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28 疲弊する前線

 ソルタヴァラ市は、フィンランド共和国とソビエト連邦との国境により近いラドガ湖畔の美しい街だった。その街でアリナ・エーヴァ・ユーティライネンは生まれた。ちなみに弟であるエイノ・イルマリ・ユーティライネンはソルタヴァラから百マイルほど離れたピエリネン湖湖畔の街であるリエクサの生まれだ。

 フィンランドは無数の湖が網の目状に広がっており、その数は数え切れないほどだった。一説には軽く十万を越えているというが、アリナ・エーヴァはそんなことにはまるで興味がなかったから、簡単に言うとどうでも良かった。

「普段はあってあたりまえのものがなくなると、人間って言うのは割と動揺することがあるらしいけどね」

 なにを考えているのかわかりにくい表情でアリナは読み飽きてしまった新聞をたたむと、ロッキングチェアの上に放り出した。その瞳の奥にどこか厳しげな光が浮かべられているのを、副官であるユホ・アーッテラは見逃さない。

「どうしたんです? 突然そんなことを言い出して」

「なんかさ……」

 珍しく言いよどむ彼女は、指揮テント内のテーブルに広げっぱなしにされている地図を睨むように凝視している。

「やだねぇ」

 長い沈黙の後にぽつりと呟いた彼女は、顎に指先で触れながら考え込んでいる。

 男ではないから無精髭こそないものの、見事に薄汚れた彼女の横顔はそれでも充分に人目をひくと言っていいだろう。

「第十三師団は、モッティを一個ずつ潰してるらしいけど、はたして間に合うのか」

 なにが、とはアリナ・エーヴァは言わずにそうして再び沈黙の中へと戻っていく。

 彼女が「間に合う」と言った言葉に、ユホ・アーッテラは多くのものを含んでいるように感じられた。

 十三師団がモッティを潰しきるのが間に合うのか。

 十二師団がソ連軍をたたきつぶすのが間に合うのか。

 そして、ソ連軍の援軍が間に合うのか。

 多くの意味を抱え込みすぎた女性指揮官の言葉にアーッテラは飯盒の中で温め直したコーヒーを彼女の金属製のカップに注ぎながら、その横顔をじっと見つめる。

「そういえば、十三師団と言えばヴァーラニエミ大尉がいましたね」

「ミカちゃんかぁ……」

 言いながら熱いコーヒーに口をつけた彼女は「あちっ」と悲鳴を上げてからカップから唇を離した。

「熱いのはわかってるでしょう、うかつに口をつけたあなたが悪いんですからね」

 小言めいた彼の言葉に、アリナ・エーヴァは肩をすくめてみせてからロッキングチェアに深く背中を預けるとじっと目前を睨み付けたままで考え込んだ。

 ミーカ・ヴァーラニエミ大尉とアリナ・エーヴァ・ユーティライネン中尉。

 このふたりはユホ・アーッテラだけが思っていることではないが、充分なほどフィンランド国防陸軍内では危険人物だ。本人たちが自分たちを平凡だと思っているからなおさら手に負えない。

 アリナ・エーヴァとミーカ・ヴァーラニエミ。

 階級はヴァーラニエミのほうが高いが、それはごくたまたまで、彼が「男」だったからアリナよりも先に大尉になっただけだろう、と、アーッテラは思う。

 このふたりはよく似ているのだ。

 混沌とした戦場の中へと嬉々として飛び込んでいく。

 まるで、暗闇の中を照らす強い光のようだった。

「わかってるよ」

 カップの中の熱いコーヒーに息を吹きかけて冷ましながら、ふてくされたようにアリナは上目遣いにアーッテラを見上げる。

「ミカちゃん、どうしてるだろうね」

 陸軍司令部の命令で、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンとミーカ・ヴァーラニエミは意図的に異なる部隊に配属された。それについてはお互いが「清々した」と思っているが、それでも、時折我に返るように「あいつはどうしてるだろう」と思うのだ。

