3 奇襲
「姉さん、ハッグルンド将軍から通信です」
呼び掛けられて、彼女は振り返った。
「すぐに行く」
スキーをはいた足で身軽に滑り出した直属の上官を眺めて中隊長のアーッテラは自分の肩を軽くたたいた。
男性兵士と比べれば、アリナ・エーヴァは若干華奢にも見えるが、その戦闘技術は突出している。なにせ、その細腕――あくまで男性と比べて、であるが――で片手で大男を伸すのだ。女性ながら天性のパワーファイターで、そこがまた粗野な男たちを惹きつけるのかもしれない。
だが、とりあえず、アーッテラにはそんなことは”どうだって”いい。
なにも中隊長自ら、ウキウキと最前線に突撃して行かなくてもいいではないか、と思う。もっとも言ったところでおとなしく聞くような性格ではないから口には出さない。
ややしてから戻ってきた彼女は、可愛らしくアーッテラにウィンクして見せた。
なにか機嫌の良くなるようなことでもあったのだろうか。
「やっと増援の手配がついたらしい」
「どれくらいの規模なんですかね?」
「追加で二個小隊」
短く告げた彼女に、アーッテラは目を細めた。
規模としては百人弱というところか。
中隊の規模としてはぎりぎりの規模になる。
もっとも、フィンランドの中隊とソビエト連邦の言うところの中隊ではまるで規模が違うので比較にもならないのだが。
「……将軍も”なんとか”がんばってみたってところみたいですね」
アーッテラの素直な感想を聞きながらアリナ・エーヴァは頷きながら、手袋をはめた手で自分の顎を軽く撫でてから首を傾げた。
「だろうね」
特になにか感想を付け加えるわけでもなければ、ハッグルンドに対する評価を告げるわけでもない。
アリナ・エーヴァのそんな様子に、副中隊長は肩をすくめた。
「しかし、まぁ、たたいてもたたいても沸いて来やがりますね」
きりがない。
アーッテラは目を細める。
「……奴ら、もしかしたら雪の上をまともに移動したことなんてないのかもしれないな」
アーッテラに応じるでもなく独り言のようにつぶやいたアリナは、じっと赤軍兵士の足元を見つめている。おぼつかない歩き方はいっそ笑ってしまうほどだ。
フィンランドの国民は、人生の半分をスキーに乗って過ごすようなもので、誰もがスキーの名手だった。さらに職業猟師が多いから、狙撃にも秀でた者が多い。
「南方の出身者が多いのでしょうかね」
「ふむ」
発言の内容にはかわいらしさのかけらもないが、アリナに対してそんなことを求めていないアーッテラは気にかける事もなく話しを続けた。
「あの無様な歩き方を見ればわかります」
雪の上をよろよろと歩いている赤軍兵士達。
あんなおぼつかない足取りでは、それこそ「ここに的がありますから狙撃してください」と言っているようなものだ。
「……ただ、厄介なのは奴らの物量です」
男の言葉にアリナは頷いた。
フィンランドの弾薬が切れるか、それとも赤軍兵士がいなくなるか。
未来はどちらがより早く訪れるだろう。
「手段を選んでいられないってことか」
雪の上でのフィンランド人の機動力は赤軍兵士を容易に上回る。
冬こそ彼らの本領発揮と言えた。
「奪えるものはなんでも奪え」
冷たいアリナの声に、アーッテラはちらりと背後に視線を流した。
その視線の先にはハカリスティ――青い鈎十字が描かれた戦車があった。
「了解、姉さん」
部隊の兵士たちは狙撃手が多いが、白兵戦も難なくこなす男たちだった。アリナ・エーヴァ自身はそれほど狙撃そのものを得意としているわけではなかったが、やれと言われればできないことはない。
もっとも、ヘイヘのような素晴らしい早撃ちは不可能だが。
雪景色の中に、銃剣突撃を繰り返しては撃ち殺されていく赤軍兵士達。
ただ物量で攻めてくるソ連兵士など、的としては最適だった。フィンランド兵たちは、ギリースーツに身を包んで、奇襲攻撃や、待ち伏せなどにより彼らに大きな損害を与えていく事に終始するが、それでも、味方が被害を被る事は免れられない。
