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2 三十二人対四千人

 アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。フィンランド国防陸軍中尉。

 彼女はこの年、年齢が三十五歳になる歴戦の前線指揮官である。やることなすことが破天荒だが、不思議と彼女は兵士たちの信頼を集める才能があった。なによりも、数年前のモロッコでの戦闘でフランス外人部隊における華々しい功績があったせいかもしれない。

 ――モロッコの恐怖。

 味方からは彼女はそう呼ばれる。

 アリナ・エーヴァは考え込むような表情のまま、雪景色の中に行き交う部下達の姿を見つめていた。

 召集令状が来てから長かった金色の髪はばっさりと切られて、ショートカットになっていた。

 戦場で戦う兵士にとって不潔になりやすい長髪などもってのほかだったし、なによりも邪魔なだけだ。

姉さん(シス)、どう思います?」

 「姉さん(シス)」と呼び掛けられて、彼女はちらと視線を流しやると短く切りそろえられた金色の髪を指先でかきあげてから立ち上がった。

 二週間前から降り続く雪のためにコッラー地方は純白に覆われはじめていた。そして、その雪はやがて進撃を続けるソ連軍の足並みを鈍らせている。

「どう?」

 どういう意味なのか、と短く問いかけるとがたいの良い男たちは、きつめの美人に視線を集めた。

奴ら(リュッシャ)です」

 しらばっくれたように瞳をあげるアリナ・エーヴァは、口元に微笑をにじませてからコートの襟元を指先で軽く直す。

姉さん(シス)、イワンの奴らはフィンランド(スオミ)を舐めているんじゃないんですか?」

「……そーかもね」

 気の抜けた声音で短く言いながら、分厚い手袋をした手を閉じたり開いたりしてから、自分の横に置かれた狙撃銃を手に取ると革のベルトで背中に背負う。

 北の小国フィンランドと、大国ソビエト連邦では物資も人口も桁違いだ。ソビエト連邦にとってみれば、それだけの理由で充分に過小評価する価値があるだろう。

 数字上で見れば圧倒的な物量差で押しつぶす事ができる。

 おそらく、彼らはそう思っているだろう。

 中隊、とは言っても、彼女の手勢は現在たったの三二人。

 もっとも、自分も部下達と同じく、手駒のひとつでしかない。一度瞼をおろしてから再び目を開いたアリナ・エーヴァは丘の向こうに展開されるソ連軍を見つめた。

 戦車、歩兵。

 とにかくものすごい大軍だった。

 アリナの所属する第四軍は四万人。対する、ソ連第八軍は十二万人に上る。単純計算ではたった三倍に過ぎないが、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンの指揮する第十二師団第三十四連隊第二大隊第六中隊の任された防衛線だけで言うならば、三十二人対四千人。

