32 シルップ戦闘団
二月の末に東レメッティに保持されていた包囲陣は撃滅された。
この頃のフィンランド軍にとっての戦況はそれほど芳しいものではなかったし、楽観視できるほど侵攻するソ連軍に対して優勢だったわけでもない。
その更に前――二月十八日。十六世紀からの歴史ある街であるヴィープリ市も二百機を越えるソ連空軍の爆撃機による襲撃を受けて、激しい空襲によっておもむきのあるカレリアの古き都市の栄光は失われていった。
市内の電気や水道、ガスなどは止まり、最後まで市内にとどまっていた民間人たちがソ連軍の砲兵部隊の前に避難をせざるをえなかった。
――過去より偉大なる聖職者ミカエル・アグリコラに守られし中世の街並みよ……!
ロイモラ近郊の完成したばかりの掩蔽壕に移ったアリナは、薄暗いライトの下で新聞を広げながら親指の爪をかんだ。
「……なにを苛立っているんです?」
昨日、シモ・ヘイヘが戻ってきた。
同じ壕内にいる兵士たちに背中を向けて座り込んでいるアリナは、背後から小隊長のひとりであるアールニ・ハロネンに声をかけられて視線だけを流しやる。
「気のせいだよ」
「そうですか」
彼女の素っ気ない言葉に、目線だけを下げたハロネンは金属製のカップに入ったコーヒーを肩越しに差しだしてから、彼女の目線の先にある新聞に視線を落とした。
歴戦の陸戦員であるアリナ・エーヴァに対して、アールニ・ハロネンは決して声をかけずに背後から近づくことはしない。
そんなことをすれば危険が及ぶのは自分の身にほかならないからだ。
軽口をたたくかと思えば、おかしなところで口が重い。
彼女のことを決して噂好きの女性たちと同列におくことなどできはしない。どこか、女性らしいとは言えない性格は確かに軍人のもので、厳格なものを持っている。
第六中隊の隊員たちが「姉さん」と信奉するアリナ・エーヴァ・ユーティライネンがこうと決めたら決して口を開かない頑固な性格だと言うことは知っていたから、アールニ・ハロネンはコーヒーカップを彼女に手渡しただけで、副官のユホ・アーッテラに視線を投げかける。
そうすればアーッテラは軽く肩をすくめるだけで、手元にある本に視線を落とした。
意外なことだが、破天荒なアリナ・エーヴァの副官をしているこの二十代末の青年は敬虔なクリスチャンだ。もっとも、アリナはアリナで部下たちがどんな信仰を持っていたとしても口出しするような野暮な性格ではなかったので、自分が信仰に疎くても部下たちのそれをからかったりするようなことはない。
聖書に目を落としているアーッテラは、祈るようにロザリオを握りしめていた。
彼はなにを祈っているのだろう。
異様な静けさが掩蔽壕の内部を包み込んでいた。
「アーッテラ!」
アリナの声が響いた。鋭く飛んだその声に、アーッテラが弾かれたように立ち上がった。なにごとかと彼女に視線を集めるのは兵士たちだ。
しかし、アリナは動じない。
「……はっ」
「地図持ってこい」
言いながら立ち上がる。
コートの身頃を併せてボタンをしめた彼女は乱暴に帽子を掴むと掩蔽壕の入り口へと向かって歩きだした。
扉を出ると、数フィート先に第二大隊指揮官のハールトマンがいる。
「鋭いな、ユーティライネン」
「……それで、なんです?」
感心するようなハールトマンの様子に、アリナ・エーヴァは彼の自分に対する評価がさも不愉快だと言わんばかりの表情で額にかかる金髪をかき上げながら鼻を鳴らすと、無言で背後に立つユホ・アーッテラに手のひらを差しだした。
彼女のその手に地図を手渡しながら、アーッテラはただ感嘆するだけだ。
「ご託はいりません。なにを企んでるんです?」
冷たくも聞こえる彼女の声に、カール・マグヌス・グンナル・エミール・フォン・ハールトマンは喉の奥で静かに笑ってから、アリナの隣に立つと彼女が広げた地図に視線を落とした。
「サーリヤルヴィ湖の脇の道路に向けて、イワン共が進撃を開始したらしい。おそらくコッラーを攻撃している奴らの別働隊と見ていいだろう」
「……ふむ」
顎に手を当てて考え込んでいる様子の彼女は、男の言葉を待った。
「コッラーの戦線から、師団司令部のロイモラに向けて南から北上している部隊で、何十台もの車両の掩護を受けているらしい」
「数は?」
「約一個師団」
「……ほう」
短い言葉のやりとりだが、それだけで充分だ。
アリナの部隊は現在師団総司令部付きの予備部隊とされていた。簡単に言えば二ヶ月者激戦を繰り広げてきた部隊に休息を取らせるためなのだろうが、彼女自身は本気でそんな言葉を信じることなどできはしない。
どうせ戦況が逼迫すれば、また同じように歴戦の部隊として激戦区へ放り込まれるのだ。
「要するに?」
アリナが問いかけると、ハールトマンが地図から視線を上げて彼女の青い瞳を覗き込んだ。
「三四歩兵連隊と、ゲリラ大隊でシルップ戦闘団を編成して、イワンの一個師団を迎え撃つ」
