11 激戦区への予見
「シムナ」
静かな上官の声にヘイヘは瞳だけを動かして肩越しに声の主を見つめた。
「……すいません」
「状況は?」
「たぶん、ソ連軍のスキー兵ですね」
「ふーん……」
雪の中に白いギリースーツを身につけて伏せている彼は、味方ですらも危うく見逃しそうな状況だ。
腰を屈めて注意深く片手でスキー板を外してから、アリナは背中に背負っていた機関短銃を構える。
彼女の持つ機関短銃はヘイヘの狙撃銃のように一撃必殺の武器ではない。
スキーを脱いでヘイヘの隣に腹ばいになった彼女はじっと目を細めて彼の視線を追いかけた。
その先に慎重に進んでくるスキー兵がいた。
周囲には赤軍のスキー兵だろう、数人の死骸が転がっている。
「振り返ったらいないからびっくりしたよ」
「……申し訳ありません」
一歳違いの女性士官に目線だけを下げて謝罪した彼は、そうしてから視線を前方に戻してやはり顔色一つも変えることもなく引き金を引く。
眉間の間に銃弾を受けてそのまま低い悲鳴を上げると倒れ込んだ男が動かなくなったのを見計らって、シモ・ヘイヘは新たな獲物に対して気を配りはじめた。
そんな彼を見やってからアリナも、そっと目を細めると周囲を見回した。
「片付けたらすぐに追いかけるつもりだったんです」
「そうか」
遊撃部隊と同じように特殊な任務に入ることが多い彼だ。
もっとも、その任務をヘイヘに課したのはアリナ自身だったから、彼に文句を言えるはずもない。
「……エッラ・エロネンがスウェーデンで”我らが大地”を朗読したんだそうだ」
「そういえばそうらしいですね」
我らが大地――。
それは、フィンランド国歌だ。
楽曲はエストニア国歌と同じだが、詩の内容は違う。
優しく暖かな歌だ。
そのフィンランド国歌を世界で活躍する女優のエッラ・エロネンが朗読した。世界へ向けてフィンランドへの支援を求めるために。
「俺は好きです」
「あそ」
感慨もなく、シモ・ヘイヘの言葉に応じたアリナは彼の狙撃の合間を縫って近づいてくるスキー兵を機関銃で蜂の巣にして腰に吊したナイフを触れる。
ほんの三十分ほどで二個分隊ほどの兵士を始末したふたりは、やがて追撃がなくなったことを確認すると立ち上がった。
「さて、そろそろ帰るとするか」
「はい」
ヘイヘがいない、と部下に報告するときはなにかがあったのではないかと心配もしたが、元来た道を辿り、彼が雪の中に伏せてモシン・ナガンを構えているところを見つけて胸をなで下ろした。
彼は追撃するスキー兵たちの掃討にあたっていたのだ。
「姉さん」
ヘイヘが彼女を呼ぶ。
「うん?」
「エッラ・エロネンも綺麗な人ですが、俺は姉さんが好きですよ」
誰よりも強く、誰よりもまっすぐに旗をかざす彼女に女優のそれなど及ぶわけがない。
もしもエッラ・エロネンが自分たち兵士を率いていたとしても、おそらくこれほどの忠誠は誓わないだろう。
「……――」
ヘイヘの言葉に応じることもなく彼に背中を向けたアリナ・エーヴァについて、彼もスキーを滑らせた。
早く陣地へ帰らなければならない。
背後に視線を走らせると、追撃する気力を削がれたのかソ連軍が追いかけてくる気配はなかった。ただ、白い雪上にぽつぽつと人間の死骸が倒れているだけだ。
作戦開始時間は昨夜の二十時。
野戦炊事所で三十分程度の銃撃戦。そして往復十二時間かけて陣地へ戻る。
途中でヘイヘがいなくなるという事態はあったものの、おそらく帰り着くのは昼頃になるだろう。
アリナはスキーを滑らせながら頭の中でそんな計算をして、先に帰らせたアーッテラたちのことを考えた。
彼らも早く戻って休めていればいいのだが……。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネン中尉とシモ・ヘイヘ兵長が陣地に戻ってきたのはその日の昼頃だった。どちらも疲労困憊で、薄汚れた顔をしているがそんなことを気にするような人間はここにはいない。
奇襲をかける、と昨晩連絡を受けた連隊長のヴィッレ・ティッティネンが、制止のために連隊指揮所からすっとんできたものの、見事に間に合わずアリナ・エーヴァ自身を含めて、その部下たちの陣地はもぬけのからだった。
「……あれ? 中佐殿?」
自分のテントに戻ったアリナは、お気に入りのロッキングチェアに腰をかけた男を見つけて首を傾げた。