「……”ヨシフのおじさん”が、無能で助かったよ」
不意につぶやいた彼女の言葉に、アーッテラは眼差しだけを向けると、彼女は気がつかない素振りでテントの前から歩いて行く。
知り合いのおじさんのことを話すような口ぶりの彼女に副隊長の男は苦笑いしてから後に続いた。
「姉さん、待ってください」
「ん?」
「忘れ物です」
ひょいと、サブマシンガンを放り投げられた。
アリナはそれを難なく受け取るとアーッテラに短く礼を述べる。
「ありがと」
「それで、増援はどれくらいで到着するんです?」
「さぁ? 一週間以内にはよこすそうだけど」
そう告げた彼女は軽機関銃の固い感触を確かめるように握ると、白い息を吐き出しながら目を細める。
「とりあえず、そんなことはどうでもいいや」
きっぱりと言い放って、鋭い瞳を前線へと向けた。
「……増援が来る前に、撃退してやる」
にたりと笑った。
「ですな」
まるで無限に沸いてくるようにも思える赤軍兵士に怯む事もなく、彼らはただ果敢に白兵戦を仕掛ける。スキーで神出鬼没に突撃して、各個撃破していくのだ。
「そういえば、姉さんの弟さん、空軍のパイロットでしたっけ?」
「”あっちはあっち”でいろいろ大変らしいけどね」
フィンランドの空軍もそれほど大規模なものではない。
むしろヨーロッパ諸国の空軍の中でも貧弱と言っていいだろう。
そんな中で、アリナの弟――エイノ・イルマリはパイロットとして素晴らしい腕を持っている、らしい。
姉も化け物ならば、弟も化け物。
「血、ですかねぇ……?」
「……なにが?」
「化け物っぷりがですよ」
悪びれもせずに告げたアーッテラに、アリナは朗らかに笑った。
そこが戦場だとは思えないような明るい笑い声。
「わたしは、飛行機は運転できないけど?」
「そういうことを言ってるわけじゃありません」
「でも、あの子より、わたしのほうが喧嘩は強いけどね」
二十五歳の弟よりも喧嘩が強い、と豪語するアリナに思わず「それは弟さんが手加減してるだけと違うんですか」とアーッテラは言いかけたが、余分なことを言うと陸戦のプロである「姉さん」が機嫌を悪くするので口を噤んだ。
「ところであなた、部下とじゃれるのは一向に構わないんですが、姉さんが本気出したら死人が出ますんで、自重してやってください」
言った事は別のことだった。
時折、部下とじゃれ合っている彼女に、気の毒にも半殺しにされかけている下士官がいるのをアーッテラは知っていた。
「別に殺してるわけじゃないからいいじゃないの」
「あのですね……」
他愛のない会話を交わしながら、ふたりの中隊指揮官はそうして前線へ視線を戻すと互いに銃の照準を合わせてから赤軍兵士が倒れていくのを視線で追いかけた。
「ま、つくづく思いますよ。姉さんが敵じゃなくて良かったってね」
「ほめられたと思っておく」
ころころと笑っているアリナは、けれどもその眼差しは戦場にあってさも当たり前のように殺伐としていて、その落差にアーッテラは横目で上官を見つめてから肩をすくめただけだった。
「ほめてませんよ」
呆れてるんです。
アーッテラはそう言いながら、上官の肩を軽くたたくと溜め息をつきながら、部下の狙撃手の元へと姿勢を低くして歩み寄った。
女性とはいえ、上官の心配などしていない。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネン――彼女は、モロッコの恐怖とまで呼ばれた百戦錬磨の猛者である。
部隊の中では、誰よりも生存確率は高い。
そんな化け物じみた人間を心配するだけ無駄だった。
「……いいんですか? 姉さん放っておいて」
部隊の下士官が狙撃銃を構えたままでアーッテラに問いかける。
「別に放っておいて死ぬわけじゃあるまい」
「そりゃそうですけど」
放っておいても死なない。
「ひとりで暴走したらどうするんですか」