「……また難儀な作戦ですね」
肩をすくめた彼女にハールトマンが唇の端をつり上げた。
「自信がないか?」
「やりましょう……?」
やるかやらないか。
自信があるか、ないか、と聞かれれば、アリナ・エーヴァはやる気はあるし、勝つ自信もある。
「よし、それだけ聞ければ充分だ」
シルップ戦闘団。
まさしく「木っ端微塵」にするための部隊である。
ハールトマンがタバコを唇に咥えると、素早くアリナがそれを取り上げた。別に禁煙主義でもないだろうに、とハールトマンが見つめているとそのタバコを口にくわえたアリナは手早く地図をたたんでからユホ・アーッテラに放り投げる。
「それで、状況開始は?」
男の声のように低くはないが、くぐもったアリナの声はどこか妙な迫力すら感じさせる。
「今夜だ」
「了解」
タバコをくわえたまま、アーッテラを振り返ると彼女は副官の男に耳打ちする。
「……はっ」
彼女の言葉を受けて壕内に踵を返した彼は、小隊長に向かってアリナの指示を伝えているようだった。
彼女の部隊のまとまりはいつものことだが見事なものだ。
ユホ・アーッテラを見送ったアリナの横顔を見つめたハールトマンは彼女のそんな瞳を見つめている。
「なんです?」
「……いい女なのに結婚しないのはもったいないんじゃないのか?」
「……世辞ならいりません」
突き放すような彼女の言葉に、ハールトマンが声もなく笑った。
どこまでも武人としてまっすぐな彼女は、その行動は破天荒なものの上官たちからは信頼が厚い。
これで口が悪くなく、行動がもう少し常識的ならば文句もないのだが。
「三時間後、隊列を整えて集合だ」
雪の深い中の行軍はスキーに頼ることになる。
この深い雪の中を、戦車の掩護を受けてソ連軍は進撃しているらしい。
つまり、それは年の初めにソ連軍が小康状態を保っている中で装備を調えていたと言うことだろう。
「奴ら、どこまで動けますかね」
「雪の中なら、進軍しているとは言え、戦車つきじゃそれほど機動力は望めないだろう」
ソ連軍との戦い方は、これまで通り同じだ。
――ゲリラ作戦。
日が落ちたばかりの暗がりの中で、アリナ・エーヴァらの部隊は掩蔽壕の外に整列していた。
これからやることは少数の部隊で一個師団を食い止めなければならない。
いったいひとりで何人殺せば良いのだろう。
コッラーの戦線と同じ、厳しい状況になるだろうことは容易に想像がついた。
「……揃いました」
「よろしい」
アーッテラの言葉にアリナは一同を見渡すと、冷たい空気を深く吸い込んでからにたりと笑う。
「おまえたち、今までと同じように厳しい戦いになるだろう。どこまでできるかとか、そんな余分なことは考えなくていい。ただ、自分が生き残ることだけを考えろ。死んだところでイワンしか喜ばんからな」
「了解、姉さん!」
部下たちが声をそろえて彼女に答えると、アリナ・エーヴァは満足げに笑うとスキーのストックを雪の上に突き立てる。アリナ・エーヴァは顔色ひとつ変えないが、彼女が危惧していることがひとつだけあった。
アリナ・エーヴァの第六中隊を含めた第三四歩兵連隊は陣地戦にこそ慣れていて、こういったゲリラ戦を伴う行軍は苦手としている。もちろん、例外としてゲリラ戦を行うこともあるがあくまでも例外でしかない。
「姉さん、大丈夫ですかね」
アリナの隣に立つアーッテラが部隊を気遣う声を上げれば、彼女は前方を睨み付けたままで舌打ちを鳴らす。
「わからん」
先日、アリナの独断で行った野戦炊事所の襲撃作戦とは訳が違う。
目的地に行って戻ってくる、というわけにはいかないのだ。
行軍は過酷なものだった。
雪の中を六時間を超える進軍をするのだから。数時間を超える頃には、重い装備を背負った部隊はぐったりと疲れ切っていた。
そんな中でアリナは、横目に自分の中隊を眺めながらやれやれと肩をすくめた。進軍中の部隊はこまめに休憩を挟んでいるが、それでも疲労感はぬぐえない。
「少佐」
小声でハールトマンに、アリナが呼び掛ける。
「休みすぎると疲れが募ります。一気に行ったほうが無難ですよ」
「……全員を貴様の体力と一緒にするな」
不機嫌なハールトマンの声から察するに、彼も相当疲れているに違いない。しかし、小休止をとりすぎると疲労感が増すのはまた事実である。そもそも、ひどい言われようだがアリナが疲れていないわけではない。
行軍中に小さなトラブルはあったものの、三月五日の午前一時頃に第四シッシ大隊の宿営地にたどり着いた。
「よし、疲れてるだろうがとっととテントを設営しろ。各小隊長に報告したら休んでいい」
アリナがぞんざいな命令を下すと、自分もテントの設営の手伝いのために雪の中で踵を返した。
ともかく時間がもったいない。
疲労がたまりきっていては、ソ連軍を撃退することもままならないだろう。
だから、とアリナ・エーヴァは判断を下す。くだらない報告などいらないからとっとと休め、と。




