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16 白い死に神

 二人の狙撃手に特別任務を与えたものの、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンの指揮する第三十四連隊第二大隊第六中隊は相変わらずな状況で一進一退を繰り広げていた。

 攻めるソ連軍を撃退し続けるアリナ・エーヴァの元に報告がきたのは年の暮れだ。

「……姉さん(シス)、いいですか?」

「んぁ?」

 ヒュウヒュウと風が空気を切る音が聞こえる。

 その音に紛れこむような男の声に、揺り椅子に腰をかけていた彼女は目の上に置いていた腕を上げるようしてテントの天井を見やる。

「アーッテラか、どうした?」

 コートのポケットに突っ込んだ懐中時計を見やってから首をすくめた。

「シムナが戻ってきました」

「……コノネンは?」

 アーペリ・コノネンは朝早くから任務で狙撃銃を持って陣地を出て以来、日が暮れても戻ってきていない。口にこそ出さないがアリナ・エーヴァが、若い狙撃手を気遣っているのを知っているユホ・アーッテラは返す言葉もなく黙り込んだ。

「そうか」

 短く応じてから、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンはぎしりとロッキングチェアを軋ませながらブーツを履いた足を地面におろした。

 ごつりと重い音が響く。

「すぐに行く。シムナにコーヒーでも出してやれ」

「了解しました」

 冷たい空気の中をユホ・アーッテラがアリナのテントの前を離れた気配を感じ取って、彼女はそっと片目をすがめた。

 シモ・ヘイヘが戻ってきたのは良いことだ。

 しかし、気がかりなのはアーペリ・コノネンのことだった。ヘイヘとは違って、夜間の狙撃については、それほど慣れていない。

 彼の身が危険に陥らなければいい、そんなことを思いながら彼女はテーブルの上の毛皮の帽子を長い指で掴むと無造作にかぶる。そうして、分厚い手袋をはめてから彼女はテントを出た。

