魔術師様の愛人だと思っていた薬師ですが、本命として「お持ち帰り」されました。
――魔術師なのに、こんなにノリの軽い人っているんだ。
初めてレンと出会った時、アズリアはただそう思った。
魔王討伐のため、集められたパーティは五人。
剣に長けた、立派な血筋を引くらしい優秀な少年勇者様。
元騎士団長であるいかめしい騎士さん。
その奥様である麗しい弓使いさん。
そして魔術師のレンに、自分、薬師であるアズリアだ。
『薬師のアズリアです。王宮薬師の副長を務めていました。パーティの健康管理と傷の手当てはお任せください』
端的に自己紹介をしたアズリアは仲間を見渡し、自分をじっと見つめてくる整った顔の男と視線が合った。
いや、合わざるを得ない。
ちょっと怖いほどに、彼はじっとアズリアを見つめてきていたから。
夜空のような黒の短髪に、灰色がかった青の瞳。
この国では珍しい色彩だ。
(……魔術師だわ)
まとう衣装と気配で察してアズリアは心の中で眉を寄せた。
アズリアの生まれ育った王国・バルクウェイは魔術師の人口が少なく、人智を超えた力を持つ彼らは特別扱いされている。
だから今まで生きてきた二十年間、アズリアの知っている魔術師は全員、偉そうで神経質、他者を見下すロクでもないヤツばかりだった。
どうせ、この男もそうなんだろう。
『あの、何か?』
『アズリアちゃん、って言うんだ……。きみ、めちゃくちゃ可愛いね?』
『え?』
美形と言ってもいいスラリとしたその青年は、アズリアに合わせてその長身をかがめる。
そして、くしゃりと少年のように屈託なく笑った。
『よろしく、アズリアちゃん。あ、アズって呼んでもいい? 俺は、魔術師のレン。レンでいいから』
(な、ナンパ……? 魔術師なのに、こんなにノリの軽い人っているんだ……)
見つめてくる熱っぽい視線がどこか気恥ずかしく、アズリアは少しだけ目をそらしながらペコリとお辞儀をしたのだった。
✾
レンは、不思議な男だった。
とにかく、魔術師なのに偉ぶったところが微塵もない。
会話も気さくでノリがよく、行く先々ですぐに誰とでも仲良くなっていた。
「おーい! この村、宿屋がねぇから道具屋さんが泊めてくれるってよ!」
レンのおかげで宿や食事を世話してもらったことは、十回ではきかない。そして出発するころにはいつも、そこに住む子どもたちに懐かれていた。
魔術師としても優秀で恐ろしく強いのに、普段は気を抜いているせいか、ちょくちょく荷物を盗まれたりするうっかり屋。
どう見てもアズリアより年上なのに、子どもっぽく、いい加減で雑な男。
それでも、パーティの仲間達はみんなレンを好いていた。
自分に甘い大雑把な彼は、他人にはそれ以上に甘く優しかったからだ。
まだ自分は未熟だ、と泣く勇者様を慰め、無口な騎士さんの表情を冗談で和らげる。
とにかく、仲間たちへの気配りが上手なのだ。
そして――自分でそれを認めるのは恥ずかしいけれど、彼のその「気配り」は、アズリアに向かって一番発揮されていた、と思う。
『アズ、食欲ねぇのか? まーた俺たちの傷薬調合してて寝そびれたんだろ? これとかどうよ、このモモモとナナナの実、絶対アズも気に入ると思うぜ。ほら、剥いてやるから』
『っと。今、足元ふらついてただろ。夜の火番、代わるから休めよ……ああ、マジちょうどいいんだよ。俺、今晩中に読んでおきたい本があってさ』
