられた銃を手にした彼女は、アーッテラを見ることもなく銃の手入れをはじめる。

 部下に武器の手入れを怠らないように命じる彼女自身も、そこについては几帳面な性格だ。そして、だからこそアリナ・エーヴァ・ユーティライネンは激戦をくぐり抜けて来れた。

 敵は二万。

 これにくわえて戦車つきだ。

 もちろん深い雪の中をまともに進撃してこれるとは思わないがそれでも充分に脅威だった。

 次の命令を待つアリナが、徹底して部下たちに準備をさせている頃、大隊司令部に連隊本部から無線での連絡が入った。

 第二六戦隊に属する航空偵察によればソ連軍は現在、増援を受けて陣地に潜り込んでいるらしかった。要するに、コッラーとは逆の陣地戦だ。

「攻撃開始は?」

アリナ・エーヴァがハールトマンの指揮テントで問いかけた。

「明日の〇五三〇」

「承知した」

 上官に対してぞんざいな言葉使いをするアリナに、しかし、ハールトマンはすでに茶々をいれたりする余裕などない。第五中隊のトイヴィアイネンも含めて他の中隊長たちも厳しい眼差しで地図を見つめている。

 全員がわかっているのだ。

 明日の明け方から行われる戦闘がどれほど厳しいものになるのかということを。

 第三四連隊第二大隊の「英雄」とも呼べるアリナ・エーヴァ・ユーティライネン大尉。彼女の存在は他の中隊長にとっても非常に大きなもので、彼女の存在が彼らの心にゆとりをつくっていた。

 モロッコの恐怖がいれば、大丈夫だと。

「ユーティライネン」

「はい」

「……死ぬなよ」

 ハールトマンの言葉に、アリナは薄い笑みをたたえると踵を返しながら副官を連れて指揮テントを後にする。

「ま、死ぬつもりはないんで」

 肩の上に軽く片手を上げて、ひらりと手を振った彼女の泰然とした歩調は最前線にいる兵士のそれとは思えない。

「イワン共を、フィンランド(スオミ)の堆肥にしてやりましょう」


 そして、最後の地獄が幕を開ける……――。

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