「見張りご苦労」

 歩哨の兵士にねぎらうように声をかけてやりながら、彼女は自分よりも上背の高い青年の肩を軽くたたいてやって笑う。

「姉さんもご苦労様です」

 鋭い動作で敬礼を返した兵士に唇の端で笑いかけると、彼女はそうして目の前の暗闇に視線を走らせた。

 時刻は深夜に近い。

 兵士たちも充分に体を休めなければ、翌朝からの戦闘に関わる。

 もっとも、指揮官であるアリナ・エーヴァも自分のテントで休んでいるといっても、ほんの小さな物音で目覚めてしまうような緊張感の中にある。

 戦闘が始まってからすでに一ヶ月近い。

 どうしようもない状況は、けれども改善されることもない。それがアリナには苛立たしくて、彼女はシモ・ヘイヘのテントを訪れた。

 温かいコーヒーの注がれたカップを手にして体を温めている身長の低い男に、アリナは黙って顎をしゃくった。テント内では部下の兵士たちが眠っている。

 アリナの気配に気がついて薄目を開けた彼らに「寝ていろ」と声をかけてやって、彼女は狙撃兵の男をテントの外へと連れだした。

「それで、どうだった? シムナ」

「相手も腕の良い狙撃手だったので手を焼きましたが、それと思われる赤軍の狙撃兵を射殺しました。おそらくこれで、いったん狙撃による被害はやむはずです」

「そうか……」

 シモ・ヘイヘが問題の狙撃兵を射殺するまでに何人かの被害者が出た。

 三人の小隊長のうちサンテリ・ヴォウティライネンとヨウコ・ルオッカが殺害された。副官のユホ・アーッテラも危うく狙撃による被害者になるところだった。

 伝令の兵士と、補給担当の兵士が数人殺害され、この数日で部隊の被害者は将校二人を含めて七人に上った。

 アリナ・エーヴァの推察では同一の狙撃兵によるものだろう、と、シモ・ヘイヘとアーペリ・コノネンには状況説明がされていた。

「そういえば、シムナ。おまえ、コノネンのことを知っているか?」

「……いえ」

「そう」

「心配ですか……?」

 ヘイヘに問いかけられてアリナが苦笑する。

「それなりに心配しているよ」

 きつい瞳がかすかに和らいで部下の狙撃兵を見つめ返す。そんなアリナ・エーヴァの視線を受けて、彼は凍り付く睫毛を伏せた。

 モシン・ナガンを抱え直す。

「迎えにいってきましょう」

「無理しなくていい、シムナ」

 ヘイヘはたった今、狙撃という任務から帰ってきたばかりなのだ。兵士のひとりが帰らないからといって、そのための捜索などにかり出せるわけがない。

「大丈夫です、コッラーの雪には慣れています」

 そう言ってから、スキーをはくと愛銃を抱えて暗闇の中へと消えていく彼の後ろ姿に、アリナは溜め息をついた。

 日に日に戦況は悪化していく。

 数日前、ヴィッレ・ティッティネンにアリナ自身が「近いうちにコッラーは崩壊寸前までに追い込まれるだろう」と予告した。

「このままじゃ、そのうち剣と弓矢で戦えとか言われそうでいやだな」

 暗闇の中で、彼女はぽつりと呟いた。

 ヒュウと鋭い音をたてて風が駆け抜けていく。その風にすらいやなものを感じてアリナ・エーヴァは苛立たしげに舌打ちした。

姉さん(シス)。シムナは?」

「コノネンを迎えにいってくれるそうだ」

「吹雪になりますよ……?」

 暗い空を見上げながら雪のちらつきはじめた空気に、ユホ・アーッテラが上官に言えばアリナも頷いて目を細める。

「シムナもわかっているはずだ」

「……――、俺も助っ人に出ましょうか?」

「いや、行かなくてもいいと思う。あいつはひとりでなんとかできるはずだ」

 冷静に頭の中で情報を整理するが、考えれば考えるほど現状は明るくない。

「わかりました」

 雪の中に立ち尽くしたまま、顎に手をあてて考え込んでいるアリナ・エーヴァの横顔に、ユホ・アーッテラが視線をやった。

「姉さんも、連日の戦闘で疲れてるでしょう。少し休んでください」

「……そうするよ」

 毎日、明けても暮れてもコッラーは激戦区だ。

 いつ終わるのか。

 そんな思いにすら捕らわれることもある。しかし、それでは前に進むこともできないし、なによりも弱気になったが最後、その場所を突破されることは目に見えている。

「……姉さん。俺たちは、この間のクリスマスに賛美歌を歌わせてくれた姉さんに感謝してるんですよ。姉さんは、俺たちにとって誰よりも大切な、そして誇るべき指揮官です」

「急にそんなこと言われると照れるじゃん。どうしたの? ユホちゃん」

 振り返りながら苦笑いを浮かべたアリナに、彼は笑みを返した。

 昼間、戦場で毒づき合っているふたりと同一人物には思えない。

「たまには、俺たちも姉さんに感謝を伝えないとって、部下たちと話してたんですよ」

「別にいらないよ、そんなもん」

 わたしはただの戦闘狂だからね。

 自虐的につぶやいた彼女にユホ・アーッテラは、アリナ・エーヴァの肩を軽くたたいた。

「要するに、俺たちは姉さんが好きだってことです」

 いつも自信に溢れた眼差しで銃を握り、前線に立つ彼女を見て部隊の兵士たちは奮い立つ。指揮官である彼女が危険に顧みることもなく、最前線にいるからこそ兵士たちがついていくのだ。

 自分達の傍に、彼女――モロッコの恐怖がいるかぎり進む先にあるものは勝利だけなのだ、と。

 ユホ・アーッテラの言葉を聞きながら、アリナは自分のテントへと向かって歩きだした。少なくとも外見上は表情をわずかも変えてはいない。

「わたしたちがやることはひとつだけだ」

 そう。

 ソビエト連邦の軍隊をたたきつぶすことだけ。

 それ以外の目的はない。

「少し休む。なにかあったら遠慮なく起こしていい。アーッテラ」

「はっ」

 前線指揮官のひとりと、その副官としてふたりは会話を終えた。

 シモ・ヘイヘは赤軍の狙撃兵を仕留めたと言っていた。これで少しでも事態が好転すれば良い、と思いながら彼女は自分のロッキングチェアに体を深く沈めると目を閉じた。

 外見的にはそうは見えなくても疲労極まりない彼女は一瞬で眠りへと墜落していく。




  *

 そうして、その翌日。シモ・ヘイヘからアーペリ・コノネンの遺体が北西の森の奥で発見されたということを聞かされることになる。

 手ひどい拷問を受けて殺されていた、と、ヘイヘは静かに上官のアリナに告げた。

 アリナ・エーヴァは深い溜め息をつくと自分の肩を軽くたたいた。

「ひどい状態でした」

 そう告げたシモ・ヘイヘに彼女は無言のまま肩をすくめて、差しだされたアーペリ・コノネンのドッグタグを受け取る。

 元は楕円形のタグだが今は半分に割られている。

 つまるところ、それは、その登録番号を持つ者――アーペリ・コノネンが今はその心臓の鼓動を止めてしまったことを意味していた。それをじっと見つめた彼女はそっと片目を細めた。まるで黙祷でもするかのように、ほんの一瞬だけ長い睫毛が伏せられる。しかし、結局アーペリ・コノネンについては触れずにアリナ・エーヴァ・ユーティライネンは眼差しをあげると、ベテランの狙撃手を見つめた。