『アズ、なぁ買い物付き合ってくれねぇ? あっ、いやパーティの買い出しじゃなくて……その、俺とふたりで。ダメか?』
そんな絶妙な気づかいと、心が少しだけ甘く疼くようなちょっかい――絆されない女は居ないだろう。
けっして、アズリアがチョロいわけではない、と思う……思いたい。
王都を出発し、五つ目に立ち寄った街。
「花祭り」が開かれているそこで、アズリアはレンと結ばれたのだった。
❁
花祭り。
男女の浮き立つ気持ちを後押しする、地方の街によくある春の祭りだ。
立ち寄ったそこは、旅人の参加も大いに歓迎されていた。
「さあさあ、旅のお方もどうぞ! この花冠を好きなお相手に!」
そんな口上と共に、男女で色分けされた花冠を渡される。まだ少年の勇者様は自分の頭に乗せてはしゃぐと、色とりどりの屋台へと駆け出して行ってしまった。
そして、慌ててそれを追う騎士さんたち夫婦。
「なぁ、アズ」
「なあに、レン?」
残り者同士、ちょうどいい。
顔を見合わせたアズリアとレンは、そんな雰囲気で手にした花冠をなんとなく交換しあった。
「アズ、すげえ可愛い。……似合ってる」
いつもの軽い調子じゃない。
しみじみと、頬を少し赤らめて言うレン。
その眼差しが、いつもよりさらに甘く溶けている気がして気恥ずかしく、アズリアは視線を伏せながら礼を言った。
そのまま、自然な流れで祭りを回る。
とても楽しかった。
旅の最初こそ「魔術師様」として丁寧に接していたけれど、アズリアとレンの関係はとっくに気安いものになっていたから。
屋台で軽く食べて、たくさん笑って、エールを数杯飲んだ。
「泡、ついてんぞ。鼻の下」
「ありがと……でも、レンもだよ?」
「マジ!?」
お酒が回ったせいだろうか。
仲間達との合流先になっている宿へ帰る道すがらだった。
触れた手を、パッと握られて、振りほどく理由もなくて。
手を繋いで歩く足取りは、ふたりともひどくゆっくりだった。
「レンって魔術師なのに、おおざっぱだよね」
「悪かったな。でも、いちいち細かい男よりいいだろ?」
ひとけのない裏路地を歩きながら、アズリアはつい口を滑らせてしまった。
「そうね。優しくて、格好良くて――わたし、レンのこと好きだよ」
すぐに「仲間としてね」と付け加えるつもりだった。
魔術師と非魔術師は、結婚できない――未来を紡げない。
散々ちょっかいを掛けてきているレンだって、それはわかっているはずだ。
だから、こんなのは、祭りの熱とエールの酔いに惑わされた一時の冗談。
「なーんて……っ!?」
「……っ、アズ」
「!」
ぐいっと身体が、ものすごい力で引っ張られた。
レンがアズリアの腕を引き、裏路地の壁に押し付ける。
「っ、レン……っ!?」
冷たい壁に背中があたった。大きな手が、そっとアズリアの頬に当てられる。
「……マジかよ、今の」
まっすぐに見下ろしてくる灰青の瞳が、燃えていた。
「レン」
「俺のこと……好き、って」
「…………」
心臓がバクバクと高鳴る。
エールのせいか、頬に触れられている手のひらから温度が伝わったせいか――体中が、熱い。
「……うん……、っ!?」
身体の熱に浮かされるように、アズリアは頷いてしまって――その瞬間、顔が近づいてきて、唇がふわりと重なった。
熱い。
エールのにおい。
(レン……酔ってる……?)