「元気でやってますよ。姉さん(シス)と一緒でそうそう死ぬような人じゃありません」

「……まーね」

 強面(こわもて)で長身の、いかにも屈強な男を「ミカちゃん」などと呼ぶのは、アリナ・エーヴァくらいだろう。

 彼と同じほど強いからこそ、冗談でからかうことができるのだ。

 いや、と、ユホ・アーッテラは思う。

 もしかしたら、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンのほうが強いかもしれない。少なくとも、このふたりが真剣にやりあったところなど見たことがないから断言はできないが。

 万が一、アリナ・エーヴァとミーカ・ヴァーラニエミが敵同士になれば、それこそ血で血を洗う戦いになるだろう。

 それだけは想像がついた。

「毎日毎日同じことの繰り返し。アカの奴らは攻めてきて、こっちはそれを撃退する。でも、本当に同じ繰り返しなのかな……」

 ソビエト連邦が、包囲(モッティ)戦術で分断包囲された第一六八狙撃兵師団と第一八狙撃兵師団、そして第三四機甲旅団の救出のために大本営命令によって四個師団の大部隊が出発している。

 フィンランド陸軍第四軍第十二師団の物資も、兵員も二月のはじめにはいって枯渇状態に陥っていた。言うなれば、第十二師団はいつ崩壊してもおかしくない状況でもあると言っていいだろう。

 それを支えているのは、兵士たちの気力だけだ。

 誰もが祖国を守るために戦いを続けている。

 アリナが再三再四気にかけているのは弾薬などを含めた物資のことだ。

「……やだやだ! 貧乏って!」

 からりとした口調で言い放ったアリナ・エーヴァは後頭部で両手を組むとじっとテントの天井を見つめたままで考え込んでいる。

 一月の末からアリナ・エーヴァは、昼間は最前線で勇ましく兵士たちを率いて、敵を撃退し続けていた顔とは異なるそれを見せるようになっていた。ソ連軍の攻撃がおさまる夜になると彼女は別人のように険しい表情を垣間見せる。

 それでも、部下たちが所用があって彼女のテントを訪れると、普段と変わらない不敵な笑顔をたたえて彼らを招き入れるのだ。おそらく、アリナのそんな険しい顔を知っているのは、副官であるユホ・アーッテラだけだろう。

 どんなに困難な状況に陥っても、きっと彼女は自分に課せられた役割を演じ続けるに違いない。

 ソ連軍との交戦が小康状態になって、部隊の損耗率の報告を受けるアリナ・エーヴァは、苦々しいものを感じているだろうが、部下の前ではそんな表情をかけらも見せはしない。

 ご苦労だった、と生き残った彼らをねぎらってただ、淡々として報告を受けるのだ。

「貧乏っていうのは厄介ですね」

「そうだねぇ」

 溜め息混じりにアーッテラが相づちを打つと、アリナも長い睫毛を瞬かせてから応じる。ソ連軍のモッティを撃滅した後は、その鹵獲された物資を必要とされる戦線へと回されるのだが、それでも、魔法でもないからすぐに届くわけではない。

