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1 冬戦争

 一九三九年三月。

 ソビエト連邦とフィンランド共和国の領土交渉――主に、ソビエト連邦による一方的なフィンランド政府に対する領土割譲要求――は、互いに歩み寄りの場を見いだすことができずに決裂した。

 ソビエト連邦の重要な都市のひとつであるレニングラードを防衛する目的のため、国境線の移動を含めた、フィンランド共和国最大の工業地帯とも呼べる、ラドガ湖とフィンランド湾に挟まれた工業都市――ヴィープリなどを含めたカレリア地域の割譲、各都市の貸与などという、フィンランド側にとって全く受け入れざる問題であった。

 この領土交渉の決裂を受けて、強い危機感を抱いたのが、かつてフィンランド内戦で白衛軍を指揮し、現在はフィンランド軍の最高司令官を務めるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムである。

 彼は後にも先にも、唯一のフィンランド軍元帥として名前を挙げられる。

 そのマンネルヘイムは、その年の春から夏にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間にあるカレリア地域の防衛線構築を行い、十月――最後のソビエト連邦との領土交渉が行われる直前に日常動員令を発令した。

 もちろん、この動員令は極秘に行われ、あくまでもソビエト連邦を刺激しないよう慎重に行われる。

 一方、この動員令にあたって、強い好奇心を示した女がいる。

「へぇ~……?」

「どう思う? エヴァ」

「さてね、スターリンのクソ野郎がヒトラーに看過されて余分なことを考えなければいいけどさ」

 金髪の女は長い髪を肩からはねのけて、冷たくなりつつある空気を遮断するように窓を閉めるとじっと空を見上げた。

「”今年”は寒くなるかもね」

 そう言ってやはり金髪の長身の男を振り返る。

 正直に言えばそれほどハンサムでもない。切れ長の鋭い目と、彫りの深い顔立ち。頬のこけたどこか凶暴そうな印象の男は水色の瞳がやけに印象的だった。

「おまえのところにも召集令状きたか。どんだけ人手不足なのやら」

「……まーねー」

 戦える奴はみんな戦えってところだと思うよー。

 軽口を叩くように言いながら、女は自分の肩に馴れ馴れしく腕を回してくる屈強な男に笑い声を上げる。

「どこまでも色気がない女だな」

 彼女の腰にはいつもフィンランドでは見慣れない大振りなナイフが吊されていた。

 まるで、これから狩りに出立する狩人のようだ。

 そんな印象すら受ける彼女が、けれどもこれまで狩ってきたのは鹿ではない。

「なに? わたしと寝たいの?」

 ぎらりと青い瞳が光を宿した。

「ご免だな、おまえとヤる前に組み手しなけりゃならんだろうしな」

 今のところ勝率は五割だ。

 しかもその五割も、ほとんど相打ちに近い。

 決してムキムキのマッチョというわけでもないから、彼女は力の使い方がうまいのだろう。ちなみに、彼女の言う組み手は、そもそもが命がけのものだった。

「おまえみたいな危ない女は、お断りだ」

 喧嘩は負けたことがない。

 そう豪語する彼女の手の中にあるフィンランド国防陸軍からの召集令状を、男は鋭い瞳で流し見た。

「そういや、おまえこの間、基地に遊びにきてただろ。やんちゃしすぎて不名誉除隊になってたはずだよな」

「うん、それね。戦車の運転教えてもらったんだー」

「運転かよ」

 あきれ気味に言いながら男は女の長い金髪を引っ張った。

「とにかく召集令状きたんならこの鬱陶しい頭をなんとかしろよ」

「わかってるよ」

 こうして予備役に就いていた多くの士官や下士官たちが目立たぬように、秘密裏に動員され万が一、勃発するかも知れない戦争に向けて準備が行われていった。

 彼女の名前は、アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。

 陸軍予備役中尉。

 その肩書きから予備役が消えた。

ソビエト連邦(リュッシャ)の奴らと、もしも戦う事になっちまったらどうする?」

「どうもこうも、兵隊は命令された通り戦うだけさ」

 金髪の長身の男に対して彼女(アリナ)はそう言った。

「ミカちゃんこそ、連中が仕掛けてきたらどうすんのさ」

「俺が逃げ出すとでも思ってんのか?」

「まさか!」

 好戦的な笑みを交わしてふたりの男と女は、唇の端をつり上げた。

「今度こそ、おまえよりも俺が上だって認めさせてやる」

 一介の尉官でしかない彼女が当時、ソ連とフィンランドの首脳陣の間、もしくは軍上層部で何があったのかは知るよしもないが、それでも、世間の不穏な空気とマスコミによって流されていた情報によって、それなりの状況は理解しているつもりだった。

 戦争がはじまるのではないか、という、一部の人間たちの予感は的中してしまった。しかも、相手が隣の大国であるソビエト社会主義共和国連邦。

 動員できる物資も人数も桁違いだ。

 こうして、日常動員令のもと、兵士の訓練などに携わりながら日々を過ごす彼女ら軍人は、唐突に入った一報に心を凍らせる。

 それは、戦争という巨人の足音にほかならない。

 十一月二十六日、カレリアの国境付近でソビエト赤軍側に対してフィンランド陸軍からの砲撃を受けて負傷者が出たとして抗議を受けた。これについて、フィンランド側は砲撃可能な部隊を配置しておらず、砲撃もソ連領内で行われたことであると反論するが、その二日後、ソビエト連邦から一方的にソ・フィン不可侵条約の破棄が通達された。