「……ご苦労だった」

 短いその言葉に隠された彼女の本心。

「いえ」

 やはり短く応じたヘイヘはアリナ・エーヴァの心中を思いやらずにいられないが、そんなことに気を回していられるような状況でもない。

 ただ、彼らは黙々と目の前の任務をこなすだけだ。

 そして、その任務とは、ソ連兵(イワン)(ほふ)ること。

 それ以外にない。

「ところで、シムナ」

 そう言ったアリナの表情はすでに切り替えられているようで、別の話題に意識を移している。この切り替えの早さは大したものだ、とヘイヘは思った。もっとも、だからこそ、彼女は前線指揮官として部下たちを指揮し、なおかつ、兵士たちから高い信頼を向けられるのだろう。

「はい、なんでしょう?」

 年齢が近いからか、アリナ・エーヴァもシモ・ヘイヘも階級は違えど互いに話しやすいところがあるらしい。もっともふたりの関係はヘイヘが、アリナに対してあくまでも上官に対する部下、という立場を守っていたというのも大きかったのかもしれない、

「狙撃で始末したのは何人になった?」

「そんなこと俺より、姉さん(シス)の方が詳しいんじゃないですか?」

 中隊長のユーティライネンの言葉に応じながら、ヘイヘは考え込むような顔つきになって指折りなにかを数えている。

 実際としては、戦場という命の駆け引きをしている場所で余分なことを考えている暇はない。

「うーん……?」

 アリナがうなる。

 そしてヘイヘも首を傾げながらつぶやいた。

「一五〇いくかいかないかってところじゃないですかね」

「そんなもんか」

 開戦してから一ヶ月余りの戦果としては大したものだ。

「……おそらく」

「ふむ」

 危機感に欠ける声色で会話を続けるふたりの目の前には死体が広がっている。

 雪に埋もれてわかりづらいが、死んだソ連兵の亡骸の上に雪が積もって、その上にまた死骸が積み上がる。

 そんな戦場だった。

 コッラーの森と湖は、重苦しい死に支配されている。

「……白い死に神(ヴェーラヤ・スメルチ)

「なんですか? それは」

 不意にぽつりと呟いた女性士官の言葉に、ヘイヘが視線をやるとアリナは森の向こうを凝視したままで鼻から息を抜いた。

「シムナ、おまえのことだよ。死に神、だってさ」

「ははぁ……?」

 「モロッコの恐怖」の部下が「白い死に神」とは、なんとも笑ってしまいたくなるような仰々しい二つ名の羅列に、ヘイヘが苦笑する。

「ま、そんなことはどうでもいいや」

 あっけらかんとした口調でつぶやいた彼女は、部下のひとりが運んできた食事を受け取るとどんよりと曇る空を見上げた。

「では、俺も食事をすませてきます」

「行っといで」

 立ったままスープを喉に流し込んでいるアリナは、およそ女性らしいとは言えないが、少なくともヘイヘたち部下にはどうでも良いことだった。彼女が女性であろうと、仮に男性であったとしても、彼らの上官であり、素晴らしい指揮官であるという事実には変わらない。

 ヘイヘの後ろ姿を見送ってから、アリナは眉をひそめると物思いに沈んだ。

 不足する物資が今のところ彼女の頭痛の種だ。。

 かろうじて弾薬や武器は「現地調達」できるからまだいい。

 しかし、人員の不足はどうすることもできない。

 小隊長が二人殺された穴をどうやって埋めるべきか。

 幸い、彼女の部下たちはよくまとまっているから、そうそうアリナ・エーヴァの命令から外れることはない。

 しかし、それでも一個中隊をひとりで指揮するのは骨が折れる。

 サンテリ・ヴォウティライネンとヨウコ・ルオッカが殺害されたのは頭が痛い問題だ。もちろん、戦場にいる限りは死は予測できる。現状、それぞれの小隊には小隊長に格上げした分隊長がいるが、どちらも経験不足が大きな問題だ。

