第38話:そして誰も突っ込まなかった
目の前で、一人の男が「エスプレッソ」を飲み干そうとしていた。
王国最強の騎士団長。彼が掲げた小さなカップには、伝説の存在であるヒーの莫大な「魔力」――純粋な「経験値」が満ちている。
それを喉へと流し込んだ瞬間。
「…………ッ!?」
オルドランの瞳が、かつてないほど大きく見開かれた。
その瞬間、凄まじい密度のエネルギーが、彼の四肢の隅々にまで強引に流し込まれていく。あまりの衝撃に、彼の手から離れたカップが、カランと乾いた音を立てて地面に転がった。
「う、うおおおおおおおおおおおっ!!」
魂の底から絞り出されたような、凄まじい咆哮。
テラスの空気が物理的な衝撃波となって震え、周囲の木々から小鳥たちが一斉に飛び立つ。だが、その絶叫は長くは続かなかった。
オルドランはそのまま、力が抜けたように仰向けにひっくり返り、ドサリという重々しい音を立てて、気絶したのである。
「……オルドランさん!?」
俺は慌てて駆け寄った。
そばでは、今回の「共犯者」であるヒーが、落ち着いた様子で彼の様子を眺めている。
「あら、大丈夫よヤマダ。一時的に意識を失っているだけ。ほら、顔色もいいし、呼吸も深くなっているわ。むしろ、これまでよりずっと健康そうじゃない? 顔も笑っているみたいよ?」
「……本当に大丈夫か? さっきの叫び声、ただ事じゃなかったぞ。魔力を体内に取り込む衝撃って、こんなに激しいものなのか」
「仕方ないわよ。あれだけの純粋な力を一気に飲み込んだんだもの。そういうことだってあるわ」
ヒーは「想定内」と言わんばかりに、言い放った。
だが、俺の心境は穏やかではない。
今回は、俺とヒーによる「レベル譲渡」という禁断の実験の結果なのだ。いわば、完全に俺たちの責任である。
そんな、沈黙が支配する現場に、朗らかな声が響いた。
「ヤマダー! ただいまー!」
お花畑へ遊びに行っていたミーとフー、そして騎士団の面々が戻ってきた。
……なんて、最悪すぎるタイミングだ。
俺は冷や汗が止まらなくなった。
現場に到着した、第三者の視点で整理してみる。
舞台は、静まり返ったテラス。
そこには、俺、ヒー、そして倒れているオルドラン。傍らには、正体不明の「黒い液体」が入っていた形跡のある不審な器。そして、王国最強の男が、白目を剥き、満足げな顔で、大の字になって倒れている。
残りの騎士団員たちは、ミーとフーと一緒に、花畑にいたのだ。今日来ている騎士団員の数は、5人。
俺、ヒー、フー、ミー、オルドランも合わせると、合計10人がこの場所に集っていた。そのうち、騎士団長のオルドランが倒れた。
犯人がいるとすると、この場にいた俺かヒーのどちらかである可能性が極めて高い――などと、名探偵に推理されるまでもない。どこからどう見ても、一番近くにいた俺たちが、団長に毒を盛った「実行犯」にしか見えないのだ。
(万事休す、か⋯⋯)
俺は覚悟を決めた。ここで下手な嘘をついても余計に怪しまれるだけだ。正直に言おう。俺は腹をくくった。
「あれー、団長どうしましたー? お昼寝ですか?」
真っ先に駆け寄ってきたのは、若手騎士団員のカイルだった。どうやら事態に気付いていないようだ。俺は震える声を押し殺し、祈るような気持ちで事実を伝えた。
「あの、カイルさん……その、実はオルドランさんが、黒いエキスを飲まれたところ、急にこのような姿で倒れてしまいまして……」
一瞬の静寂。
俺は目を閉じて、ただただ祈るしかなかった。
「あはは! 本当にすみませんねえ、ヤマダさん! うちの団長がまたご迷惑をおかけして。とうとう我慢できずに気絶しちゃいましたか!」
「……え?」
俺は思わず目を開けた。カイルだけでなく、背後にいた他の団員たちも、怒るどころか「やれやれ」といった様子で苦笑いしている。