あれだけ見え見えのアプローチをかけてきていても、絶対に一線は越えなかったのに。
ちゅ、と音を立てて唇が離れ、でも再び重なって、今度は口の中にするりと舌が入り込んで――熱い感触が口の中一杯に広がっていく。
頬の手が、そっとアズリアの後頭部に回る。
ちゅ、ちゅ、と耳に響くようなキスの水音。
香水だろうか、それともレン自身の匂いなのか。植物のような瑞々しいさわやかな匂いがふわりとアズリアの鼻をくすぐった。
重なった唇はちょっとだけ震えていて、それでも溶けるように熱い。
立ったまま壁に押し付けるようなキスを繰り返され、何度目かでアズリアの背が壁をすべり落ちそうになった瞬間、腰を抱かれ、腕の中にそっと抱きかかえられた。
「アズ……宿、行くぞ」
腰だけを抱かれているアズリアの身体は、既に宙に浮いてしまっている。
微かに頷けば、浮いた足の先から、脱げかけていた靴がぽとりと落ちた。
向かったのは、仲間たちとの待ち合わせの宿ではない。いわゆる――そういう用途のための宿で、アズリアも拒まなかった。
花祭りの最中だからか、宿の空気もどこか熱い。
受付は、冠を被ったふたりを見て、黙って部屋へと案内してくれた。
部屋に入るなり、そのまま小さな寝台に寝かせられ、再び口づけられ――そしてふたりはそこで夜を明かした。
エールに酔い、花祭りの熱に浮かされて。
好きを口にしてしまって、なんとなく抱かれた一夜。
そう、アズリアは思っている。
❁
なんとなく、でつながった関係だ。
だから、旅の終わりと同時に解消だろうと思う。
身体は恋の熱に浮かされながらも、アズリアの心は冷静だった。
レンから毎日のように、好きだ、可愛い、と告げられている。
普通の女だったら、舞い上がってのぼせてしまうだろう。
(でも――わたしは夢中にならない。だって、わたしはレンの妻にはなれないもの)
この王国で魔術師は、魔術師としか結婚できない。
魔術師は、人智を超えた力を持つ貴重な人種。
特殊な血統を持ち、魔術師同士の子でないと能力は継げない。
だから魔術師の結婚は、国によって厳しく制限・管理されている。
魔術師でないアズリアは、所詮、レンの「欲の解消相手」にしかなれない。
レンだって、それを分かっているだろうに。
――結婚もできないくせに。
わけわかんない。
心でそう悪態をつきながら、それでもアズリアは彼の傍を離れられずにいる。
わたしが魔術師だったらよかったのに、というどうしようもない思いは、深く胸の奥にしまって鍵をかけた。
❁
結局一年の旅の末、勇者様は「魔王」を無事に討ち、旅はあっさりと終わった。
そして凱旋後、勇者パーティを褒め称えている国民に、さらに驚きの事実が明かされる。
アズリアも驚いた。
なんと「勇者様」である少年は、このバルクウェイ王国の第三王子だったのだ。
側妃の子でありながら、勇猛果敢に国を救った王子なんてドラマチックすぎる! と、あっという間に国中が彼の話で持ちきりとなり、アズリアは少しホッとした。
パーティの一員として自分が注目されるのは、どこか気恥ずかしかったから。
凱旋後も、数日続く宴と式典。
魔王たる魔獣の脅威から解き放たれた王城の広間からは、今日も華やかな演奏と、楽しげな声が漏れ聞こえてくる。
アズリアはひとり、酔い覚ましも兼ねて回廊の隅で考え込んでいた。
王からは褒章の打診。
そして王宮薬師の上司から「いつ戻って来るんだ」という無遠慮な意向確認があったのだ。
(褒章はともかく……仕事は、どうしようかな)
アズリアは、戦災孤児だ。
生まれ育った地方の田舎都市は、魔獣に滅ぼされた。
特別自分を「かわいそう」などと思ったことはないけれど、事実として帰る故郷はない。
そして後ろ盾がない分、仕事でも舐められることが多かった。
薬師の仕事は好きだけれど、戻っても相変わらずこき使われるだけだろう。