 要するに、戦場の厳しさは余り変わらない、というのが現実的なところだった。

 ちなみにオルガン銃――四連装の七.六二ミリ対空機関砲もそう言った品だった。

「イワンより、貧乏が一番の敵だと思うよ」

 握り拳を固めて力説する上官に、アーッテラは「まったくだ」と思う。

 せめて弾丸と兵員の余剰があれば、毎晩のようにこんなに中隊指揮所でふたりで頭をつきあわせて悩まなくてすむ。

 そして、彼女は部下たちが掩蔽壕(えんぺいごう)でその日の疲れを癒している間、無線電話に向かって怒鳴りつけて物資の補給を要求するのだ。

 もちろん、怒鳴って物資の補給を要求したところで、実際に前線に届かないことはわかりきっている。

 物資が届かないのではない。

 物資が「ない」のだ。

 だから、アリナ・エーヴァがいくら両目をつり上げて無線電話の受話器に怒鳴りつけたところで意味などない。

「中隊長としては頭の痛いところですな」

 うんざりとした様子でいつもの如く無線電話の受話器をあげたアリナに、ユホ・アーッテラがテーブルの前に置かれた椅子に腰を下ろした。

 ちろりと視線を流しやったアリナ・エーヴァが受話器に向かって言葉を連ねている。いつものことだが、電話をはじめた時点ではそれほど語気は荒くないのだ。

「……だからですね、これ以上どうしろって」

 どうもこうもない。

 アリナ・エーヴァ・ユーティライネンが第六中隊の中隊長としてやらなければならないことはひとつだけだ。

 そんなことは誰よりもアリナ自身がよくわかっている。

「は?」

 耳に受話器を押し当てていたアリナの口から素っ頓狂な声が上がった。

 そんな彼女が意外で、ユホ・アーッテラは全軍唯一の女性士官でもある上官へと視線を向ける。

「……本当ですか?」

 毒気を抜かれたようなアリナの声。

 アーッテラに視線を投げかけてきた、彼女は右手の親指を立ててから片目をつむってみせた。

「わかりました。あとひとつだけ言っておきますけど、こないだみたいに補給担当のロッタが死ぬような事態は金輪際ご免ですからね」

 念を押すようなアリナの言葉と共に、おろされた受話器を見やってからアーッテラは口を開いた。

 先日、ユホ・アーッテラが部隊へ戻ってきたときに、同行していた補給担当のロッタが爆撃機の攻撃を受けて死亡した。

 第三十四連隊第六中隊の副中隊長であるアーッテラが部隊に戻ってきたのは喜ばしいことだったが、それでも、なんとも後味の悪い話しだった。

 もちろん男の兵士だから死んでも良い、というわけではない。

 しかし、ロッタ・スヴァルト協会に所属し、従軍しているから死ぬ覚悟もできているだろう、という理屈は通らない。

 彼女らはあくまでも非戦闘員でしかないのだから。

「……どうしたんです? 姉さん(シス)

「第十三師団の、第四猟兵大隊が西レメッティの包囲陣(モッティ)を落としたそうだよ」

「ほぅ? それは朗報ですね」

「うん、それでさ。鹵獲された武器をこっちにも回してくれるらしい」

 西レメッティから、アリナたちが展開しているコッラー地方はそれほど離れていない。補給に時間はかからないだろうから、ありがたい話しだった。

 ほしいものが回されてくるかどうかは謎が大きいが、それでもないよりはましだ。

「あぁ、そうだ。姉さん。夜になってこっちも夜間の行動になれている連中を選抜して鹵獲部隊を出しています。とりあえず、小隊長たちからライフルの弾は拾いにいきたいっていう意見が出まして……」

 幸運なことにフィンランド軍の銃弾と、ソビエト連邦の銃弾は規格が同じだ。

 死んだ敵の持っていた武器をそのまま流用することもできる。

 ソビエト連邦は自分たちの手で作った武器で殺されていくのだ。

「あぁ、いいよ。ユホちゃんの判断でその辺は勝手にやって」

 どことなく投げやりにも聞こえるが、事細かいところにまで彼女は関わっていられない状況に陥っている。

 なによりも、アリナはアーッテラを信頼していた。

 彼は無謀な行動に走るような人間ではない。

 少なくとも、自分よりはずっと慎重な(サガ)だ、とアリナ・エーヴァは思っている。

「了解しました」

 第十三師団が保持しているモッティは十以上だ。

 そこをひとつひとつ潰しているわけだから骨の折れる作戦だろう。しかし、そうでもしなければフィンランド軍はソ連軍(リュッシャ)には歯が立たない。

 現在の状況を考えれば最良の手段なのだから、どれほど多くの意味で切迫した状況にフィンランド軍が立たされているのかと言うことを示している。そのような事態をひっくるめて、アリナ・エーヴァは「貧乏が一番の敵だ」と言うのだった。

「……地雷に、気をつけなよ」

「はい」

 ソ連軍の物量は驚異的だ。

 未だにそれが枯渇する気配もない。

 すでに二ヶ月以上の戦闘でフィンランド軍が消耗しきっているというのに。

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