23 魔女への忠誠
翌日、日が昇る前にすでに指揮テントから出てきた彼女は、感情の揺れを余り感じさせない眼差しで歩哨の青年兵に歩み寄った。
「おはよう」
「おはようございます! 姉さん」
「様子は?」
「動きはありません」
歯切れの良い回答を受けて、アリナ・エーヴァは青年の見つめる森の先を注視する。その青い瞳は、部隊の誰もが憧憬をもって見つめるその人のものだ。
女だからとか。たかが女だ、とか、そんなことを「アリナ・エーヴァ・ユーティライネン」に対して思ったことなど一度もない。
「そうか、ご苦労。時間になったらとっとと見張りを交代してしっかり休め」
「はっ」
軽く青年の肩をたたいた彼女はそっと両目を細めてから、凍えるほど冷たい空気の中で考え込んだ。
――気にかかるのは。
そう。
彼女が気にかけているのは、もちろん祖国フィンランドの行く末ももちろんのことだがまだまだ新米の兵士でしかない弟のことである。
彼が子供の頃はよく叩いて泣かせたものだが、今ではすっかり感じの良い青年へと成長した。
もっとも、それはアリナにとってみれば「外見だけ」だ。
アリナ・エーヴァとは異なり、どこか穏やかで優しいところを持っている彼が人殺しという任務を前にして正気を保っていけるのだろうか。
少なくとも、彼女自身は若い兵士たちとは違う。
多くの若い兵士たちが初めての戦場であるのに対して、アリナはモロッコの植民地戦争を経験している。
また、中には第二大隊指揮官のようにスペイン内戦に義勇兵として参加していた者もいるが、あくまでそれらは一握りでしかない。ほとんどの者たちが弟――エイノ・イルマリと同じでこのソビエト連邦との戦争が初陣だった。
どれだけの人間が傷つくことになるのか。
「……――わたしは」
アリナ・エーヴァは続く言葉を飲み込んで、かすかに片目を細める。
そんな上官の姿に、歩哨の兵士はちらと横目で視線をやった。
けれども彼はなにも言わない。なにかを言葉にするその資格もない。
軍隊とはそういう場所だ。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは、兵士たちの個人の事情を聞く権利があるが、その逆などあり得ない。
――わたしは、もう見慣れた。
それを、人は非人道的と思う者もいるかもしれない。
本来、女――メスという生物は次世代を産み育むものだという。しかし、自分の手は血に濡れている。
もう何人の人間を殺したのかとっくの昔に数えるのをやめた。
彼女がフランス外人部隊に従軍したばかりの頃は何度か殺戮という行為に神経をやられて嘔吐をしたものだが、今ではすっかりそんなこともなくなった。
「アーッテラ」
「はい」
ふと彼女が背後に立つ男を呼んだ。
三十代にさしかかろうかという彼女の副官である。アリナ・エーヴァの唐突な呼び掛けに、しかしユホ・アーッテラも迷いをかけらも見せずに応じた。
「……わたしは、まだ”人の形”をしているか?」
問いかけに、アーッテラは即答できなかった。
その言葉は言葉通りの意味など持ってはいない。
「アーッテラ、前、おまえは言ったね? わたしが飲み込まれそうになったら引きずり戻してくれると」
「はい」
奈落の底から伸びた長い腕に引きずり込まれそうになる。
目の前に広がるのは血の色にも似た暗黒だけだ。
「ご心配なく。あなたが、あなたの目で前を見つめることができなくなったら、俺が引きずってでもこの場に戻します。あなたが、たとえ人の形をしていなくても」
「頼むよ」
肩越しにアリナ・エーヴァは振り返ってからそっとほほえんでみせる。
「……はい」
ほほえんだアリナの瞳に、ユホ・アーッテラは睫毛を伏せて足元の積雪を見つめると、上官同様にほほえんだ。
「俺にとって、フィンランドは大切な祖国です。ですが、祖国よりも、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという人に、忠誠を誓っています。たとえ、この戦いの後にどんな結果が待っていたとしても、俺はあなたについていきます」
「いかれてる」
アーッテラの言葉に、からからと声を上げて笑った彼女は手渡された毛皮の帽子を受け取って目深にかぶるとくるりと踵を返した。
指揮テントへと向けて歩きだす。
「体調はもういいんですか?」
「なんだ、心配してたの?」
アリナは大股に闊歩しながら滑りやすい雪を踏みしめた。
あちこちに雪像のようなソ連兵の凍死体が立てられている。
ちなみにアリナ・エーヴァの悪趣味だ。
「当たり前です。あなたに倒れられたら困ると言ったでしょう」
小言をはじめる副官の青年にアリナは肩の上でぱたぱたと手を振って見せてから唇の端でにたりと笑うと振り返る。
「心配いらないよ、わたしをなんだと思ってる」
「陸戦の化け物、ですかね」