(旅……楽しかったな。薬師がいない町で調合を教えたり、他の薬師さんの調合を教わったり。またあんな風に旅をして……なーんて、一人じゃ無理だよね。「魔王」が倒されたっていっても、小さい魔獣はまだいるもの)
そんなことをぼんやり考えていた、その時だった。
「アズ」
ふと名を呼ばれて胸の奥が小さく跳ねる。
顔を上げて振り返れば、そこにはレンが立っていた。
長い魔術師のローブの裾が、ところどころ焦げたままだ。
恐らく魔王との戦いのときのままなんだろう。
その雑さが本当にレンらしくて、それだけでアズリアはつい笑ってしまった。
「お疲れさん」
「レンもね」
回廊へと射し込む月光に照らされるその顔は、相変わらず整った顔立ちだなぁと思う。
凱旋パレードでも、街の娘や貴族の令嬢から熱い視線を浴びていた。
魔術師で、さらにこんなに性格がよくて、顔までいい。きっとこの先、お相手に困ることなんてないだろう。
「宴はいいの? レン、お酒好きでしょ」
「エラソーなジジイと飲む酒は、あんまり好きじゃねぇんだ」
「もう……」
レンは肩をすくめて、ニッと笑う。
その笑い方も、アズリアは好きだった。
両手では足りないくらい、彼に抱かれた。
こうして前に立っているだけで、柔らかくて甘い気持ちに満たされていく。
明るい言動に、ちょっと抜けてる所。
優しい気づかいと、整った外見。
そして――色香のこもった、ちょっと意地悪な仕草。
好きだ、と思う。
でも――だからこそ、ずっと「欲の解消相手」にはなれない。
だから、ここでさよならだ。
「なぁ、アズ」
「今までありがとね、レン」
何かを言いかけたレンを遮り、アズリアは明るい声を頑張って出した。
口の端をなんとかあげて、柔らかく微笑む。
「旅も無事に終わったし、わたしたちも……終わりにしよっか」
「……は?」
目の前に居るレンの灰青の瞳がスッと細くなったのが分かった。
「レンも、そろそろちゃんと国のために結婚相手探さないとでしょ」
「結婚相手? 探す?」
「う、うん。……だってわたし、レンと結婚できないし」
「何だよそれ」
その瞬間、フォン、と楽器のような音がして、周囲に分厚い結界が張られたのがわかった。
「!!」
「どういうことだよ、アズ。他に好きなヤツでもいんのか? もしかして、勇者か? アイツ、いっつもアズのことエロい目で見てたしな……あのクソ王子」
「!? ち、違うよ!?」
「それとも……まさか、騎士さんか?」
「ぜ、絶対違うって!!」
怖い、けど。
でもちゃんと言わなくちゃ。
今のままの関係は、無理だって。
「わたしは、レンの奥さんになれないのに傍にいるの、辛いし、嫌、だから……」
声が震える。
ぽたりと涙がこぼれてしまった。
ダメだ。明るく言おう、って決めてたのに。なのに――。
唇が震えて、止まらない。
そのまま顔を背けようとした瞬間、アズリアはレンに抱きすくめられてしまった。
「ちょっと、待てよ! マジで意味わかんねぇし、お前何言ってんだよ!?」
「わかるでしょ!」
「わかんねぇって! 俺たち、とっくに恋人同士じゃねえのかよ!?」
恋人同士。
「恋人……便利な言葉よね、レンこそふざけないでよ! 魔術師は、魔術師としか結婚できないのに! どうせ違う人と、子ども、つくるのに……! わたしじゃレンと未来がないのに、そんな風に誤魔化さないでって言ってるの!」
身体をよじって、その腕から抜け出す。
肩で息をしながら見上げると、レンは目を見開いてキョトンとしていた。
「なんだそりゃ……? 魔術師としか結婚できない?」
「言葉通りの意味よ」
「……!? ふざけんな! ヤバすぎるだろ、この世界!」
子供でも知ってる常識じゃない、とアズリアの言おうとしていた言葉は、レンの大声で喉の奥に引っ込んでしまった。
「んな決まり、知らねぇよ! 勝手に決めるな! そもそも俺は、ここの生まれじゃねぇから! ってか魔術師じゃねーし!」
「えっ……?」
魔術師じゃ、ない……?
でもじゃあ、旅の間のあの力は?