 アリナ・エーヴァ・ユーティライネンの中隊が任されたその場所が激戦区になることは容易に想像できる。

 わかっていて自分をここに配置したな、あの狸親父。

 内心でアリナはハッグルンドに毒づいて舌打ちを鳴らす。

 その圧倒的な物量差。

 絶望的にも思える状況は悲観的に考える者がいればそれこそ戦う前から戦意喪失していたかもしれない。

 念のためスキーの板とストックを片手にして、アリナは白い息を吐き出した。

「すごい大軍だな……」

 戦場にいるときと、そうではないときのアリナはまるで人が違う。

 感嘆するような彼女の声に、男たちはちろりと視線を前線指揮官に集中させる。そうして彼女の瞳を見た男たちは、一様にぞっとした。

 まるでうっとりとソ連の大軍を見つめている彼女の瞳の奥に死に神でも見たような気がしたからだ。

「わたしたちの相手は、”四千人くらい”か」

 ぽつりぽつりとつぶやく彼女に、部下の狙撃兵たちは顔を見合わせてライフルの動作を確認していた。

「なに、中尉殿」

 そこで初めて口を開いた男がいた。

 寡黙な男で猟師出身のスナイパーだ。射撃の大会では幾度も表彰台に上っている。

 名前をシモ・ヘイヘと言う。

 年齢はアリナ・エーヴァよりも一歳年下の三十四歳だ。

「……シムナ?」

 シムナというのは、シモ・ヘイヘの愛称である。

「イワンが四千人なら、一人百二十五人ほど始末すればいいだけのことです」

 上背の低い狙撃手の男は無表情のままで言い放つと、白いギリースーツを身につけたままで旧式のモシン・ナガンを自分の体に立てかけた。

「あなたはモロッコの恐怖とまで呼ばれる人だ。そんな人がここを指揮している。それなら、俺たちは、”できる”と言った事を可能な限り実行するだけです」

 感情の抑揚を感じさせることもなく淡々と語る男に、アリナ・エーヴァは口角を引き上げてから苦笑する。

「そう……」

 そうだ。

 もっと簡単な事を忘れていた。

 彼の言葉に思い起こさせられる。

 自分は何者なのか。

 自分がどうして必要とされて、どうしてここにいるのか。

 どうして戦うのか。

 別に弱気になったわけではない。けれども、目の前に展開されたあまりにも圧倒的すぎる戦力差に目を奪われた。

「モロッコの恐怖」

 自分がそう呼ばれていること。

「ここで、イワンを足止めする。おまえら、どこまでできるかなんて考えるな。ピクニックに出かけるぞ!」

 まるで男が言うように兵士たちを鼓舞する姿。

 フランス外人部隊にいた頃はいつでもこうだった。

 男と変わらない言葉使いで話し、そして男たちと共に敵兵に突撃して薙ぎ倒し、銃をつきつけ、容赦なく命を奪う。

 死に神のように戦った過去が彼女の脳裏に蘇る。

 戦車が進む音が聞こえてきた。そっと耳をすまして、アリナ・エーヴァはスキーを履いた足で体を支えると、銃を片手にして滑り出す。

「おまえら、ね……」

 おしとやかな女性士官だと思っていたわけではない。

 サブマシンガンを小脇に抱えてスキーで滑っていく中隊長殿に、男たちは狙撃銃を構えたままで苦笑した。

 丘陵地帯の上に姿を現したソ連兵達に、ライフルが火を噴いたのはそのときだった。

 ばたばたと倒れていくソ連兵たちの中で生き残ったものはそれでもコッラーを突破しようと試みる。しかし、そんな生き残りたちに対して、狙撃ではなくサブマシンガンや機関短銃の餌食になっていった。

 殺戮の丘(キラーヒル)と、後にそう呼ばれることになる丘。

 彼らはそこに展開していた。

 ソ連軍というのは、統制された動きをしているわけではない。数は多いが、はっきり言って作戦行動は滅茶苦茶だった。歩兵は歩兵でただ馬鹿のように突っ込んでくるだけだったし、戦車も同じだった。

 いわゆる、前時代の銃剣突撃というやつだ。

 ただ、「万歳(ウラー)!」と叫んで突進してくるだけで、烏合の衆と大して変わらない。ようよう銃弾の幕を越えてアリナの手前にまでサブマシンガンを振り回しながら走ってきた青年兵士がいたが、その男はアリナの見事な膝蹴りを食らった瞬間に背中からナイフを突き立てられて絶命した。

 しかも、膝蹴りをいれる一瞬前に片手を下げてスキーを外して足の自由を確保している。見事なものだ。

 表情も変えずに敵兵を殺害していくその横顔はまさに鬼神のようだ。

 同時に顔を上げると、そのままサブマシンガンを構えて、数メートル先にいる兵士の頭を蜂の巣にしてから、再びスキーをつけ直すとほぼ同時に滑り出して素早く撤収する。

 一分にも満たない間に、二人の兵士を伸した彼女は、中隊の布陣する丘に戻ってきてからひらりと片腕に釣ったサブマシンガンを二丁と狙撃銃を部下達に手渡した。戻ってくる時に倒れたソ連兵から鹵獲したものらしい。

 物資においてはなにからなにまで足りていないフィンランド軍だ。

 アリナの手土産に、部下達は「おぉー」と賞賛の声を上げた。

「使え」

 乱暴な言葉使いになっても誰も気にしない。

 そこは戦場だ。

 ご丁寧な言葉で命令を下していたら、言っているほうも聞いている方も死ぬ。

「丘向こうを見てきたけど、アカのやつらはまだわんさかいる。弾薬は充分節約するように」

 とにかく銃弾も足りなければ手榴弾も足りない。

 もちろん戦争の要とも言える砲台も足りなければ戦車もない。

 フィンランド陸軍はまさにそういった状況だった。

「そしたら、また姉さん(シス)が持ってきてくれるんじゃないんですか?」

「そのときは、自分で拾ってこい」

 笑っている部下の下士官の頭を軽くサブマシンガンの先で小突いてアリナは笑った。

「とりあえず、偵察ご苦労さまです」

 部隊の指揮に回っていた副中隊長――ユホ・アーッテラにぺこりと頭を下げられて、アリナはほほえんでみせると、すぐに視線を丘向こうに戻した。すでにその瞳はきつい色彩が戻っている。