「わかってんじゃん」
軍服に分厚いコート、そして防寒用のグローブに野戦ブーツ。毛皮の帽子をかぶった彼女はすぐに手を伸ばせるところに大降りのナイフを装備していた。
それは彼女がフランス外人部隊に所属していた頃からの相棒でもある。
そのナイフで殺した人数は数知れない。
言わば、アリナ・エーヴァにとっての死に神の大鎌だった。
「姉さん、俺たちは姉さんの手足です。どんな命令でも従います」
ふと真面目なアーッテラの声に、アリナは驚いたように顔を向けた。
「姉さんが迷っているのはわかっています。ですが、俺たちは姉さんが銃剣突撃をしろと命じるなら、それに従う覚悟はできています」
――あなたと共に戦うと心に誓った。
配属されたのがモロッコの恐怖と謳われた女性の部隊だからなどではない。
「俺たちは、あなただから忠誠を誓うんです」
「……――嬉しいこと言ってくれる」
銃剣突撃をしろと言われればそれにすら従ってみせる。
そう言ったアーッテラの強い瞳に、彼女はひどく優しげな微笑をたたえた。おそらく、一瞬前に見せた驚いたような顔がアリナの本心だったのだ、とユホ・アーッテラは判断した。
彼女が決して無駄な犠牲を望んでいるわけではないと知っている。
だから、昨日、連隊司令部との無線で立腹していたのだ。
これ以上損害が大きくなっては作戦遂行に支障が出るから、という理由だけではない。部隊が縮小すればするほど、個人にかかる負担は大きくなり、結果的に損耗を大きくするだけだ。
だから、彼女は補充部隊をなにがなんでも寄越せと怒鳴っていたのだ。
もちろん、相手にそんな余裕がないこともわかっていて。
「若いのは死んじゃいかん」
冗談でも告げるような口ぶりで笑った彼女はそうしてひらりと一度だけ肩の上で手を振ると、指揮テント内へと戻っていった。
日が昇ってからすぐに赤軍の襲撃があった。
もっとも、この日のソ連軍による攻撃は午前中に一度きりのほんの一時間ほどで、第六中隊の迎撃であっという間に退却してしまった。
そんな赤軍の様子にアリナは軽い胸騒ぎを感じた。
雪の上には新しいソ連兵の死骸が転がっている。
スキーを履いたアリナは、ストックを手にすると背中に機関短銃を背負って滑り出す。
「姉さん、どこへ……っ!」
アーッテラの問いかけにも、アリナ・エーヴァは止まらない。
「ちょっとその辺を見てくる。おまえはここを守っていろ」
昨日これが倒れていた女性なのかと思えるほどの軽快な動きで雪の上を滑っていく彼女は、狙撃兵でもいれば良い的になりかねない。
焦った様子のアーッテラが制止をしようとするが、素早い彼女はあっという間に声も届かない距離へと消えていく。
「大丈夫ですかね……」
アールニ・ハロネンがアーッテラに歩み寄って問いかければ、副官の少尉殿は重いため息をついた。
「もう放っておけ」
彼女が元気ならそれでいい。
「副長も苦労しますね」
「別に俺はいいんだよ、俺は」
ハロネンが笑うと、アーッテラは首をすくめてからあたりを見回した。
それからしばらくしてアリナは戻ってきたが、相変わらず見事な血まみれだった。
彼女の説明によると、どうやら付近に赤軍の斥候が潜んでいたらしい。
「それにしても、あんたは大概化け物ですね」
アーッテラの再三の溜め息にアリナ・エーヴァはひょいと彼に銃弾を投げ渡した。
「一応、お土産」
「どうも」
おそらく問題の斥候を殺した時に奪ってきた鹵獲品だろう。
「なんで斥候があたりにいるとわかったんです?」
「勘」
言い切った彼女に、アーッテラは自分の銃に弾を込めながらちらと視線をあげるとアリナを見つめる。
「ま、それは冗談だけどさ。退却が早すぎるから、狙撃兵か斥候を仕込んだんじゃないかなって思ったんだ」
「狙撃兵だと厄介でしたね」
「……そだね」
結局、狙撃兵が陣地近くに入り込んでいたわけではなく、情報収集にあたっていた兵士がいただけだった。
「それで、何人いたんですか?」
「……一個分隊かな」
「豪勢ですな」
一個分隊。
今のアリナにとっては喉から手が出るほどほしい戦力だ。
これが、自分の味方であったならばなぁ、と思ったと付け加える彼女にアーッテラが笑う。
「まったく羨ましい話しです。ところで、姉さん」
昨日の一件などなかったように言葉を交わすふたりの信頼関係は驚くべきものだ。
唐突に話題を変えたアーッテラに、アリナは眼差しを向けてから首を傾げた。
「姉さんが出かけてる間にシムナが戻りました」
「そりゃ結構」
アーッテラの報告では、第五中隊の陣地を監視する射撃統制所をものの数日でシモ・ヘイヘが射貫いたそうだ。
ちなみに第五中隊の掩蔽壕がやたらと豪華だったらしい。
「……快適だったそうですよ」
ヘイヘの感想を付け加えたアーッテラにアリナが毒づいた。
「羨ましいことで」