「姉さん、中佐が来てますよ……、ってもうお会いしましたか」
露骨に嫌そうな顔をしたユホ・アーッテラは咄嗟に表情を取り繕うがもう遅い。
「アーッテラ、貴様は止めなかったのか。この暴走機関車を」
「……そうは言われましても」
ティッティネンの苦言に、ユホ・アーッテラは困惑したように後ずさる。できれば連隊長の前は辞したいくらいだが、はたしてそんなチャンスが訪れるのだろうか。
「ユホちゃん、いいよ。行って」
ひらひらと手を振ったアリナに、ティッティネンが彼女を睨むが、睨まれた当人は特別気にする様子もなくアーッテラが持ってきたタオルで顔を拭く。
「いいんですか?」
「いいよ」
「では、失礼します」
ユホ・アーッテラの内心を察したのか、アリナ・エーヴァが副官を追い払った。
「俺は退席して良いとは言ってないぞ」
「お言葉ですけどね、中佐。あいつはわたしの直属の部下です。中佐の命令なんて”きかせません”よ」
遠慮の欠片もなく言い放った彼女は、上官に自分のロッキングチェアを貸したまま別の椅子を引き寄せた。
堂々としたその態度に、ヴィッレ・ティッティネンは毒気を抜かれる。
「ま、そんなことはともかく! 座り心地がいいでしょう? それ」
ニッコリと笑ったアリナ・エーヴァに、ティッティネンの口元がぷるぷると震えている。それをアリナは見えていないわけでもないだろうが気にする様子もない。
「……ユーティライネン」
相当怒り心頭のようだが、アリナは気がつかない素振りで言葉を続けた。
「奇襲は成功です。怪我人も死者も出していませんよ、中佐殿」
「この、馬っ鹿もーん!」
怒鳴りつけられて、アリナは思わず自分の耳に指をつっこんだ。
「そんなに怒鳴らないでくださいよ。だいたいいいじゃないですか、成功したんですから」
成功したのだからいいだろう、というアリナ・エーヴァに男は思わず立ち上がった。いつもどこか飄々としている前線指揮官のひとり。
女性の陸軍士官は、フィンランド国防軍ではただひとりの女性士官でもある。
彼女のことを、ヴィッレ・ティッティネンは「暴走機関車」だと思った。言い出したが最後、誰の言うことも聞きはしない。
「成功したから良かったようなものの、成功しなかったらどうするつもりだったんだ!」
唾を飛ばしながら怒っている彼に、アリナは大きな溜め息をつく。
「わかってますってば。だから、わざわざ成功する確率を計算してですね、ちゃんと奇襲の時間帯を設定しましたし」
とりあえず落ち着いて。
アリナがティッティネンをたしなめるが、命令を聞かなかった張本人がたしなめるものだから見事に火に油だ。
「一応、ちゃんと考えてますよ。それに、シムナだってちゃんと拾ってきたじゃないですか」
「当たり前だろう」
優秀な狙撃兵を失うわけにはいかない。
少々落ち着きを取り戻したらしいティッティネンに、アリナはやれやれと顔を手のひらで仰ぎながら息をついた。
「次の総攻撃で、野戦炊事所をたたきつぶしておくことは重要なことだと思われましたので、我が部隊で先手を打ちました」
「……ユーティライネン、貴様の見立てはわかるが、失敗したらどうするつもりだった」
「どうもしませんよ」
戦うだけだ。
目の前の敵をたたきつぶすだけのことだ。
「それに、奴らはこの寒さを甘く見ている。だからこそ、たたきつぶすチャンスでした」
アリナは数秒の間を置いてから顔を上げるとじっとティッティネンを見つめた。真剣な眼差しは、決して事態を軽く考えているわけではないということを如実に語っていた。
「それと、ひとつ言わせてもらいますけどね。うちの部隊は激戦区を担当しているんです。たたきつぶせるところをたたきつぶしておかなければ、じり貧に持って行かれるのはこっちです」
はっきりとアリナ・エーヴァはティッティネン相手に言い放った。
アリナたちの狙撃部隊は、数十倍どころではない。
百倍以上の戦力差を一個中隊で支えているのだ。
もしも、自分が指揮するその場所が崩壊すればどうなるのか。それをアリナは理解している。
「中佐だって、わかっているでしょう。もしも、ここが突破されたらどうなるのかを」
突破させてはならない。
だからこそ、師団司令部は彼女の部隊を激戦区になるだろうと予想される場所に当てたのだ。
真剣な彼女の眼差しに、ティッティネンは眉根を寄せた。