 無言で部下のねぎらいに頷いてから、彼女は手渡された機関短銃を抱え直した。

「俺らにゃ、モロッコの恐怖って言われた姉さん(シス)がいるんだから、怖いもんなんてありゃしませんよ」

 名声を得た前線の指揮官というのは、兵士たちに充分な安心感を与える事ができる。第十二師団第三十四連隊第二大隊第六中隊もまさしくそういった状況だった。

 機嫌良く告げる下士官たちを一瞥して、アリナは狙撃手たちが取りこぼしたソ連兵たちに機関短銃を向けた。

 三十二人対四千人の戦闘では、指揮官だからとぼさっとしているわけにもいかない。そもそも、自分も戦闘に参加する方が性に合った。根っからの戦士である彼女は、部下達の様子を見守っている。

 これから、いよいよ戦闘は激しくなるだろう。

 なにせ、自分達は三十二人しかいない。

 対するソ連兵は四千人。その中の何人かが政治将校だとしても、三十二人しかいない味方を考えれば、四千人というのは後から後から沸いてくるようなものだ。

 無限と言ってもいいかもしれない。

 白いギリースーツを着込んで雪景色の中に紛れ込み、伏せるようにしてそれぞれライフルを構えている狙撃兵たち。

 そのなかで、やはり目立った印象があったのはシモ・ヘイヘだった。

 スコープもなしに旧式のモシン・ナガンを構えている。どれだけ視力がいいのだろうかと考えている間に、彼は冷静に引き金を引く。表情一つ変えることもなく、彼は確実に一発の弾丸でひとりの赤軍兵士を撃ち抜いていった。彼の扱うライフルはボルトアクションライフルで、ただ淡々とヘッドショットを成功させていく彼を見つめてからアリナは視線を前方に戻した。

 機関短銃を構え直して、照準を合わせる。

 部下のスナイパー達が取りこぼした戦車や、兵士達に狙いを定める。

 もっとも、取りこぼしなどほとんどないと言っても良かったのだが。

 なにせ、ヘイヘの早撃ちが尋常ではないのだ。モシン・ナガンは五発しか装填できないというのに、一分間で約十六発もの早撃ちをこなしてみせるのだ。

 銃弾が頭の上を飛び交う中、雪原を匍匐前進したアリナは、近くにいた副長アーッテラのところまで近づいてから、頭上の帽子を軽く押さえると小さく問いかけた。

「彼はすごいな」

「……一騎当千ですね」

 応じた副長の言葉に、アリナ・エーヴァは頷いた。

 そうこうしているうちに、戦車のキャタピラの音が聞こえてきて、アリナは目線だけを丘の向こうにやるとそっと目を細める。

「戦車も止めますからね、あいつは」

 あいつ――そう言いながら、副長のアーッテラはシモ・ヘイヘに視線を滑らせる。そして、すでに狙いを定めていたらしい彼は、やはりただ冷静に引き金を引いた。

 戦車が止まる。

「ちょっと行ってくる」

 確実に戦車が止まったのを確認してから、アリナ・エーヴァはスキーをはくと身軽に立ち上がった。

「え? あ、ちょっと待ってください、姉さん(シス)!」

 もっとも部隊の隊長である「姉さん」がこう言い出した以上、聞かない性格なのはアーッテラもわかっていたから、「待ってください」と言った彼の言葉に止まる事もなく、丘を滑っていくアリナの後ろ姿にやれやれと溜め息をついた。

「姉さんを援護しろ!」

 アーッテラの命令が飛んだ。

 彼らの指揮官である「姉さん」が何をしようとしているのかはおおかた想像がついている部隊の面々は、サブマシンガンで銃弾を赤軍兵士に撃ち込みながら、戦車との距離を詰めていく彼女を援護する。