「いやぁ、最近の団長のハマり具合からして、いつかこうなると思ってたんですよ。きっとあの飲み物があまりに感激する味だったから、興奮が限界を突破して倒れちゃったんでしょうね。ヤマダさんたちには、いつも手間をかけさせて申し訳ないです」
「あ、ああ……そう、でしたか。……はは、私たちは、全然、かまわないですよ⋯⋯」
俺は引き攣った作り笑いで応じるしかなかった。他の団員たちも、「うんうん、団長ならありえる」と深く頷いている。カイルはさらに親しげに語りかけてきた。
「あ、ヤマダさん、聞いてくださいよ。実は、団長が持ってくる器、最近どんどん大きくなってるのに気づいてました?」
「……器が、ですか?」
「はい。最初の頃は、他の団員と同じくらいのサイズだったじゃないですか。でも団長、自分だけ『この至福をより多く味わいたいものだな』と言い出して、最近じゃサイズの大きいものを特注して持ち込むようになってるんですよ。もうガブガブ飲みたいんでしょうね」
そうだったんだな、意識していなかったから気付かなかった。
「仮にも騎士団長なら、もう少し節度をわきまえてもらわないとねえ⋯⋯アダダダダダッ!?」
突如、カイルの悲鳴が響いた。見れば、気絶していたはずのオルドランが、音もなく立ち上がり、カイルの肩を背後からガシッと掴んでいた。
「……誰が、節度をわきまえていないと?」
「だ、だだだ、団長!? いつの間に!起きるの早っ! っていうか、いつもより力が強い!」
オルドランの瞳は、これまでにないほど鋭く輝いていた。全身から溢れ出る圧倒的な覇気。その動きは、明らかに以前の彼を凌駕していた。
「待て、カイル! 逃げるな! やはり王都への帰還など待たず、この場で『教育』が必要なようだな」
「ひええっ!? 団長、いつもより足早くないですか!? 逃げられない!」
凄まじい速度で逃げ回るカイルを、それ以上の速度で追い詰めるオルドラン。
その光景を見ながら、俺は内心でこう思っていた。
「黒い液体を飲み干したら、目の前で本人が白目を剥いて倒れた」。名探偵でなくても、一秒で説明できる未解決の謎が、これ以上ないほど明白に残されていたはずなのに。なぜ誰も突っ込まないんだ⋯⋯。
◆◇◆
「いやはや、ヤマダ殿。一度ならず二度までも、このような見苦しいところをお見せしてしまって申し訳ない」
騒動が一段落した後、オルドランは、以前よりもずっと落ち着いた、それでいて力強い動作で椅子に座り直した。
「いえいえ、とんでもないです。こちらこそ、私の提供した『エスプレッソ』が濃すぎたのかもしれないです。ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、強烈な味わいでした。このような貴重な機会をいただけたこと、感謝に堪えません」
オルドランは深く頭を下げた。その謙虚な姿勢に、俺は少し後ろめたさを感じつつも、隣で澄ましているヒーと視線を交わした。
時は、あの洞窟での企みまで遡る。
「ねえ、ヤマダ。あの卵、まだあるわよね?」
「ああ。確かヒーと初めて会った時に一つ食べたよな。その後追加でもらった三つのうち、最後のひとつが残っているよ」
「特製エスプレッソ」を運ぶ準備をしながら、俺は、ヒーからもらった卵のことを思い出した。追加の卵のうち、二つは商人のクレメルに売って金貨に変えたが、残り一つは手元に残っていた。
「あれを、どうにかして国王に献上できないかしら」
「それはどういう理由で?」
「王国周辺のモンスターが凶暴化しているって話だったわよね。卵の力で、周辺のモンスターが近寄ることを防げるはずよ。抑止力として期待できるわ」
なるほど、と俺は感心して聞いていた。