コッラーを突破されれば、一個師団で赤軍の二個師団と一個戦車旅団を相手にしている第十三師団が圧倒的な物量に押しつぶされる。
だからこそ、第十二師団は赤軍第八軍にコッラーを突破されるわけにはいかなかった。その重要性を、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンもそしてヴィッレ・ティッティネンもわかりきっている。
「我々は、ここを突破させてはならないんです」
椅子から立ち上がりながら、簡易テーブルに身を乗り出したアリナは、ティッティネンに言い放った。
「なんとしてでも、ここを守らなければならない。……だから、手段なんて選んでいられません」
まっすぐに青い瞳で彼を見つめたアリナ・エーヴァは、金色のショートカットを揺らしてそう告げた。
襲いかかる敵をひたすらに撃退し続ける。
それがどれほど兵士たちの精神をすり減らせることになるのか、それがわからない彼女ではなかった。
だけれども、後退することなど決して許されない。
「……ユーティライネン」
彼女の言葉を聞いた、ティッティネンがやがて口を開いた。
口元で彼はにやりと笑う。
「なんです?」
「そうは言っているが、結局のところ、貴様は俺を言いくるめようとしてるだけだろう」
「さて」
ティッティネンに切り替えされてアリナは、首を傾げた。
長身のこのきつめの美女が考えていることなど、ティッティネンにはお見通しだ。頭の回転は速いからまるで筋が通っているかと思われる正論を告げるが、彼女の言葉を要約すると「自分が前線にいたいだけ」なのだ。
「深読みしすぎるとハゲますよ。中佐」
「あほぅ……! 手足がもがれて苦労するのは俺なんだ、少しはこっちの身にもなれ!」
「知りませんよ、中佐の都合なんて。こっちはこっちで大変なんです。結果良ければ全て良し、ってことでお目こぼししてくださいよ」
いけしゃあしゃあと告げる彼女は、機嫌良さそうに笑ってから彼の目の前で地図を広げた。
「我々が死ぬ気になれば、何百倍の敵にだって耐えれます。どれだけの損害が出るかはわかりませんが。それでも、ここは守り通さなければならない場所なら、わたしはどんな手段に訴えてでも守って見せましょう」
どんな手段に訴えてでも守ってみせる。
彼女のそんな言葉に、ティッティネンは長い息を吐き出した。
「それで、状況は?」
「野戦炊事所を襲撃しました。無線で言ったとおりです。さっき、アーッテラから報告を受けましたが、部隊の損害はごく軽微です。野戦炊事所を失えば、あとは囲い込んで追い込んでやれば良いだけのことです。それと、中佐」
ここだけの話しですがね。
「……なんだ?」
「イワンがどんだけ練度が低い兵士を投入してきてるかはわかりませんが、このままこの状況が続けば、遠からずコッラーは崩壊寸前までいくでしょう」
「守ってみせるんじゃないのか?」
「守りますよ。どれだけ犠牲者がでても、ね」
前線指揮官の一人として。
そして兵士の一人として、守ってみせる。
「守りきる自信はあります。ですが、それでも、ここは悲惨な状況になるでしょう」
「……だろうな」
わかっている。
どれだけ覚悟をもって望んだとしても、結果は見えていた。
大きすぎる損害は避けられないだろう。
「頼むぞ」
「任されましょう」
ドンと自分の胸を拳で叩きながら、彼女は言うとテントにコーヒーを運んできた男からそれを受け取ってティッティネンに手渡した。
「ま、少しくつろいでってくださいよ」
言いながら彼女は自分もコーヒーを一口、口に含んだ。
丸一昼夜近く奇襲作戦で出ていた彼女は眠っていないはずだった。だというのに、ごく冷静にティッティネンと言葉を交わしている。
「少し休め」
「いいんですか?」
上官に言われて、アリナは意外そうに眉尻を引き上げる。
「手足がなくなって困るのは俺だからな」
そう告げてから、ロッキングチェアをぎしりと揺らして立ち上がった彼は、彼女のテントを出て行った。
その後ろ姿は奇襲攻撃の戦果に満足したかのようにも見える。
「素直じゃないこと」
アリナはそう言ってから肩をすくめると、ロッキングチェアに移動して目を閉じた。
そうして彼女は一瞬で眠りの谷へと墜落していく。
奇襲攻撃と、シモ・ヘイヘの救出劇で疲労困憊の彼女はそうして鼓膜の奥で軍用機のエンジンが鳴るような音を聞いたような気がした……。




