第33話:記憶
拠点の空気は少しだけ変わった。
特にフーとミーの二人は、暇さえあれば、あの場所へと足を運んでいる。
ただじっと土を見つめている。以前の俺なら、不思議に思ったかもしれない。
「ヤマダー! ぽーちゃん、お顔だしたよー! でてきたー!」
種を穴の中に埋めて、数日後、ミーの弾んだ声がテラスに響き渡った。
俺が慌てて駆け寄ると、そこには土を力強く押し退けるようにして、小さな、本当に小さな緑色の芽が顔を出していた。
「……ぽーちゃん」
フーが、消え入りそうな、けれど愛おしさが溢れ出したような声でその名を呼ぶ。
二人は芽の周りをぐるぐると取り囲み、飽きることなく見つめていた。
「ぽーちゃん、どんな気分かな?」
「ミーが、お水あげるよー」
ミーは自分の体内で浄化した水を、まるで壊れ物を扱うように丁寧に振りかけていく。
その様子をハラハラと見守りながら、フーは少し離れたところから自身の火を柔らかく灯した。
フーは、自分の魔力を繊細にコントロールしていた。かつては近づくものすべてを灰にしかねなかった炎が、今は春の陽だまりのような温度になっている。
それにしても、成長が早い。
この世界の生命力か、それとも彼らの愛情か。
(……水ってどれくらいあげるものだっけ? 何か教えてあげた方がいいかな⋯⋯)
ふとそんな疑問が頭をよぎったが、俺は口を閉ざした。
正直に言って、俺は園芸の知識なんて持ち合わせていない。何より、彼らが試行錯誤しながら注いでいる愛情を邪魔したくなかった。
まあ、たんぽぽのような花なら、元の世界ではアスファルトの隙間からでも力強く生えてくるようなタフな強さがあるはずだ。ここなら陽当たりもいいし、きっと大丈夫だろう。何より彼らがついている。
俺は黙って、彼らのお世話を見守ることに決めた。
◆◇◆
しかし、森の生活は穏やかなだけではない。
ある日の午後、空が急激に暗転した。
特有の、湿り気を帯びた風が吹き抜け、遠くで雷鳴が轟く。この森に定期的に訪れる猛烈な雨――スコールだ。
「ぽーちゃんがー!」
ミーの悲鳴に近い声。
滝のような雨が降り始め、地面を叩きつける。まだ芽吹いたばかりの「ぽーちゃん」にとって、一滴の雨粒さえも岩石のような衝撃に違いない。
フーは叫んだ。
「ヤマダ! あの大きな葉っぱ、余りある?」
「え? ああ、予備ならあるはずだ」
「ミー、いこう! あれを運ぼう!」
「うんっ!」
二人は雨の中を弾丸のように飛び、テラスの隅に置いてあった予備のギガントリーフへと向かった。
大きな葉を二人で抱え、強風に煽られながらも必死に「ぽーちゃん」の元へと運び込む。
俺は、手を止めた。
俺が助けるのは簡単だ。手を貸して、さっと被せてやれば済む。けれど、これは彼らが自分たちの意志でやり遂げたいと思っているはずだ。
二人は協力してギガントリーフを斜面に固定し、即席の屋根を作り上げた。
ギガントリーフがスコールによる衝撃音を、静音に変えてくれる。
「……でも、ミー。これ、ずっと被せてていいのかな?」
ふと、フーが不安げな声を漏らした。
「うーん、わからないー」
「お日様が当たらないと、ぽーちゃん、元気なくなっちゃうよね? いつもお日様を向いていたから」
その言葉に、俺は少し驚いた。
彼らなりに、この花の性質を理解しようとしていたのだ。
「雨が止んだら、外そう」
「うん!」
フーの決断に、ミーもうなずいた。
スコールは数分程度で過ぎ去る。その短い間だけ、二人は葉を必死に押さえ、吹き込む風から芽を守り続けた。
やがて、嘘のように雨が止み、雲の切れ間から強い光が差し込んだ。
二人はすぐさまギガントリーフをどかし、日光がぽーちゃんの全身に当たるようにした。
「ぽーちゃん、無事だねー」
「良かった。ぽーちゃん……」
雨に降られた二人は、日光を浴びて輝く芽を見つめ、誇らしげに寄り添い合っていた。
◆◇◆
嵐を乗り越えた、ぽーちゃんの成長は飛ぶような速さだった。
芽吹いてからわずか一週間。
茎はぐんぐんと天に向かって伸び、立派なギザギザの葉を広げ、その先端に固く結ばれた蕾を宿した。
ミーは毎朝、葉に付いた泥を優しく拭い、フーはそばで見守っていた。
そして、その日の朝がやってきた。
「――きて。ヤマダ、起きて」
まだ薄暗い明け方。フーに揺り動かされて、俺は目を覚ました。
「……ん、フーか。早いな⋯⋯」
「いいから、来て」
促されるままにテラスの外へ出ると、ひんやりとした朝の空気が頬を撫でた。
東の空が白み始め、金色の光が森の木々の間から差し込み始める。
その光が、斜面の一点に集まっていた。
「……わあ」
思わず、感嘆の声が漏れた。
そこには、鮮やかな黄色い花が咲き誇っていた。
朝露を纏った花弁が、朝日に照らされてキラキラと輝いている。その姿は凛としていて、それでいて、どこか力強く咲いていた。
「綺麗だね、フー」
俺がそう言うと、フーはどこか誇らしげに、けれど感極まったように「うん」と短く答えた。
「ぽーちゃん、すごいー! きらきらしてるー! 笑ってるみたいー!」
ミーが隣でピョンピョンと跳ね回る。
「ぽーちゃん、すごいね」
フーは、朝日に照らされた花のそばで、ふわふわとゆっくり漂っていた。
フーはこれまで、その熱のせいで周囲を傷つけるしかなかった。
花が綺麗だと思っても、近づけばその命を奪ってしまう。触れることさえ許されず、ただ遠くから見つめることしかできなかった。
俺はふと、自分自身の過去に思いを馳せていた。
元の世界にいた頃、俺は足元に咲く花なんて、見向きもしなかった。たった一度でさえも。
朝から晩まで仕事に追われ、数字に追われ、目の前のタスクを消すことだけに必死だった。
もしかすると、会社へ向かう道すがら、俺は沢山の“ぽーちゃん”を、知らずに踏み潰してきたのかもしれない。その色や形を見ることもせずに。
誰かに言われるまで気づかない。
時間が経つことも、季節が変わることも、年を取ることも。
けれど今は、ただ一輪の花と、それを心から喜ぶ彼らの姿を見つめていた。
きっとそれは、かつての俺が非効率だと切り捨てていた景色だった。