「そうしたらそのときは自分でなんとかしてくれるさ」
飄々と告げたアーッテラは、機関短銃を赤軍兵士に向けたままで険しい表情を崩さずにいた。
なにせ、彼女は単身で敵兵の渦中に突っ込んで、白兵戦を楽しげに繰り広げてくるのだ。つい、一日ほど前には、対戦車砲を鹵獲し損ねたと大変悔しがっていたのを思い出す。
とにかく、女性とは思えないほど破天荒なのだ。
そうこうしているうちに、彼らの横。視界の隅にライフルを手にしたアリナが腰を屈めた姿勢のままですたすたと歩いてきた。
「ちょっと行ってくるから」
「はぁ……?」
数人の下士官を連れて、スキーを履いた彼女がアーッテラに告げると、背中に機関短銃を背負い、肩にはサブマシンガンを吊っていた。
そんなに重装備をしては思うように動けないのではないか、と心配もしかけるが彼女の副官であるアーッテラはいつものように肩をすくめてみせてから、連れだされるらしい部下達を見やってから「まったく」とつぶやいた。
「アーッテラは残って指揮を頼む」
「いいですが、あなたが死ぬと士気に関わるんで、死なないようにしてください」
コートを着た上官の肩をぽんぽんと叩いてから、彼は残りの部下達に顎をしゃくって見せた。
「おまえたちは自分の仕事をしろ。イワンを一匹も通すなよ」
重い装備を背負って、障害物の横をすり抜けるようにしてコッラー河を渡河したのはアリナ・エーヴァを含めて五人ほどだ。
彼女が選んだのは、全員が選りすぐりの兵士達だ。
そんな彼らを連れてなにをするのかと言えば、もう「アレ」しかない。
間もなくして、向かい合わせの丘から聞こえてきたのは爆発音と遠い悲鳴だ。おそらく、アリナらが赤軍兵士相手に白兵戦をしかけたのだ。
ソ連軍は、彼ら第十二師団第三十四連隊第六中隊が狙撃を主な攻撃手段にしているとしか思っていなかったはずだ。それを逆手にとったのだ。
スキーをはいた機動力を使った奇襲攻撃。
丘を越えてくる事はないだろうと、高をくくっていた赤軍の虚を突いた形になった。
モロッコでの作戦を経験しているアリナ・エーヴァは決して雪中の作戦だけを得意としているわけではない。
ごく普通の白兵戦こそ、彼女の本領だった。
銃を構え、近づいてきた敵兵に銃弾を撃ち込み、それでも尚抵抗する敵には近接攻撃をしかけることもできる。ナイフを抜き、血まみれの戦闘を繰り広げる。
鬼のような強さを見せつける彼女をアーッテラは想像した。
爆発音は、戦車を直接破壊した音に違いない。
やがて、数時間たってから、丘に姿を現したアリナら一行は、相変わらず赤軍兵士ともみあうような戦闘を続けていた。まるで、無限に沸く亡霊でも相手にしているようだ。
叫び声を上げながら銃口を向けてくる敵の顎を撃ち抜いて、アリナ・エーヴァは息を荒げながらサブマシンガンを肩に担ぐ。
恐らく、と、アーッテラは思った。
「弾切れか」
舌打ちした副長は、大きく腕を振って、丘に展開する部下たちに命令を下す。
「姉さんの退路を確保しろ!」
背後に迫り来る赤軍兵士を撃ち殺し、銃弾の幕をかいくぐりながら後退を続ける彼女の瞳はぎらぎらと輝いている。
片手にしたナイフは彼女がモロッコでの作戦以来使っているものらしい。
非常に殺傷能力の高いアジアのナイフだという噂だった。
「姉さん、そのまま撤退してください。退路は確保します!」
声が届いたのか、アリナは引きずるようにひとりの青年に肩を貸しながらちらりと視線をアーッテラに向けた。
ひどい傷を背中に負っている。
いや、アリナも右の腕から胸にかけて血まみれだった。
それは誰の血なのだろう。いやな予感にぞくりと背筋を振るわせたアーッテラだったが、今はそれ以上考える余裕はない。
ナイフを振りかざし、相手の軽機関銃を片手で押さえて無力化しながら、直接、敵兵の首筋をかききった彼女は勢いのまま腕をひいて、男のサブマシンガンをもぎとった。