 勇猛果敢というか、そもそも無謀というか。

 敵に腕の良い狙撃兵がいたらどうするんですか! とアーッテラは思うが、どうせ言ったところで「大丈夫」と根拠もなく笑うだけだろうから溜め息混じりに援護するだけだ。

 副隊長のアーッテラの心労はともかくとして、上官のそんな様子に部下達は奮い立たせているのは事実なのだ。

 戦車から顔を出した赤軍兵士の頭を至近距離で撃ち抜いたアリナは、手早くスキーを脱ぐと戦車に駆け上がる。

 一瞬で男たちの死体を引きずり下ろして戦車の操縦席に滑り込んだ。

 フィンランド兵に乗っ取られた戦車に向けて、銃弾が飛んでいく。戦車の側面に当たったそれは、鋭い神経質な音をたてる。

 男顔負けの戦闘技術を見せつける彼女に、部隊の面々は感嘆せずにいられない。目の前にいる彼女は確かにモロッコの恐怖と呼ばれる人なのだと。

 アリナ・エーヴァの手によって動き出した戦車を確認して、第六中隊の面々は冷静に自分の仕事へと戻っていく。アリナ・エーヴァを援護し、そして馬鹿のような突撃を繰り返す兵士を撃ち殺すという淡々とした作業。

 心を凍らせる。

 敵を取りこぼしたら、自分が死ぬのだ。

 だから、丘を下りきる前に彼らを殺さなければならない。

 しばらくしてから戦車を駆って戻ってきたアリナに、副長のアーッテラは長い溜め息をついた。

「肝が冷えるんで、そういうのはほどほどにしてくださいよ」

「シムナが戦車を止めてくれたから、なんとかなるかと思って」

「いつの間に戦車の操縦なんて覚えてたんです?」

「まぁ、基地にたまに遊びに行ってたから」

 あんた、素行不良で除隊勧告受けてたんじゃなかったんですっけ、と思いながらアーッテラはもう一度溜め息をついた。そんな彼に肩をすくめたアリナは、片手で死んだソ連の戦車長を戦車の外に引きずり出して雪の上に放り投げると、ハッチの上に顔を出したままで息を吐き出した。

 彼女の目線の先には雪の上に放り出された、スキー板とストックが落ちている。

「とってきますよ」

「頼んだ」

 アリナはそんなアーッテラに片手をあげると、今度は副長の彼がスキーをはいてストックを握りしめる。さっさと滑り出して銃弾の幕の中をくぐり抜けると上官のスキー板一式をひろって戻ってきた。

「いつもすまないね」

「……全くです、もう少し後先考えて行動してくれないと困ります」

 ぶつくさと文句を言いながら、アリナ・エーヴァにスキーの板を返したアーッテラは、それにしても、と背後のソ連兵士を見やった。

「本当に馬鹿みたいに同じ繰り返しですな」

「うん、どうも本当みたいだね、あの噂」

「……噂、ですか?」

 アーッテラが首を傾げると、アリナは目を細めてから戦車から出て降りてくる。

「ヨシフのおじさんが、どうも腕のいい軍人片っ端からぶっ殺したとか殺さないとか」

 ヨシフのおじさん――彼女はおどけて「ヨシフのおじさん」などと言うが、それが誰をさしているのか、アーッテラも部隊の面々も理解していた。

 要するにヨシフ・スターリンのことだ。

「へぇ? じゃあ、今の指揮官連中は腕のいいのがいないってことですかね?」

「そこまでは知らないけど、責任を問われて殺されるってパターンが多いらしいからね。それが怖いんじゃない? どーせ、NKVD(エヌカヴェデー)の将校なんて、”抵抗しない人間”を殺すくらいしか能がないだろうし」

 アリナの言葉に、アーッテラはぞっとした。

 つまりそういうことなのだ。

 突撃しても死。

 退却しても死。

「……――それはまた」

 アリナの言葉に、アーッテラは返す言葉もなく片手で口を覆ってから黙り込んだ。

「戦車、ハカリスティを書いておいて。手が暇になったらでいいから」

「了解」

 アリナ・エーヴァは鹵獲(ろかく)した戦車には興味もないのか見向きもせずに、そうして再び狙撃兵たちが獲物を狙う場所へと戻っていった。

「無茶苦茶せんでくださいよ」

「わかってる」

 歩きだすアリナはアーッテラに背中を向けたままでひらりと肩の上で手を振った。

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