キョトンとしてしまったアズリアを見て、レンは、ああもう、とぐしゃりと自分の黒い前髪に指をさし入れた。
「聞いてくれ、アズ。俺が勇者だ! 俺が異世界から来た、本物の『勇者様』なんだよ!!」
その言葉に、今度はアズリアが目を見開く番だった。
❁
「じゃあ、パーティの……あの、勇者様は?」
唖然とするアズリアに、レンは真実を教えてくれた。
現王はもともと、母親の身分は低いが、才能あふれる第三王子を後継にと考えていた。
けれど、他の王子の派閥から反発を受けるのは必至。
そんな折に行われた、魔王の侵攻に対する切り札「異世界からの勇者召喚」。
「王様は第三王子にハッキリとわかる功績を作りたかった。俺は、勇者として担がれたくなかった。だから役を入れ替えたってコトさ」
そうして役割を偽ったまま、ふたりは魔王を討った。
パーティの仲間たちにも、その事実を隠したままで。
「俺は『チキュー』ってとこの『ニホン』って国から来たんだよ」
「チキュー……。ニホン……?」
聞いたことのない世界だし国だ。
首をかしげるアズリアに、知らねぇよなぁ、とレンはどこか寂しそうに笑う。
「じゃあレンは……その、わたしが好きだって伝えたときには、本気で?」
「当たり前だろ!? そもそも俺、こんなにもアズに一目惚れで、夢中で、マジ頑張って話しかけてたのにわかってなかったのかよ!?」
「そんなに頑張ってたんだ……」
彼らしい言葉に思わず笑ってしまう。
「だって……アズ、ホント、マジ、どタイプで。小さくて一生懸命で、なんかこうちょこまかしてるのに、しっかりしてるし。頑張り屋で、みんなのためにちょっと頑張りすぎちまうとことか、そこも好きだけど、無理して欲しくなくて……俺に何かできたらって、それでずっと気になって。優しいし、明るいし、顔も、声も、話し方まで超可愛いしさ。んで身体も……あ、いや! これは、その、別に俺、身体目当てってわけじゃなくてそこもいいけど、その……いや、これは」
勝手に勢いよくまくし立て、さらに勝手に慌てだしたレンの焦り具合がどこか可愛らしくて、面白くて。アズリアはついに声を上げてくすくすと笑ってしまった。
困ったように頭を掻くレン。弱りきっているその姿が、可愛らしくて――愛おしい。
「……なぁ、アズ」
笑い声が治まった後。
アズリアをそっと抱きしめて、レンは静かに言った。
「旅が終わったら、元々アズには全部言おうと思ってた。でも……こんな急に、ごめんな」
「ううん、大丈夫。わたしこそ……」
「いや、俺がアズに『好き』って言われて浮かれてたんだ。……ずっとアズは、誤解して苦しんでたんだよな?」
「……。いいの、もう」
いつも抱きしめられるたびに、心のどこかが軋んでいた。
でも今は、もう悲しくない。
そっと腕が解かれた。
身をかがめるレンの視線とアズリアの視線がまっすぐに合う。
その灰青の瞳は、静かだけれどしっかりとした熱を帯びていた。
「アズ……アズリア。俺と、結婚してほしい。それで、その――無茶苦茶言ってる自覚はあるけど、俺の世界に一緒に来てくれねぇか?」
「!」
「……俺は、アズと家族になって、お前を幸せにしたいんだ。ずっと、お前と一緒にいたい。こっちの世界だとその――色々、結婚とか邪魔されんだろ。だったら」
「……レン」
まっすぐな言葉に、頬が熱くなる。
胸が痛いくらいに鳴っている。
どうしようもなく、嬉しかった。
戦災孤児であるアズリアは、天涯孤独だ。
この世界は、嫌いではないけど好きでもない。
しいていうなら、旅の仲間たちは好きだ。だから彼らと二度と会えないと思うと――それは寂しいけれど。
戦いが終わったら、レンとは離れなきゃ。
そう思っていた。
でも――彼の隣にいていいのなら、こんなにも望まれているのなら。
この世界に未練がないわけじゃない。
でも彼とこの世界を天秤にかけた時。