 残った小隊長のアールニ・ハロネンの負担も大きいだろう。

「考え事ですか?」

 低い声に振り返った。

 アールニ・ハロネンは女性としては長身のアリナよりもずっと背が高い。なにせ、彼と比べればアリナが細く女性的に見えるほどだ。

「いろいろとね」

 紫煙の香りに目を伏せたアリナ・エーヴァは、手にしていた飯盒(はんごう)を部下の男に面倒臭そうに押しつけると溜め息をつく。

「俺は今日は炊事番じゃありませんよ」

「わたしも炊事番じゃない」

 素っ気なく応えた彼女に男が笑う。

「死にませんよ、俺は」

「別に心配なんてしていない。おまえが死ぬ時は、中隊が壊滅するときだから安心しろ」

「縁起でもないこと言わんでください」

 どこをどうすれば、安心して良い仮定になるのか。

 アリナの捨て台詞にアールニ・ハロネンは、兵士を呼びつけて彼女の飯盒を手渡した。

「夜が明けますね」

 静かに告げた狙撃手の小隊指揮官は、ちらと横目にアリナに視線を滑らせる。彼女はひどく鋭利な眼差しを放っていて、どれだけ多くのことを考えているのかと思わせる。

「イワンも、懲りないね」

 懲りてくれれば楽なんだけど。そう続けてから彼女は雪の上で踵を返した。

 おそらく、夜が明けきる前にソ連軍の第一陣が押し寄せるだろう。

 それに対して彼女らは迎え撃たなければならない。ぼさっとしている暇などなかった。


  *

 「万歳(ウラー)!」という雄叫びは正直聞き飽きた。

「……イワンの根城をどかんとできるでっかい爆弾でもあればいいのに」

 塹壕にこもって機関短銃を抱えているアリナは忌々しい溜め息混じりにそう言った。

 結局、一個小隊はアリナ・エーヴァ自らが指揮し、他の二個小隊の片方をアールニ・ハロネンがまとめ、もう一方を分隊長から昇格させた准尉が指揮することになった。

 今日も今日とて雪の降り積もるコッラーの湖沼地帯を叫び声を上げながら突撃してくる赤軍兵士を正確に返り討ちにしながら、時折迫撃砲をたたき込む。

 歩兵の脇を走る戦車に対しては、フィンランド兵自らが肉薄して火炎瓶(モロトフ・カクテル)をお見舞いしてやって、その動きを止めた。

 雪の中に伏せた白色迷彩を着込んだフィンランドの兵士たちは、雪に紛れて淡々と自身に与えられた仕事をこなしていく。

 ――ここを突破させてはならない。

 その思いだけで彼らは戦い続けている。

 もしもコッラーを突破されれば、スオムッサルミで善戦しているシーラスヴォ大佐率いる第九師団と、トルヴァヤルヴィから快進撃を続けているタルヴェラ戦闘団、さらに第十二師団の背後で死闘を繰り広げている第十三師団が被害を被ることが想像される。

 だからこそ、コッラーでソ連軍を封じ込めなければならない。

「物騒なこと言わないでください。そんな爆弾あったらこっちまで被害受けるじゃないですか」

 相変わらず、アリナの隣にはアーッテラがいて軽口を叩いているが、彼のそんな言葉はアリナを安定させた。

 ともすれば、戦闘の熱に浮かされかけるアリナを冷静にさせるのはユホ・アーッテラの存在だった。

 それが彼の役目だ。

「本当に大概、しんどいねぇ……。ヨシフのおじさんが補給物資持ってきてくれるからまだいいけどさ」

 軽口には軽口で応じながら、アリナは機関短銃を抱え直して目を細める。

 神経が高ぶっているためか、雪の冷たさもあまり気にならないが彼女はそんな自分の状態を良い傾向だとは思っていない。

 冷静でいられない自分を感じて、深く息を吸い込んだ。

「大丈夫ですよ、心配しなくても俺が引っ張り戻しますから」

 そんな上官の内心を察したのか、ユホ・アーッテラが告げればアリナ・エーヴァはにこりと笑った。

「ユホちゃん、愛してる」

「……――はいはい」

 いつものように気のない返事をしてユホ・アーッテラは銃を構えると引き金を引いた。

 その日も変わらずソ連兵を撃退して、そうして一日が終わる。

 毎日がそんな状態だった。

 そうして、年が明ける。

 流血の一九三九年が終わり、流血の一九四〇年が訪れるのだ。

 年が明けて、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは、弟であるエイノ・イルマリ・ユーティライネンから一通の手紙を受け取った。

 自分とは異なり、丁寧な弟の文字にアリナは微笑する。

 まるで彼の性格を顕しているかのようだ。


 ――親愛なる姉さんへ。

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