 外交筋でこの件に関する協議をソビエト連邦側に求めるが、ソビエト連邦側からの回答は得られずに十一月三十日を迎えることになった。

「……やっとお出ましか、”問題児”」

 ヘルシンキの国防軍本部についたアリナ・エーヴァに第四軍団長のヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンドは厳しい顔を歪めるように笑う。

 辣腕の将軍で、その判断力はフィンランドでも最高峰に入る、と彼女は思っている。もっとも、目の前の将軍から見れば彼女のような士官は「問題行動の多いひよっこ」程度の認識しかないかも知れない。

 だが、「問題行動」が多いからこそ、こんな時に彼らは彼女を頼る。

 本当の意味で「問題行動」とやらが多く、士官として無能であれば必要とされるわけがない。

「遅くなりました」

 短く応じてから顔を上げたアリナ・エーヴァは、きちんと踵を合わせて目を伏せる。

「”モロッコの恐怖”などと言われている君が、実は美しい女性だなどと知ったらアカの連中は発狂するだろうな」

 そんな彼の言葉に「お世辞ですか」と口の中で言葉を転がしてから、別の言葉を口にする。誰の目から見ても切迫した状況は冗談を告げる余裕などありはしない。

「アカには美人の兵隊なんて山ほどいるでしょうし、わたしなんて美人のうちにも入りませんよ」

 彼女は素っ気なく答えてから、探るように相手を見つめた。

「そうか? 君の戦ってる姿はまるで、ローマ時代の女戦士みたいで美しいと思うが」

 彼の言葉に、アリナは不機嫌そうに眉をつり上げただけだ。

 ローマの女戦士みたいだと言われても、女性として素直に喜べるわけもない。

「君がフィンランド(スオミ)に戻ってきていて良かった」

 単刀直入なその言葉に、アリナ・エーヴァは目だけを伏せた。

「ところで、君の部隊にコッラーの防衛戦に参加してもらいたいのだが……」

 コッラーの防衛戦――そう告げられて、コッラー河周辺の地理を頭の中に思い描いてから目を細める。

「構いませんが? 部隊の拡張はしていただけるんでしょうか?」

 現在、彼女の指揮する部隊は中隊とは名乗っているものの、数としては一個小隊にも満たない。

「今のところ、君の手持ちの”一個中隊”でなんとかしてもらわざるをえんな」

「……――なるほど、つまりそれほどコッラーは切迫していると受け取って構わないので?」

「好きに判断したまえ」

 しがない中隊長に戦況を大局的に判断する力など求められはしない。要求されるのは目の前にいる敵をたたきのめすことだけだ。

 ”一個小隊”。

 口の中でアリナ・エーヴァは繰り返してからデスクに座っているハッグルンドを見やる。

 自分はただの兵隊だから、やれと言われるならやるだけだ。

 「手持ちの一個中隊が限界だ」と、ハッグルンドは言った。アリナはその言葉の意味を正確に把握する。

 そうして彼女はフンと鼻を鳴らした。

「……少数の方が、身軽に動けますしね」

 静かに、否定するわけでもなく相づちをうった彼女に、ハッグルンドは厳しい眼差しのままで溜め息をついた。

「正直なところ、トルヴァヤルヴィとスオムッサルミの防衛だけで手一杯だ。これでも、君の指揮下になんとか優秀な兵士を集めたつもりだ」

「……ほう?」

 上官の言葉に、山猫のように両目を細めた彼女は書類にちらりと視線を通してから首を傾げた。

「うちの部隊は狙撃兵ばっかりですがね」

「少数精鋭で戦うしかないだろう」

「……ごもっともで」

「”君”は話しが早くて助かる。”ユーティライネン中尉”、至急、コッラーに向かってほしい」

「承知しました」

 コッラー地方にはまともな道路は数本しかない。ソ連軍は巨大な戦車をいくつも投入してきたが、フィンランドの道――特に冬期の悪路――ではそれらの性能を必ずしも生かし切れるわけではなかった。

 戦局は数日のうちに悪化の一途をたどっていた。

 ソ連軍の行動が思った以上に早かったためだ。

 当初、フィンランド軍は国境近くのスオヤルヴィ周辺で、ソ連軍の進撃を食い止める予定だったが、あっという間に彼らはトルヴァヤルヴィへと浸透していた。

 ラドガカレリアの防衛に当たっていたのは、当初はハッグルンドではなくヘイスカネンであったが、悪化していく状況を打開することができずにヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンドが後任に当たった。

「……アリナ」

 敬礼を返して、軍靴を鳴らしたアリナ・エーヴァ・ユーティライネンに、男が言葉を放つ。

Kestääkö(ケスターッコ) Kollaa(コッラー)……――コッラーは持ちこたえられると思うか?」

 まるで祈るような彼の声に、アリナは首だけを回した。

 ふわりと笑う。

Kollaa(コッラー) kestää(ケスター)……――コッラーは持ちこたえます。わたしたちが――我々が、退却を命じない限り」

 信じろと、彼女は言外に告げる。

「頼もしいな」

ありがとうございます(キートス・パリヨン)

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