同時にナイフを腰に戻すと、奪い取った銃を構えて、自分達にせまりくる赤軍兵士を撃ち殺す。
そして、アリナは下士官たちに怒鳴り声を上げた。
「走れ-!」
途中でスキーを失ったのか、深い雪を踏み分けて、四人の兵士達が走ってくる。アリナもよく見ればスキーを失っている。それでも尚、部下達の退路を確保するために、赤軍兵士と死闘を演じている。
頬をかすめている赤い傷跡は銃弾がかすった後かなにかだろう。
丘を駆け下りた友軍に腕をとられて、自陣に引き入れられた下士官達を確認して、アリナも一目散に走り出す。しかし、雪に足をとられてうまく走れない。
あたりまえだ。
雪の上をスキーもなく機動力を確保しようというほうが無謀なのだ。
咄嗟に二人の部下をつれたアーッテラがスキーを履いたまま丘をすべりおりると、銃弾の幕で、敵を牽制しながら、アリナの腕を引きずりあげた。
「怪我してるんですか」
「わたしは、大丈夫……」
「しかし、その血は……」
「わたしじゃない」
狙撃兵の展開する丘の上まで戻ったアリナはぺたりとその場に座り込むと血まみれのままで頭をぐるりと回す。
「ヴァラントラは!」
「無事です。ちょっと傷が大きいですが、致命傷ってほどじゃないんで」
彼女よりも数分先に救出されていた負傷兵――ヴァラントラは茶色の髪を赤く染めながら、顔をあげると痛みに顔を歪めながらも上官のアリナ・エーヴァに向かって片手をあげる。
「……大丈夫です。かすり傷です」
「後方で治療してもらってこい」
「まだやれますよ」
「どうせ、後から物資は不足するんだ。まだ足りてる間に治療してもらえ」
投げ捨てるようなアリナの言葉に、ヴァラントラは広い肩を居心地悪そうにすくめると、上官の言葉に従った。
「すみません」
「いや、いい」
ヴァラントラが別の隊員に肩を貸されるようにして、後方に下がるのを確認してから、アーッテラはアリナの横に膝をついて彼女を覗き込んだ。
「それで、姉さんの傷はどうなんですか」
「だから、わたしは怪我してないって言ってる。敵と、ヴァラントラの血だから」
確かに、アリナ自身には打ち身のようなものはあったが傷らしい傷はなかった。そのことにほっと胸をなで下ろした彼は、夕闇があたりを包んでいくことに安堵しながら、今度こそ上官を立たせると彼女に肩を貸した。
「スキーはどうしたんですか」
「なくした」
何人の相手をしていたのか、考えるだけでも恐ろしい。
相手が烏合の衆とはいえ、それでも集まればそれなりに脅威となるだろう。
「少し休んでください、一時間たったら起こします」
「……うん」
テントに付くやいなや、眠り込んでしまった彼女の血まみれのコートを脱がせてから、アーッテラは別の防寒着を着せると分厚い毛布をかける。
金色の髪にべっとりと血をつけたまま眠っている彼女に、副官の男は溜め息をついた。時計を確認してから帽子をかぶり直す。
「日が落ちてきて、イワンの攻撃がゆるんだな。見張りをたてて交代で休んでくれ」
恐らく、アリナ・エーヴァが奇襲をかけたことで、敵に躊躇が生まれたのだ。
交代で休む程度の時間はあるだろう。
部下達の様子を見ているアーッテラの視線の先で、モシン・ナガンを片手にした上背の低い男が歩いているのを見つけた。
「シムナ、どこへ行く?」
「見張りです」
短く淡々と応じた彼はそうして、アーッテラを振り向く事もなくスキーをはくと肩にライフルを担いだままで歩いて行く。
シモ・ヘイヘが見張りをしているなら心配ないだろうと、アーッテラは思ったが、なにやら違う胸騒ぎも感じて黙り込んだ。
「……そうか」
どちらにしたところで、アーッテラにはアリナ・エーヴァ・ユーティライネンを補佐する仕事がある。
彼が、その場を動く事は許されない。
彼女が動けない時に、部隊に司令を出すのはアーッテラの仕事なのだ。
とりあえず、アリナ・エーヴァが奇襲をかけてなにをしてきたのかは、彼女が目を覚ましたら聞けばいいだけの事だった。