――アズリアは、レンを選びたいと思った。
「……幸せに『される』だけじゃやだよ?」
「え?」
「レンと『一緒に』幸せになりたい。わたしも、あなたが好きだから、あなたを幸せにしたいの」
そう言って、アズリアはレンに自分から抱きついた。
心臓の鼓動が重なっている。
「アズ……!」
「レン。……あなたの世界に、わたしを連れて行って」
ふたりの唇はもう一度、ゆっくりと重なった。
❁ ❁ ❁
❁ ❁ ❁
❁ ❁ ❁
アズリアはまだ「えれべーたー」が少し苦手だ。
ふわりと足元が浮くようなあの感覚がどうしても落ち着かない。何度乗っても胸の奥がそわそわするのだ。
でも今は、もう叫んだりはしない。
レンの生まれた世界「チキュー」。
アズリアがここに来てから、季節はもう一周していた。
ここには魔獣もいないし、夜になっても街は明るい。
ボタンひとつでお湯が沸いて、薄い板の中には遠くにいる人の声や絵が映るという便利な「カデン」という魔道具がある。
レンによれば、魔術ではないらしいのだけれど。
「チキュー」は不思議なものばかりだ。
でも、同じものもある。
薬草であり、薬師だ。
乾いた根や葉を煎じ、人の身体を整える仕事。
レンを異世界へ喚んだ古い転移術式には、世界を渡る者がその地で生きていけるよう、名前と言葉、居場所を整えるチカラもあるらしい。
アズリアは「チキュー」では「杏」として、老夫婦が運営している小さな漢方薬局で働いている。
ひとりひとり話を聞いて、その人に合うように調合する。もちろん大変だけれど、やりがいはあって毎日充実していた。
「ただいまぁ……」
玄関を開けると、部屋の奥からぱたぱたと足音がした。
「アズ、おかえり!」
顔を出したレンは部屋着姿で、もう魔術師のローブを着ていない。
けれど、柔らかく少し跳ねた黒髪も、嬉しそうに細められる灰青の瞳も、アズリアの知っているレンのままだ。
「遅かったな。お疲れさん」
そう言いながら、レンは自然な仕草でアズリアの鞄を受け取った。
「パソコン」という魔道具を使って在宅仕事をすることが多いレンは、家事をこまめにこなしてくれる。
それでもアズリアもこわごわながら「ソージキ」と「ショクセンキ」、それに「センタッキ」くらいは使えるようになった。
まだ時々、急に話し出したりするから、ビックリしたりはするけれど。
この世界の魔道具「カデン」は凄い。
「なぁ、アズ。風呂にするか? 飯にする? それとも――」
「……レンってこと?」
「大正解。どうする、アズ? 俺は準備万端だぜ?」
自分の腰に手を回す夫は、ニィ、と口の端を上げて笑った。
相変わらず、アズリアの好きな笑い方だ。
「……全部、欲しいな」
「いいねぇ。俺の可愛い奥さんは、欲張りだなぁ」
レンだってそうじゃない、と見上げると、彼は何も言わずに身をかがめ、アズリアに深いキスをしてきたのだった。
そして結局、次の日の朝。
「色々」とあって、せっかくのふたりで休みを合わせて取った休日だというのに、元々約束していた『エイガ』に行くのは、昼過ぎになってしまった。
「アズ……ほんとにごめんな。身体、大丈夫か?」
「うん、行こう。『エイガ』楽しみなの」
アズリアは、ニッコリ笑ってレンの腕を引き、玄関の扉を開けた。
並んで歩くと、自然な仕草で手を握られる。
当たり前の日々がこうして続くこと。
ふたりで一緒にいられること。
改めて、幸せだと思う。
不安はあるけれど――レンがいればきっと大丈夫。
隣で歩くレンを見上げたあと、アズリアは高い空を見上げた。
抜けるような快晴。
午後の優しい太陽の日差しが、ふたりを祝福するように照らしている。
この世界でアズリアは――今日もレンと生きていく。
【Fin】
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