「確か、ヒーが過去に、傷ついた冒険者に卵を持たせたことがあった気がするけど……そんな力もあったか」
「ええ。でもあくまで、凶暴なモンスターが人々を襲うのを抑制できる程度よ。無いよりはあった方がいいというくらいね。より強力なモンスター、例えば漆黒の竜クラスが相手なら、効果はあまり期待できないわね」
「そうか。それでも人々への被害が少しでも防げるなら、持って行ってもらったほうが良さそうだな」
ヒーの提案に、改めて人々への優しさを感じた。
「ヤマダが必要なら、いつでも言って」
「ありがとう、お金の件は大丈夫そうだ。それじゃ、あの『エスプレッソ』を提供した後に、オルドランさんに渡してみるか」
俺は、これまで感じていた疑問を改めて口にする。
「どうしてそこまで、オルドランさんと国王に貢献しようと思ったんだ?」
「貢献なんて、そんな立派な話じゃないわ。色々と話を聞いていて、ただ私がそうしたかっただけよ」
「そうか」
「それに⋯⋯」
ヒーは告げた。
「お花のお礼もしたかったから」
そして再び、意識を現在に戻す。
「オルドランさん、実はお渡ししたいものがあるんです。これ……『オーラムバード』の卵です」
「なんと! これが⋯⋯。噂に聞いたことがありますが、これほどのオーラを感じるとは……」
「私は詳しくはないのですが、魔物を遠ざける働きがあるとか。これを王国に保管してもらえれば、近隣の凶暴なモンスターを遠ざける抑止力になる気がしたんです」
オルドランは絶句し、震える手で卵を見つめた。
「その話、私も遠方の伝承で聞いたことがあります。……王もさぞ喜ばれるでしょう! ヤマダ殿の功績として、ぜひ王へ報告しよう!」
「いえ、私から献上したことは伏せておいてほしいのです。よろしければ、騎士団が発見したということにしていただけませんか?」
「なんと! このような偉大な功績にも関わらず、なぜお名前を伏せるのですか!?」
「お気持ちは大変ありがたいです。ただ、私は自身の栄誉よりも、王国と人々の平和を願っています。それに、私はここで安静に日々を暮らしたいだけですので⋯⋯」
「ヤマダ殿……。いったい、どこまで聖人なのだ、貴方は⋯⋯」
オルドランは一瞬戸惑っていたようだが、俺の説明を聞くと、深く感動した様子で頷いた。
「承知した。責任を持って王に届けよう。案じてくれるな、王はこの卵を決して悪いようには扱わないと、この私が保証しよう」
「ありがとうございます」
俺は隣にいたヒーと目配せし、安堵の息を吐いた。
「それでは、私からなんとか上手く王へ説明しておこう。何から何まで、感謝する」
「こちらこそ、色々と注文をつけてすみません。よろしくお願いします」
「ああ。では、そろそろ我々も失礼しよう。……本日は、この素敵な景色を部下たちに見せることができて本当によかった。今度は、今日来られなかった騎士団員全員で伺わせてもらえば幸いだ」
「はい! ぜひ!」
門へと向かうオルドランは、途中でふと立ち止まり、自分の身体を不思議そうに眺めた。
「どうも不思議な感覚なのだが……今日、あの花々を見てからなのか、精神が澄み渡る感覚で、まるで力がみなぎっているようだ」
「はは、そうですか。心がリフレッシュされたんですかね⋯⋯」
俺は内心でドキリとしながら、愛想笑いで見送った。
「それではまた」
夕焼けの中を去っていく騎士団の背中を見送りながら、俺は心の中で、誰にも届かない「自白」を呟く。
(オルドランさん、すみません。実は、あなたを気絶させたあの飲み物を飲ませたのは、私です……)
そんな俺の密かな謝罪を乗せて、涼やかな夕風がテラスを通り抜けていった。
オルドランと王国の人々の無事を祈りながら、俺は今日という長い一日の終わりを、静かに噛み締めた。




